7月21日「花」
【二日目】
口笛を吹きながら、志乃は台所に立っていた。夏目家長女美樹と次女亜香里も志乃を手伝おうと、忙しく動いている。晃はそれを興味津々に見ている。
陽一郎はバイトに出かけ、陽大は新聞配達に出かけている。陽大は間もなく帰ってくるはずだ。
いい匂いが漂い、最年少の10歳の亜香里は、背伸びをしながら志乃の料理に、手の捌きに夢中になっていた。兄・陽一郎も料理は上手い。が、志乃はその数段上をいく手さばきで、次々とこなしていく。同時に次々と、しかも計算している様はまるで魔法のようだ、と美樹は思った。
久しぶりに、志乃と話して陽一郎に対する気持ちが変わっていなくてほっとする。志乃が陽一郎の事がすっと好きなのは分かっていた。陽一郎も、そして志乃本人もその気持ちにまるで気付いていなかった。下の兄弟達の方が気付いているというのも、変な話だが、しっかりしているようで、しっかりしていない兄を支えてあげられるのは志乃しかいないと美樹は思っている。
陽一郎は長兄として、確かに力強く守ってくれているが、脆い一面もある。
美樹から見ると、少し人が良すぎると思ってしまう。少し頑張りすぎる。少し人の事を考えすぎる。だから少し自分の感情を殺してしまう。志乃に彼氏ができた時、平然として何も変わらない素振りの陽一郎を見て「それでいいの? 本当にそれでいいの?」と声に出しそうになってしまった。
だが、それで良くなかったのは当の陽一郎も分かっていた。
だから、自己防衛のため、志乃を避けていたのだ。それが痛いほど分かったから、「それでいいの?」と言ってやりたくなる。でも美樹も、そして陽大もそれは我慢していた。美樹も陽大も晃も亜香里も志乃の事が大好きだ。志乃と陽一郎が一緒にいて欲しい。でも、それは結局のところは本人達の問題なのだ。本人以外の人間が奔走したところで、事態は何もよくならない。それが冷静な陽大の言葉であった。
「志乃ちゃん」
と美樹が聞いた。
「うん?」
志乃はドレッシングソースの作製にとりかかっている。
「 陽アニにもしかして、好きとか言ったの」
しばらく間。それから、ゆっくりと首を振った。
「え? じゃあ、陽一郎アニが言ったの?」
と言って笑う。
「まさかねぇ」
志乃はため息をついた。美樹は笑いを止める。
「じゃ、何もないの?」
「うん……」
「その彼氏は?」
「別れちゃった。私、卑怯だよね、自分の気持ちに気付かず、陽ちゃんと北村君の二人を苦しめていたんだもの」
「そんなことはないと思うけど……」
「でもね、やっぱり卑怯だと思う」
と志乃は手を休めずに呟く。
「こうなってからじゃないと陽ちゃんの大切さに気付けなかったんだもの」
「卑怯なのは陽アニだと思うけど」
「美樹ちゃん?」
「鈍感も度を越せば犯罪よ。たまに陽アニには苛々する」
と美樹は怒りだす。クスッと志乃は笑みをこぼした。 美樹もクスクス笑う。亜香里は不思議そうな顔で二人を見た。志乃は亜香里の頭を撫でる。
「亜香里ちゃん、その器をとってくれる?」
「うん」
と亜香里はスタスタと志乃の言いつけ通りに、器を取りに行く。
「陽ちゃんね」
と美樹に囁くように言う。
「泣く私を抱きしめてくれたの」
「それって……」
「うん」
と志乃はため息をついた。
「昔、泣いた私や美樹ちゃんを陽ちゃんが慰めてくれたんだよね、そうやって」
美樹は思いだして、赤くなる。そんな過去は口が避けても口外できない。夏目家の中では懐かしい想い出だが、それを友達に知られたらと思うと、恥ずかしくて頭の上から湯気が出そうだ。
それでも、と美樹は思った。それは決して嫌な想い出じゃない。むしろ、大切だと思う。だが、それを志乃にまで昔のようにするというのが、問題だ。
陽一郎の心理は今一、掴みずらいものがあるが昔のままそのままの行動だとしたら、鈍さを通り越して鈍重としか言い様がない。でも、と志乃は言葉を続けた。
「え?」
