7月30日「雨音」
十一日目
雨が耳につく。北村はむっくりと起き上がった。じっとりとした空気に、北村は瞼を開ける。起きたくない、と思うが、体が眠りを拒否する。そして何度目かのため息。折角の夏休みもこれじゃ台無しだ、と自分でも思うが、それでも何も考えたくないと思う。
昨日までの快晴が嘘のように、雨が降っている。
(もっと降れ)
と思う。雨が傷を洗い流してくれるなら、なおいい。だが----と北村は苦笑した。北村が志乃を好きだったという事実は変わらないし、志乃が夏目陽一郎を好きだという事実も変わらない。我ながら、馬鹿だと思う。吉崎に言われなくても思っていた。
「どうしてあの手を離したんだろ?」
その疑問すらむなしい。終わった後の悪あがきなのかもしれない。絶対にもう手が届くことはないから、なおのことそう思うのかもしれない。吉崎は志乃が裏切ったんだ、と罵るがそうじゃないと北村は否定した。志乃は裏切ったわけでも傷つけたわけでもない。ただ、自分の本当の気持ちに気付いただけなのだ。それが志乃の表情から痛いほど伝わってきていた。
それでも北村はその事には一切触れなかった。触れたら終わる。それに気付いていたから、口にすら出さなかった。その時点ですでに、夏目陽一郎に負けていた、と言われればそれまでだ。
北村は小さく笑った。
やれやれだ、と思う。いい加減起きないと、それで一生が終わってしまいそうだ。体を起こして、窓の外を見やる。雨がさらに激しく打っていた。
北村は窓をぼんやりと眺める。
だが、釈然とない。何か嫌な予感──になるのだろうか。腹の底でくすぶるような、志乃に抱いていた感情とはまめるで別物の感情が囁いていた。
「みんな天気のせいにできたら、楽だろうな」
と苦笑して言ってみるが、その感情は拭えない。
思い当たる事がなくもないが、まさかと首を振る。
「まさか、そんなわけないか」
吉崎の納得していない表情が、脳裏によぎる。それも、強い雨音がかき消す。夏はまだ長いのにな、とため息をつく。こんな感じで夏が終わっていくのでは、勿体なさすぎる。やれやれと、北村は背伸びをして、朝食を食べるためにキッチンへと降りていった。
「夏目陽一郎だな」
と声をかけられて振り向いた瞬間、振り上げられた拳が頬を殴打する。
傘が飛び、陽一郎はしたたかにアスファルトを転がる。雨がその体を冷たく打つ。
「な、なにを……」
と目を白黒させる陽一郎にの胸ぐらをぐっと掴む。その目には怒りが宿っていた。
「吉崎君……?」
志乃は呆然と呟く。吉崎は陽一郎を離し、志乃へと目を向けた。その視線がとても冷たい。志乃は思わず息を飲んだ。兄妹達も唖然として、その事態を見つめている。吉崎は、陽一郎へ視線を戻す。
「いい様だな」
「…………」
陽一郎は立ち上がる。吉崎は拳を振り上げた。それを陽一郎は、冷静にかわす。ヒリヒリとした緊張感を嘲笑うように、雨が強く少年達を打ち付ける。
どうして? と志乃は混乱する。今日は折角、陽一郎のバイトが休みなので、みんなで街のデパートに買い物に行く予定だった。幼い晃や亜香理の為の家族サービスまはずだった。志乃にとっては、幼い夏目家も大切な家族だ、と思う。その大切な一日が、あっさりと壊された。しかも、志乃の良く知っている人に、だ。
「朝倉、幸せそうだな」
と吐き捨てるように言う。志乃はビクンと震えた。吉崎が拳を固めた。
吉崎が怒っている理由は想像できた。志乃は目を閉じる。私は卑怯だ、呟く。北村に自分の決め持ちを告白して、全てかぜ片付いたと思っていた。でも、そんなわけが無い。それじゃ、北村の気持ちはどうなる? 吉崎の目が辛辣に、そう志乃を責める。
「北村を裏切って、満足だろう。自分だけが幸せで?」
痛い、と思う。その言葉の一つ一つが痛いと思う。否定できたら、と思う。言い訳する事ができたら、と思う。でも、志乃は何一つ言い返せなかった。それが全て事実だから。唇を噛んで、その言葉を受け止める。
と、北村の言葉を遮ぎられる。亜香理の小さな体が、志乃の前に立ったからだ。
「志乃ちゃんをいじめる人は許さない」
毅然とした目で、北村を睨む。晃も妹にならう。やんちゃ坊主な子供の目じゃない。一人の男として、晃は志乃の前に立った。
「兄ちゃん、志乃ちゃんにあんまり変な事を言うと、許さないぞ」
と小さな拳を握る。と、その二人に陽一郎は小さく微笑して、下がらせようとする。
「陽兄っ!」
「晃、亜香理、どいてろ。この兄ちゃんは何がなんでも、俺を殴りたいらしい」
「分かっているじゃねーか」
とニッと笑んだ。そのまま、殴り掛かろうとするの吉崎を静止させたのは、次男の陽大だった。冷静に、その拳をその手の平で受け止める。
「どけっ!」
吉崎が吠えたが、陽大は冷ややかに一瞥するのみだ。陽大は微動だにせず、むしろ威圧的に睨んだ。
「悪いね、自分の兄を簡単に殴らせるほど、僕ら兄妹は人間ができてないんだ」
と陽大はむしろ挑発しようとするように笑む。
「さっきから志乃ちゃんを悪者にしているけど」
と口を挟んだのは、美樹だった。
「志乃ちゃんの気持ちのことを考えて言ってるの?」
「知るか!」
吐き捨てるように言う。それが美樹に失笑を浮かばせた。
「馬鹿なんじゃない?」
「何?」
