8月9日「そして雨」
二十一日目
雨音で目が覚めた。北村はベットから手を伸ばす。スケッチブック。鉛筆が、転がる。
雨か、糞。
呟く。雨が嫌いだ。どうしてだろう、志乃のあの日の表情を思い出す。溜めて溜めて逃げ続けていた、答えに押しつぶされそうな顔を。志乃の笑顔は思い出せなくても、あの日の泣き顔は鮮烈だ。あの小さな体で夏目陽一郎を守ろうとする、その顔を──。
北村は起きあがった。あの子の影響か、最近無性に絵を描く自分がいる。家に帰って、無造作にスケッチをする。それは時計だったり、窓から見える景色だったり、吉崎だったり。──吉崎は、俺なんか描くな! と怒るが、この絵は優理にあげようと思っている。吉崎の彼女は、写真の一枚一枚を宝物にして、大切にしている。だからきっと、この絵も宝物にしてくれるに違いない。
「いい男だぞ、吉崎」
と小さく笑った。粗雑で乱暴だが誰かの為に怒れる勇気のある奴だ。不器用で、口下手だけど。口より先に拳が出てしまう性格には改善の余地は有りだが。それでも吉崎は北村の親友だった。
「うっとおしいな、雨が」
窓から外を見おろす。まるで滝のように、降り注ぐ。アスファルトに小さな川を作り、風で木が揺れる。とても、絵なんか描ける状態じゃない。
きっと彼女も来ない。北村はそう思った。
「おい、岳志、朝飯ができたぞ」
父親が一階から声をかけるのが聞こえた。
「今、行くよ」
と答えて、もう一度、窓を見やる。雨。いない。彼女はいないはずだ。北村は窓に背を向ける。いる訳無い。こんな雨の中──いるはずがない。
朝食は父親が作る。夕食は息子が作る。毎度のパターンだ。男同士の料理だから、シンプルで作りやすいモノにパターン化される。
欠伸をして、雨の音をかき消そうとした。階段をおりて、一階のキッチンへ。父は丁度、盛りつけていた所だた。ご飯、みそ汁、自家製の漬け物(父はこれだけにはこだわる)それから鰺の塩焼き。男同士で、これだけ作れば充分だろう。
「おはよう」
「あぁ……おはよう」
会話はそれだけだ。二人は席につき、静かにいただきます、と言う。
北村の味噌汁をすする音。
父の漬け物を噛む音。
北村の牛乳を飲む音。
父がリンゴジュースを飲む音。
それが毎度の朝の会話だった。が、今日はそれ以外の本物の会話があった。
「今日は絵が描けないだろ」
「え? うん……」
「行きたそうな顔だな?」
「え?」
北村は目をパチクリさせた。父は小さく微笑を浮かべた。
「……誰かに会いたそうな顔をしてる」
「は?」
北村が唖然とすると、父は少しイタズラめかした笑みを浮かべる。父のこんな顔を初めて見たかもしれない。発言内容よりも、そんな父の表情に言葉を失った。北村は父と母の夫婦の会話をそう覚えていない。だが、もしかしたら二人っきりの時は、父はこんな風に母に笑いかけていたのかもしれない、と思った。
我が父ながら思う。食えない男だ──。同じことを祖父も言っていた気がする。
「もし上手くいったら、家につれてこい」
「はぁ?」
名前も知らない子なのに。自分の気持ちすらよく知らないのに、いきなり家に連れて来られるか。そう反撃しようとしたが止めた。かえって、冷やかされるだけだ。それより、耳につく雨の音を何とかしたい。雨なのか、ノイズなのか、砂嵐なのか。とにかく、この音は北村を苛々させる。
雨だ。雨。だから居ないよね? だって雨だよ? 君はいない、来るはずがない──。
北村は自然と窓から外を見つめていた。
「じゃ、仕事に行ってくるからな」
と父は立ち上がった。
「片づけは頼んだぞ」
「盆休みはいつからだっけ?」
「12日から一週間だな。高校生のように夏休みなんか無いんだよ」
と笑った。珍しく多弁だ、と思う。こんなに会話のある日は珍しい。だから雨なのかもしれない。だったらいい迷惑だ、と北村は小さく笑った。
「何だ?」
「何でもないよ」
もう一度、北村は小さく笑った。
雨。
それだけなのに。
そけれだけなのに。
約束を破るの?
