8月17日「それぞれの想いと思惑と」
二十九日目
「日向、どういう事だ」
電話の向こう側で変わらず、パソコンのキーボードを叩く音。困惑した声は隠せないでいる。そんな兄を見るのが意外だ、と思う。
「どんな手を使ってでも、と照は言ったじゃない?」
「それは言ったがな」
と手を止めて、パラパラと紙をめくる音がする。きっと参加者名簿を見ているに違いない。舌打ちをする音がまた何とも苦々しい。日向としては笑いをこらえるのに必死だ。どんな手でも、と言ったが、まさかこんな手でくると思ってみなかっただろうから、なおさらだ。まして経営立て直しをグループの基盤から見直そうとしていた照だからこそ、たいした出費ではないにしろ、即決承認はできない。しかし承認したくなくても、しないといけない。まさにどんな手でも、だ。経営上はマイナスであっても、夏目の本家に陽の息子達を呼ぶためならその犠牲は黙認する。ある意味では溺愛に近い。陽との血を分けた子達への思い入れは。
「どんな手でも」
日向は淡々と言う。
「だからどんな手でも使ったわ」
「しかし」
兄、照の声は渋い。それもそうだ。陽の息子達とともに、何より厄介な敵を招くに等しい。特に朝倉晋也の存在はデカイだろう。陽と茜を結婚させた張本人、夏目との血縁を切断した男。因縁とすら言ってもいい。大財閥がこの男の策に足をすくわれた。腹ただしいが、陽と茜は幸せだった。それは照にも分かっているつもりだ。
「まぁ、いい」
「いいんだ」
「……随分、嬉しそうだな」
「そんな事ない」
嬉しいかもしれない。照の采配通りに動いていない現実が。何よりきっと陽一郎達は自分で決断を下す。きっと何にも縛られることなく。それが何であれ、日向は応援してあげたい。そういう気持ちが強い。
「日向、お前は」
「え?」
「陽一郎を自由の鳥にしたいんだな。陽のように」
「……」
見透かされている。
「だがな。何度も言ったが、雛鳥を保護する親鳥は必要だ。あいつ達はまだ幼い」
「そう照が思いたいだけなんじゃないの?」
「母様の為だ」
と照の声は力が無い。照自身気付いている。陽一郎達の意志の強さは。陽の息子だ。軟弱な意志でもって自分達の生活を守り通している訳がない。誰の力も借りず今の今まで 生活していたからこそ、照は救ってあげたい手を差し伸べたいと思うのかもしれない。不器用、なんて不器用だ。
「陽一郎は承諾したんだし、何の問題も無いでしょう?」
日向は小さく苦笑した。知っている。あえて無視してきたが。照は照なりに苛まされてきた。陽と茜を祝福できなかった事への罪悪感から。そのまま最後まで祝福してあげれなかった事への後悔が。彼を蝕んでいる。
死ぬという事はこんなに残酷なことなんだ、と思う。
伝えるべき言葉が伝えられない。
それは日向だってそう。弟に伝えたかった、話したかった言葉を伝える術は無い。照の気持ちは分かる。
「……なぁ日向」
「何?」
「あいつらはやっぱり誰の力も借りないで生活し続けるつもりなのか?」
「そうよ」
「子どもなのに」
「子どもじゃないわ。もう巣立ってる」
と大きく息を吐く。
「陽だって、照の思う子どもじゃずっと無いのよ」
「だが」
「違う」
と日向は彼の幻想をあっさりと否定する。
「過保護は陽も陽一郎も嫌うわよ」
「そうか」
と力なく、いつもの鋭さも無く、照は電話を置いた。
無機質な電子音。ツーツーツー。日向も受話器を置く。朝倉の存在で照は気弱になっている。でも朝倉がいるいないは問題ではなく、陽一郎達の意志は揺るがない。陽一郎は兄弟達と別れたくないし、兄弟達は陽一郎が志乃と別れてほしくない。この事実はどんな事をしても変えられない。