「馬鹿だって言ってるのよ。志乃ちゃんの気持ちを知らない人が、他人の気持ちを代弁するだなんて、正義の味方のつもり?」
「何だと…?」
「だってそうでしょ。あなたは志乃ちゃんの気持ちが、カケラでも理解できるの?」
「朝倉の気持ちなんか知るか! あいつは北村を裏切ったんだ!」
「それは志乃ちゃんと北村って人の問題でしょ? 第三者が口にしていい問題じゃないわよ」
「俺は北村の親友だ!」
「あなたは北村って人の気持ちを理解できるの? それほどの親友なの?」
「そうだ」
と言う言葉に戸惑いがある。美樹は呆れたとばかりに、ため息をもらす。
「馬鹿じゃない?」
「何だと?」
「誰かの気持ちを本当に把握できるとでも思っているの? 北村って人の気持ちは北村って人にしか分からないのよ。陽兄を殴れ、ってその人は頼んだの? その程度の男なの?」
「……何?」
「だってそうじゃない。ふられたから、その男を殴るだなんて復讐のつもり? それこそ器が小さいんじゃないの?」
「違う!」
「何が違うのよ?」
と強い目で見返す。吉崎は言葉につまる。
「北村は本当にいい奴なんだ。あいつは、あいつは……」
「陽兄だっていい奴よ。最高の長男なんだから。私達は自分の兄を簡単には殴らせないわよ」
「やめろ、美樹」
と陽一郎は言った。陽一郎が力なく立っている。
「殴って気がすむのなら、殴れ。ただ、志乃を傷つけるのはやめてくれ。それ以外だったら、俺はどんな事も受け入れる」
「いい度胸じゃねーか」
ぐっと拳を固める。陽一郎は微動だにしない。目は揺るがない。むしろ吉崎の方が動揺しそうだった。雨が強く体を打つ。どうしてだ? と思う。どうしてこの男は朝倉のために、ここまでできるのかと思う。かっこつけているだけの言葉じゃない。目が全ての覚悟を決めている。
(糞がっ)
吐き捨てるように、拳を振り上げる。その拳が、宙でぴたりと止まった。吉崎の腕に志乃がしがみついていた。
「あ、朝倉?」
「やめて」
「………」
「陽ちゃんを傷つけないで! 悪いのは私なの!」
「何を今さら」
語気が弱い。どうしたんだ? 困惑する。朝倉が北村を裏切った。北村は一人、取り残された。朝倉と夏目陽一郎はそれで幸せなんだろう? どうしてそんな痛そうな目をする? 夏目も夏目だ、どうして殴られたままでいる? どうして俺を殴り返さない?
拳と拳をぶつける決闘を期待していた吉崎は拍子抜けした気分になる。吉崎は拳を降ろした。
──と、それとほぼ同時に、雨も水たまりも気にせず、駆けてくる音がする。
「北村君?」
と志乃が絞り出すような声で言った。その声が、枯れている。北村はそれに反して、微笑で応じる。が、吉崎を見る目はいつになく厳しく一瞥している。
「吉崎、誰がこんな事を頼んだ?」
「え……」
北村までもが痛そうな顔をするのが、吉崎には理解できなかった。北村は捨てられたようなものだ。そう思っていた。町中で夏目陽一郎が志乃と一緒に並んで、にこにこ笑う姿を何度も見てきた。だからなおさら、吉崎は見過ごせなかった。だが──今の北村は、何よりも痛い顔で吉崎を見ている。
「朝倉は誰も裏切っていないよ、吉崎」
「え?」
「ただ自分の本当の気持ちに気付いただけなんだ。俺はそれを朝倉が気付く前から知っていた」
「は?」
「吉崎、二人の事は二人にしか分からないんだ。理由を説明できない訳じゃない。説明したくないんだ。俺の中では終わった出来事だから」
「お前はそれでいいのか?」
「いいんだよ」
即答で応じる。チラリと北村は志乃を見る。陽一郎にぴったりと肩を寄せている姿に、忘れかけた嫉妬がよみがえる。ごく自然に二人は肩を寄せていた。雨が体温を奪う。それでも二人は少しでもお互いの体温を分け合おうとしているかのように寄り添う。
「朝倉」
ピクンと体を震わせた志乃に、北村は満面の笑顔で返した。
「風邪ひかないようにね」
くるりと背を向け、そのまま歩いていく。
「北村!」
吉崎は追いかける。
雨は降りやまない。陽一郎は志乃の肩を軽く叩いた。
「風邪ひくな、このままじゃ。買い物はシャワー浴びて着替えてからだ。みんな家に入れ。志乃は美樹に着替えを借りろよ。志乃は小さいから丁度いいだろうな」
と何でも無い事のように言う。志乃は陽一郎を見上げた。陽一郎もまた、志乃の視線を受け止めて、微笑を浮かべている。志乃は何のためらいも無く陽一郎に抱きついた。
体が冷たい。でも暖かい、と志乃は思った。どうして陽ちゃんはこんなに暖かいんだろう? と思う。陽一郎を助けたいのに、力になりたいのに、結局は陽一郎に迷惑をかけている。それでも陽一郎は、優しく志乃を受け止めてくれる。いつでもそう。昔からそう。それに今まで気付かなかった自分が馬鹿なんだ。みんなを傷つけた私は馬鹿なんだ、私が北村君と陽ちゃんを──
陽一郎はそっと、志乃の背中に手をまわした。優しく、でも強く抱きしめる。志乃の言葉を陽一郎は自分の胸で塞いだ。
志乃の声にならない言葉はやがて嗚咽になる。
これだけ不器用に誰かを傷つけないと本当の気持ちに気付けない。
夏の雨は少年と少女には、あまりにも冷たすぎた。
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