それだけなのに。
それだけで約束は破るの、君は?
あの人と同じように約束を破るの?
君もあの人と同じなの?
同じなの?
私はいつも待って、待って、置いていかれるの?
君も私を置いていくの?
あの日と同じ雨。
彼女は呆然と立ちつくしていた。
あの日、あの人は笑顔で手を振っていた。行ってくるよ、そう彼女に囁いた。いつもと同じ。何一つ変わらない。まるで同じ。ただ鬱陶しいほどに雨音が耳についた。あの人は行ってくるよ、と言った。そして行った。彼女は言ってらっしゃい、と言った。帰ってきたら、と約束をした。私の宿題を手伝ってね、と笑顔で言った。
あの人は聞こえないふりをして、小さく笑った。
そして出かけた。行った。
行った。後ろ姿が、やけに目蓋の奥底に焼き付いている。
行った。
そして、逝った――。
暴風に晒されて、海で溺れていた幼児を助けようとしたらしい。幼児は助かった。でも、あの人は帰ってこなかった。あの人の背中を見たのは、あの日が最後だった。彼女はあの時、幼かった。今の背丈の半分も無かったから。涙は流れなかった。かわりに、何が何なのか、事態を理解していなかった。
そのまま今に至っている。今でも、現実の事として認識できいない、と思う。
単語は分かる。
母は言う。
お兄ちゃんはね、天国に召されたのよ。キリスト教を信じている両親は、そう彼女に諭した。祈りましょう、精一杯。彼の冥福を。優しい父が言った。普段は大好きな二人だが、その時だけ彼女は、二人の事を詐欺師と呪った。
『死』と書くのは簡単だ。でも、その『死』の意味を理解できない。
眠っている、目を覚まさない彼を見たら、納得できたかもしれない。
その死体にお別れを言えたら、きっと納得できたかもしれない。
そうしたら彼女は泣けたのかも、と思う。
後は腐っていくだけのあの人の体を精一杯叩いて。でも、その遺体すら彼女は見られない。そのままお別れをしなくてはいけなかった。墓には遺骨は無い。写真だけが、みんなに微笑んでいる。
呆然と、呆然と『死』という言葉について考えた七歳の夏。
出した答えは、神様を呪います、というまるで機械みたいに呟いた、一言だった。
あの日も、こんな風に雨が降っていた。
嫌いなのに。
雨なんか、思い出したくもないのに。
雨。
雨。
雨。
雨。
雨。
冷たい--------。
「いた?」
唖然として、北村は声をかけた。打ち付ける雨。傘をさして、呆然と彼女を見やる。その瞬間、北村は傘を投げ出して、彼女の元へと駆けた。
「……嘘つき」
やっと彼女が言った言葉は、その一言だった。
「君は嘘つきだ」
絞り出すように言う。目は虚ろ。彼女は一人、雨に打たれるがままに、体を晒していた。白のワンピースがすっかりと水を吸い、彼女の肌が硝子のように見える。足下には青い傘が、転がっていた。
北村は自分の行動を疑った。彼女を優しく抱きしめていた自分がいた。
「俺が嘘付きなら、君は馬鹿だ!」
ぐっと抱きしめる。どうしてそこまでして待っていたんだ? 名前だって知らないのに。お互いの事すら何一つ知らないのに。変だ。おかしいじゃないか?
彼女は少し唇を綻ばせる。そして北村の胸に顔を埋めた。
「だって約束したじゃない――」
「約束したからって、こんな雨の日まで来る事ないじゃないか!」
怒鳴る。どうして自分がここまで怒っているのか、自分でも分からない。彼女の事が心配だった。それだけだった。バカだと思う。常識で考えれば普通は来ないだろ?