照はきっと過信していた。絶対に陽一郎を自分の元におけることを。
今度こそ陽を手離したくない。でも、それは無理だ。
最近の陽一郎と志乃、そして陽大、美樹、晃、亜香理を見て思う。
彼らは飼えない。絶対に。
喫茶長谷川にはいつも通り人がいない。
美樹が居て誠がいる。いつも通りの風景。後1時間もしたらお昼になるから、そうしたら少しは賑やかになるかもしれないが。店主は息子の淹れたコーヒーを堪能する。最近、思う。自分より息子のいれたコーヒーの方が美味い気がする。美樹は紅茶を好む。誠は丁寧に紅茶の葉の香りを壊さないように、消さないように淹れていく。このまま家業を継いでしまえ,と言いたいが繁盛してないからそうも言えない。
「美樹ちゃん」
と長谷川は声をかける。きょとんとして顔を上げる。
「明日から旅行の話聞いてるだろ、陽一郎から?」
「あ、はい」
困惑した表情。そりゃそうだろ。昨日その話を聞いて明日出発。場所は岩手県。地名はまだ公表してない。夏目の里と言えば陽大は過剰反応で拒否しそうなのは目に見えている。
「うちも一緒に行くからよろしくな」
「は?」
と予想通りの反応は我が愚息。教えてないんだから知らないのは当然だ。
「なんだそりゃ」
「ということで誠、留守番頼むぞ」
「おちいょっと待て、クソオヤジ」
と少なからず、その目に怒りが宿っている。
「俺、そんな話聞いてない」
「言ってないからなぁ」
「……ないからなぁ、じゃない。俺は仲間はずれかよ」
「人聞きの悪い。お留守番だよ、我が店の経営安定化の為に、貢献しろ」
意地悪く笑う。噛み付いてくるかと思ったが、誠は特に反撃しない。
「分かった、まぁのんびり行ってこいよ」
「あ?」
これは以外な反応だ。息子をからかうつもりが、当の本人は達観している。
「店潰れるのはまずいし。こんな店でも贔屓にしてくれる人がいるし」
こんな店でもは余計だ、と長谷川は思った。
「そうよね」
と美樹も頷く。なんだかイヤな予感がした。
「私も手伝うよ、マコちゃん。おじさんはおばさんとゆっくりしてきて下さい」
長谷川は開いた口が塞がらない。まずい、それはまずい。それが理由で美樹が行かないとなっては朝倉が怒るに違いない。一人が行かなければ、夏目兄弟はみんな行かない。それは目に見えている。
「冗談だよ、冗談」
から笑い。力が無い。怪訝な顔で息子は自分を見ている。ごもっともだよ、糞。
「みんなで行くんだよ。せっかくだ、たまにこんな夏休みもいいだろ」
「だけど、いいのかよ? 休んでも」
「いい。休んでもたいして売り上げは変わらない」
と長谷川は笑った。
笑った、その笑顔が止まる。そういえばと思う。長谷川家には今まで夏休みも冬休みもなかった。妻とともにこの小さな城を切り盛りしていくだけで精一杯。息子に対して何かをしてあげれることのないまま、誠は大人になりつつある。そして誠は大人だ。自分がガキのままか。何だかとても情けない話だ。アホか俺は。アホだ、アホ。今までそんな事、思いつきもしなかった。
「そっか」
誠は小さく笑った。
「母さん、喜ぶな」
「あ、ああ」
長谷川は少し泣きたくなった。
美樹はそんな二人を見てニコニコ笑っている。頭のいい子だ。きっと、誠には勿体ないくらいの子だ。この子がいてくれたら、きっとうちの店は地味ながら、もっとうまくいくかもしれない。
「ラーメン屋の親父さんが言ってたよ」
「は?」
長谷川は目をパチクリさせる。ラーメン屋の親父とは常連のラーメン「熊五郎」の大膳熊五郎の事だろう。