「陽ちゃんがね、私の写真を撮りたいって言ってくれたの。それがね、すごく嬉しかったの」
亜香里が志乃に器を差し出した。
「ありがとう、亜香里ちゃん」
志乃は器にサラダを盛りつける。ドレッシングは別の器に用意しておく。後はメインディッシュのビーフシチューの仕上げにはいるのみである。晃が鼻をクンクンと鳴らす。夏目家一の食いしん坊の晃でなくても、この匂いには食欲をそそられる。ただし、陽一郎が帰ってくるまでお預けなのが、育ち盛りの晃には辛い所でもある。
「珍しいね、陽アニが自分から言うなんて」
陽一郎は頼まれれば撮るが、自分の気分が乗る時しか写真は撮らない。人物より風景写真の方が陽一郎は多いのだが、その陽一郎が志乃を撮りたいと言う。これはもしかして? もしかして? と思わず、美樹はにやついていた。美樹の言おうとすることを察知して、志乃は赤くなる。
「陽アニは志乃ちゃんだけを撮りたいんじゃないのかな」
「そうかな……そんなことは無いと思うけど……」
「そんな事あるよ。陽アニは愛情表現が下手だからね。だから、わざと自分の感情を殺すことが優しさだと思ってるんだ。それって一番、残酷なのにね」
「うん」
志乃は頷いた。
「陽ちゃんのその態度がすごく辛かった」
その目がとても悲しそうだった。美樹は改めて、自分の兄に怒りを覚える。どうして一番近いはずの志乃の存在を見てあげられないのか。一番近くでこんなに陽一郎に気持ちを投げかけているのに。まるで、それに気付いていない。志乃への感情を押し殺す事は陽一郎も辛かったはずだ。が、志乃はもっと辛かった。きっと昨日、陽一郎に会うと決意するまで、散々悩んだはずである。今、志乃が見せた表情の一つ一つがそれを物語っていた。
「それでも志乃ちゃんは陽アニの事が好きなんだ」
志乃は笑顔で頷く。眩しいくらい志乃は明るく笑った。美樹はその笑顔に暫く見とれて、それから一緒に笑った。志乃の目が今までも、そして今も、陽一郎一人を見てきたのだ。そんな志乃のひたむきな純粋さが、美樹は羨ましくもある。
ドアチャイムが鳴って、お決まりの「ただいま」の台詞が――重なった。
「大アニと陽アニ?」
と美樹は時計を見る。朝、今日は少し早く帰れるかもと確かに話していたが、まさか19時前に帰ってくると思わなかった。
「陽ちゃんだ!」
と目を輝かせて、志乃はキッチンから飛びだして玄関に向かう。きょとんとした顔で、美樹と亜香里と晃は顔を見合わせた。そして笑みをこぼす。鍋がコトコトと音をたてた。美樹は弱火にする。
玄関で陽一郎が驚きの声を上げたのが聞こえる。
「美樹姉さん」
と晃が聞いた。
「志乃ちゃん、陽アニにどうしたかな?」
美樹は楽しげにニヤニヤ笑った。
「晃にはまだ早いよ」
その一言に晃はぶすっと、膨れた。美樹はまたニヤニヤしながら、志乃の料理を盛りつけていく。亜香里もそれを手伝いながら、ボソリと呟いた。
「志乃ちゃんがお兄ちゃんと結婚してくれればいいのにね」
美樹は二の句を告げられず妹の顔を見て、それから楽しげに笑いを浮かべた。
「花が咲いてない枝の花を見たいと言うのは、少しワガママかな」
もう一度、美樹は唇に笑みをたたえ、盛りつけに没頭した。
「陽ちゃん、お帰りなさい」
ときゅっ、と陽一郎に抱きつく。自然に素直にそんな行動を取る自分に驚きながらも、会えなかった時間を埋めるように抱きしめた。隣で陽大が知らないふりをして靴を脱いでいる。構わない。今だけは陽一郎に甘えたい。素直なりたい。そして少しずつ、志乃が抱いてきた気持ちを陽一郎に伝えていきたい。
陽一郎が志乃の髪をさっと撫でてくれた。
「志乃、ただいま」
二人にとっては、何気ない挨拶。幼い頃から何もかも知ってる二人だけの約束。
でも、それがとても嬉しかった。
二人の花が咲くのは何時?
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