でも彼女は来た。そして自分も来た。バカなんだ、バカだ。俺も馬鹿なんだ。
「君もお兄ちゃんみたく、いなくなっちゃうのかと思った──」
絞り出すような声で、彼女は言う。
「え?」
北村は唖然として、彼女の顔を見た。すがりつくように、北村に抱きつく彼女。あの時の志乃とは別の表情。その顔に色塗られているのは、重すぎるくらい重い悲しさだった。その双眸を濡らしていたのは、雨じゃない。それは北村にも分かった。
「馬鹿だ」
「馬鹿なんだもん。私は、馬鹿なんだもん」
泣きじゃくる。まるで子供のように。北村は彼女を強く抱きしめた。そうしなくちゃいけないと思った。見捨ててなんかいけなかった。
もっと強く彼女を抱きしめた。そうしないと彼女が消えそうな──ああ、そうか。だから、俺は彼女のことが気になっていたんだ。
絵を覗き込む彼女。北村の描く絵の世界に逃避したそうな、そんな目。脆くて弱くて、突けば壊れてしまうくらいに、その瞬間だけは無防備に絵を見つめていた。本当に壊れてしまいそうで怖くて、安堵して眠る彼女の顔を描きたくなったのだ。
「名前だって知らないのに」
「でも君は来たよ」
「来なかったら、どうするつもりだったんだよ?」
「ずっと待ってたんじゃないかな」
無理に笑って見せる。その表情がまた痛い。
「名前だって知らないのに」
「桃」
「え?」
「笹原桃って言うの」
弱々しく笑う。
「………」
「君の名前は?」
「北村」
耳元で、呟くように言う。
「岳志」
まるで魔法の言葉のように。雨が声をかき消す。それでも、身動きせず彼女の体温を感じ取ろうとした。
雨は止まない。
それでも、彼女のことを強く抱きしめた。
北村は彼女がシャワーを浴びる音を聞いた。それだけなのに、何もやましいことなんか無いのに、ドキドキする。父がいなくて良かった、と思う。
北村はインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。ブラックのまま飲んだ。
彼女は堰を切ったように話しをした。
七歳の時に死んだ兄の話を。
優しかったの。宙を見る桃の表情は今にも壊れそうだった。本当に大好きだったのに、約束したのに、あの人は帰ってこなかった。私ね、泣かなかったんだよ、あの時。
微笑する。優しく、柔らかく。
北村はコーヒーを飲む。喉が焼けるくらいに熱い。そして苦い。でも、味が感じないような、そんな変な感覚だった。
北村は奥の和室の仏壇に目を向けた。
多分、彼女と自分じゃ、悲しむ差が違う。同じ死でも。北村はただ整理できていないだけだ。自分があの人達の息子なんだ、という事も実感がわかないくらい、家族は希薄だったから。それでも繋がっていて、夫婦は不器用な愛情を捧げ有っていた。
それに比べると、桃の激痛は、とても痛い。
多分、普段は学校でも元気で活発な子なんだと思う。常に抱いているモノなんか、少しも見せないくらい。
乾燥機の回る音。桃がシャワーを浴びている音。外の雨。
初めて、名前を知った。頭にバスタオルを乗せて、そんなことを思う。
君の名前を初めて知った──。
桃は嬉しそうに笑った。北村は呆然と彼女のそんな表情を見つめていた。
無防備な笑顔で、彼女の奥底で疼く痛みすら忘却したように、満面の微笑みで言う。
とシャワーの音が止まった。でも、雨の音が止まない。
耳障りなくらいに激しく降り続けている。
「君もシャワー浴びておいでよ」
と桃がバスタオル一枚体にまいて、入ってくる。北村は唖然として、思わず目を反らす。自分の顔が熱いのを実感する。
「な、なんて格好で入ってくるんだよっ」
「だって乾燥機、まだ回ってるもん。君って結構、純情なんだねぇ」
からかうように言う。クスクスと笑みがこぼれた。すっかりと気を取り直したのか、表情にいつもの笑顔が戻っていた。