「長谷川のやり方と俺のやり方は違う。俺はアイツの味がとても好き だってさ」
と誠は笑う。
「俺、言われた時よく分からなかったけどね」
「けど?」
「今、この夏休みにずっとこの店にいて分かった。俺もこの店が好きなんだって」
「そうか」
長谷川は息子のコーヒーを味わう。自分の目で豆を選び、それを客に出す。紅茶の葉も、食材も全てそう。店主としてこだわりぬいた結果を理解してくれる妻と息子と客と。多くは望まない、それが長谷川の至福。それを誠に面と向かって言われた気がして、何だか照れる。
陽もそんな事を言っていた。
『ここでコーヒー飲むのが一番落ち着くなぁ』
と茜にむかって笑いかける。のんびりとそこで時間は過ぎていく。子どもは長男に任せての一段落。二人だけの憩いの場。この店はそんな場所になっているらしい。その陽と茜がいなくなっても変わらない時間が流れている。時間は動く。残酷に。いつか陽と茜の存在を忘れてしまったら、この店の時間は壊れてしまうんじゃないかと思う。
だってなぁ? お前らが俺のコーヒーを誉めてくれたから。ただ飲ませてやりたかったから店を出したんだぜ?
「誠、お前も一緒に来い。陽一郎にはお前が必要だ」
「は?」
父の言葉の意味が分からない。意味深だが、長谷川はそれ以上は語ろうとはしない。だから誠も問わない。父が陽と茜を心酔しているように。誠もまた夏目の兄弟達の意志と、陽一郎と志乃の強さを信じている。どんな逆境でだって奴らは乗り越えてきた。美樹もそうだ。今さら、何がおきても驚かないだろう、陽一郎は。
誠は美樹を見た。困惑している。
目で合図する。
大丈夫、ただの旅行だから。そう信号を送る。その確証は何もないけど。
縁側で西瓜を頬張りながら、庭に種を飛ばす。
静かな北村家は夏休み、やけに騒がしい。若さゆえか、と北村は苦笑する。息子の岳志の表情が軟らかい。恋は人を強くするのか成長させるのか。自分にもそんな事があったよな? と亡き妻に語りかける。ある意味では失敗を繰り返して少年は大人になる。少年達の苦いエピソードを少年達自身から今まで聞いて、北村はなおそう思う。
縁とは不思議なものだ。
あの風変わりな夏目が北村にまたちょっかいを出してきたわけだ。いや、ちょっかいをだしてしまったのは愚息の方かもしれないが。
初めてこの街に来て何も知らない夏目を連れ回す朝倉に連れ回されて、北村は四苦八苦したものだ。あいつは今も昔も無謀極まりない。だが妻は、そんな朝倉を見ながら、
「友達なんだから助けてあげなさいよ」
の一点張りで。妻の従兄弟だからと多めに見てはいたが、彼奴とはどうも相性が合わない。いわば動と静だ。それも仕方ないかもしれない。その中和剤となってくれたが夏目だ。あいつは不思議な空気の持ち主だ。今でも感化されて抜けきれないでいる。いたるところで写真を撮り、配り、人の不細工な顔をいい顔だと誉める。余計なお世話だと言いたいが、夏目の撮る写真は自分じゃないと思えるくらい「いい顔」なのだ。あれには降参だ。
「そうなんですよ」
と桃は言った。
「夏目君の写真は本当に、みんないい顔なんです」
心から言う。少し岳志が不服そうな顔だ。幼いぞ、息子。
「北村の方がいい絵描くよ」
と吉崎がすかさずフォローする。
「高志にフォローされても嬉しくないよね、北村君」
ニコニコ笑って優理が言う。
「絵と写真は違うよ。演劇と映画くらい」
と桃は苦笑して言う。少し北村のご機嫌をとるようにその目でのぞきこみながら。
「分かってるよ」
「ヤキモチだ」
「そーじゃない」
「いーよ、ヤキモチ妬いてくれた方が私は嬉しい」
若者よ、こっちが恥ずかしくなるな。どんなに傷を作っても、憎みあっても今なら笑って許せる時期らしい。どんなに本当に好きになった時期でも、それを乗り越えられる強さを手に入れたら、それ以上の愛情を傾ける事ができる。以前の人よりなお大きく。なお広く。それはある意味では残酷でもあるかもしれないが。
恋が終わると他人になる。その中で桃は面白い。素晴らしいクリエイターとして、決して岳志の前でも遠慮はしない。きっと学校が始まっても平然と夏目の長男と会話するだろう。そういう子だ。まぁ、愚息のように大きく恋をしたわけではないからかもしれないが。恋とアートを別に考える。お菓子とご飯は別腹という女の子特有なのか、演劇を志す女優の卵特有なのか。非常に興味はある。最近思うのは、役者で化ける力はあっても、岳志の前では化かす事を何一つ知らないということだ。この子は正直でストレートすぎる。
夏目、朝倉、長谷川。
本当に縁とは不思議なものだ。いい加減腐ってしまえ、とも思う。一人にしてくれと思えば思うほど一人にしてくれない連中だ。それくらいが丁度いいと妻は言う。その妻がいない。夏目がいない。世界は静まりかえっている。考えてみたら、なんて静かすぎて気味が悪い。朝倉も静かだった。つい昨日までは。
いつもなら拒否したかもしれない。面倒くさいは常套句だ。それを昨日は即決で引き受けた。面識はないが、彼らは面識がある。縁とは不思議だ。決して綺麗な縁じゃない。吉崎にいたっては自己嫌悪でボロボロだ。けっして新しい皮が塞ぎきって彼らを強くしているわけでもない。
「明日、旅行に行くぞ、みんな」
「は?」
目を点にしたのは息子だ。正常な反応だ。唐突で悪いな。
「町内会の旅行という事になっている」
「なってるってなんだよ?」
「お前達、夏目陽一郎を守りたいか?」
「え?」
「あいつの親は俺の親友だ」
沈黙。北村は喋りながら、西瓜の種を飛ばす。彼らの表情は重い。何から話すか。奴らが街に来た時か。それとも朝倉と長谷川との腐れ縁か。妻との出会いか。一つずつゆっくり話すしかない。口下手には厄介難儀極まりない。重い口を開けて話し出す。
一番最初は順番なんか関係ない。朝倉の庭でやった夏目陽と有馬茜の結婚式だ。ささやかながら、街の全ての祝福がそこに集まった。それを言葉にするのはとても難しい。でもそれを何より伝えたかった。
「あの時、初めて知ったんだ。この街の人は赤の他人じゃないってな」
口下手が口下手なりに。北村はだが必死だった。彼らの助けが必要だ。本当は危惧する必要はないのかもしれない。だが夏目本家は、陽の息子達を欲しがっている。陽の実家の内情まで詳しく知らないし知った事でもないが、陽と茜が築き上げたこの街での時間を破壊される事は、自分の街を破壊されるに等しい。
違うな。独り言が口のなかで消える。朝倉も俺も夏目陽一郎を通して、自分が今まで大切にしてきたものを守りたいだけだ。子どもを理由にして。だが子ども達にまでそれを背負わせる義務は無い。
「いや、いい」
口を閉じる。話は途絶えた。
「教えてくれ」
と言ったのは岳志だった。
「親父、この旅行で夏目陽一郎はどうなる?」
「最悪、この街からいなくなるな」
北村は吉崎と顔を見合わせる。その目にまったく怒りも悔恨も憎しみもない。
「夏目陽一郎がいなくなるという事は朝倉はどうなるんだよ?」
「どうもならないだろう。兄弟はバラバラ、彼女とも別れなくちゃいけないだろうな」
自分より他人。息子は平気でそう言う。彼の友達もだ。桃は困惑した顔で、優理はその展開を見守っている。