「あのね──」
と言う北村の唇を、桃は自分の唇で塞いだ。北村は目をパチクリさせる。
「どうして来たの?」
「それは君が約束だ、って!」
「私が言ったから?」
「そうじゃなくて、約束を破るのは嫌だって言ったじゃないか!」
「名前も知らないのに」
「それは俺が言った台詞だろ」
「知らなくても良かったんだ」
「は?」
「私ね、お兄ちゃんの事ばかり追いかけていた。好きになる人もお兄ちゃんにそっくりの人を追いかけていたの。でもね、君は全然違うタイプなはずなのに、変だよ? おかしいよね?」
「………」
「でもね、君の顔見たらほっとしたの。すごくほっとしたの。変なの、おかしいの。自分の事がよく分からないくらい、変だよ」
「変なのは」
北村は桃を引き寄せた。
「俺だって、そうだよ」
「君が私を変にした」
「君が俺を変にしたんだ」
「君が私を好きにさせたんだ」
「え?」
北村はその言葉の意味を考えた。桃は少し怯えた目で、北村の返事を待っている。
明らかに志乃に抱いていた気持ちとは違う感情が、北村の奥底で囁いている。
恋に恋したかった、思春期特有の憧れと。
誰かを本気で慈しみ、愛したいという人間特有の感情と。その明確な差が。
北村は柔らかい微笑を浮かべていた。
「人にキスしてから、そういう事を聞くのは卑怯じゃない?」
と言って、彼女の頬に唇を重ねる。
ついさっき名前を知っただけなのに。ほんの少しだけ過去を聞いただけなのに。それまで全く赤の他人だったのに。今でも何も知らないのに等しいのに。
――今は、無性に知りたいと思う。
「桃が俺を好きにさせたんだ」
囁くように言う。大胆に、そう言ってのける自分に驚く。だが、迷いは無い。そのまま、桃の唇に自分の唇を重ねる。囁く雨音。同じく囁く言葉。
彼女は北村の髪を撫でた。
「冷たいよ、体も髪も。風邪ひくよ」
「誰のせいだよ」
北村は笑う。だが桃は笑っていなかった。真剣な目で、北村の目を覗き込む。
「君はいなくならないんだよね?」
「…………」
「ねぇ?」
泣きそうな声。激昂しそうなほど、声が震えている。北村はその手にそっと触れる。暖かい、と思う。もっと触れたいと思う。それより何より、もっと彼女の事を知りたいと思う。
「もちろん」
だから北村はそう言った。もっともっと知りたいから。彼女が約束を望むなら、その約束を守ろうと思う。もっともっと笑わせてあげたいから。志乃を笑わせてあげたいと思っていた頃とは違う。表情に笑顔が欲しいからじゃない。彼女に心から安心と、幸せをあげたいから。
人を好きになるって、そういう事なのかもしれない。だから北村は精一杯、桃の事を抱きしめた。
無心で抱きしめた。
桃はそんな北村を抱き返し、その胸に顔を埋めた。
耳障りなくらい、雨音は止まない。
そのかわり、乾燥機が止まった。
二人は顔を見合わせて、笑った。どうやら、同じ事を考えていたらしい。
「私は着替えてくるから、君はシャワー浴びなさい」
「はいはい」
北村は笑って答えた。
雨は止まない。それでもいい、と思う。名前が分かったから。それだけで嬉しい。名前が分かったから、次はもっともっと知りたいと思う。笹原桃という女の子のことを。
何も分からないからこそ、君のことをもっと知りたい。
だから、明日こそは晴れますように──北村はそれだけを願った。
明日こそ、桃の絵に色を塗るから。
明日また、あの公園で君と会いたいから。
明日、君のベロにも報告してあげたいから。
だから、お願いです。明日は晴れにしてください。明日こそは、明日こそは必ず──桃の絵を描かせてください。
明日、雲一つ無い空の下で、桃に会いたいから──。
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