「守れってどういう事?」
桃の質問に北村は頷く。まさかこの子達が、こうも過剰反応するとは思わなかった。
「夏目の思惑を街ぐるみで阻止するんだよ。夏目の息子を誰にも渡さない」
「分かった」
と岳志は真顔で応じる。
「僕も協力するよ」
「俺もだ」
と吉崎も即答する。桃も優理も力強く頷く。
北村は目頭が熱くなった。こうもあっさりと彼らは陽一郎を守るという。面識がそうあるわけでもないし、決して好意的な邂逅でもなかったのに。
どうして少年の頃はこんなに素直に、誰かに手を差し伸べられるのか。
きっとあの時、北村も長谷川も朝倉もそうだった。今ならこんなに躊躇してしまうのに。
北村は再び口を開く。
夏目陽と有馬茜が結婚式を挙げた日の事を。
全ての祝福と拍手が同時に鳴り響いた日の事を。
たかが結婚式に町中の全ての人が送った賛辞を。
「オメデトウ」
の言葉が次ぎから次へと人の口から紡ぎ出されて。
その場に居合わせなかった人の為に、たかだか二人の結婚式で組まれたパレードを。
街中がお祭りのように湧いた日のことを。
そして祝福された二人から生まれた子ども達には幸せになる権利がある。そう思う。
だから――。
「みんなで行くか」
北村は微苦笑で応じる。彼らに語るべき物語はまだまだ終わってもいないが――。
陽一郎と志乃は晃と亜香理をつれて河原を歩いていた。陽一郎の手には、本日の夕食の材料が抱えきれないほどある。メインシェフ志乃は今日も気合い充分だ。ただし、若い夏目家の面々はあっさりとそれを消化してしまうが。特に食いしん坊将軍の異名をもつ晃は、志乃が来てからというもの毎晩、夕食が楽しみで仕方ないらしい。それは陽一郎も同じだと、つい苦笑が浮かぶ。
晃は川へ石を投げる。水面に三回飛び跳ねて、沈む。
亜香理も真似するが一回で沈んでしまう。
「晃、どうやってるのぉ?」
「へへへ、内緒」
「ずるーいずるーい」
「ずるくないよ」
ともう一度実演。今度は四回、跳ね上がる。
「こういうのはさ、見て覚えろ。って頭領が言ってたよ」
大工・三沢真吉頭領、82歳。まだまだ現役。なんのことは無い。仲のいい頭領から教えてもらっただけである。亜香理はニッと笑って
「それなら私も頭領に教えてもらうもん」
とニコニコで言う。なんといったって頭領は小さな子どもと女の子にはめっぽう弱い。晃はしまったと舌打ちする。そこからは二人とも川へ石の投げ合いだ。石がどれくらい跳ねるかよりも飛行距離の競走になったらしい。陽一郎はそれを微笑ましそうに見守っている。
「陽ちゃん?」
「うん?」
「今回の旅行、私、行くのは反対」
「え?」
「日向さんが来てから最近、なんだか落ち着かない」
「志乃、そういう事は言うものじゃないよ」
「なんで陽ちゃんはそういう風に受け入れる事ができるの?」
「受け入れないといけないからだよ」
「そうやって、陽ちゃんは私の事を諦めたんだ」
「そうだよ」
肯定して微笑する。でもね、と囁く。陽一郎の息が志乃の耳元で漏れる。それくらい二人は近い。
ちゃぷ。ちゃぷ。石が水面に沈む。
今は志乃を離すつもりはないからね。誰が何と言おうと。
ちゃぷちゃぷ。ちゃぷちゃぷ。力一杯、亜香理の投げた石が小さな岩に当たってさらに遠くに飛んだ。
「やった! やった!」
「まぐれ、まぐれ」
天真爛漫、天衣無縫。二人はさらに石投げに興じる。
陽一郎は志乃の手を握る。
「だからね、今は何にがおきても怖くない」
「私は怖いよ」
「陽大も同じ事を言ってたよ。でも、俺はみんなの事、信じてるから」
「私や陽大君達のこと?」
「勿論そうだし、この街の人たち全員を」
父は言う。挨拶は一日の始まり。大好きな人には大きな声で。大嫌いな人には、少しずつ声を出して大好きに変えるんだ。好き嫌いはいけないよ。もっと好きになれたら世界を変えられる。
母は言う。志乃ちゃんと同じくらい大切な人を見つけたら、きっともっともっとお話する事が大好きになるんじゃない? ただあんまり仲良くなりすぎて志乃ちゃんと喧嘩するのも困るけどね。
「私はね、いつか陽ちゃんが遠くに行ってしまうのかなぁ、って。それが怖いの」
「行かないから」
「本当?」
陽一郎は力強く頷く。それは何よりも曲げることのない約束。何度も何度も志乃に囁いた。それでも志乃は納得できないらしい。不安で泣き出した日もあった。帰るのがイヤだと駄々をこねた。まるで子どものように。陽大か見ていようが、美樹がいようが遠慮なく。陽一郎の負担にはなりたくない。でも陽一郎と離れている時間があるというだけで、志乃は嫌だった。もっと傍にいたかった。それが我が侭だと分かっていても抑えきれないくらい、最近、不安が志乃の胸で疼いている。
陽一郎を奪われる──日向に。夏目の親戚達に。その不安から。
そんな事は無いと陽一郎がなだめればなだめようとするほど。
だから最近は言葉より行動にうつす。
陽一郎は躊躇する事なく、志乃の唇に自分の唇を重ねた。
石の投げる音が止まった。
顔をあげると晃と亜香理がマジマジと二人を見ている。
「キスだ、キス」
「やっぱりお兄ちゃんと志乃ちゃんは結婚するしかないよねぇ」
と下の二人は嬉しそうに騒いでいる。照れと焦りと呆れと困惑と。陽一郎はどうしていいものかと頭を掻き、志乃は真っ赤になって俯いている。まぁ良識的に考えても、この場所で口づけを交わす二人が明らかに悪い。
だが陽一郎は志乃の手を離さなかった。
志乃も陽一郎の手を絶対に離さなかった。
「どこでもいいよ」
と陽一郎は歩きながら、志乃に囁く。晃と亜香理、二人で陽一郎の持っていた荷物の半分ずつ持ちながら、いつもの調子で駆けだしていた。
「転ぶなよ、亜香理。卵はいってるから」
「はーい」
と器用に晃から逃げ回っている。裏の無い笑顔。いつからか忘れていた笑顔。陽一郎は志乃と顔を見合わせて小さく笑んだ。陽一郎と志乃にもああいう時期があったからよく分かる。ただ彼らは兄妹である分、擦れずにお互いの気持ちを表現している。オトコかオンナじゃなく。産まれてから一緒にいる家族として。
そう考えると、あの時離れてしまった自分たちが何だかとても寂しい。離れていた理由がとてもくだらなく思える。その反動がなおさら、なのかもしれない。
その手が強く握られて離れないのは。
「行こう、父さんの故郷に」
「え?」
志乃は陽一郎の顔を見た。
「おじさんは嘘をつくのが下手だよ」
と唇を緩ませて言う。子どもは大人が思うより子どもではないのだ。毎日。
街の人達は必死に隠していたが、日向が動いている時点で想像できた事だ。ただし、騙された演技は続けるが。その方が都合は良い。それが夏目家の決断だ。どう転んでも、決めるのは陽一郎達で。他の人間が親になる事は有り得ないし、離れ離れの生活を送ることも有り得ない。まして陽一郎が志乃の傍を離れる事は絶対に有り得ない。もう諦めるのは御免だから。絶対に我慢なんかしないから。
「行こう」
迷いの無い一言に志乃は頷いた。陽一郎がそう決断しのなら、志乃も迷わずついて行く。
夏目、本家へ。
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