8月2日「任せておけ」
十四日目
志乃は目うっすらと瞼を開ける。
自分の部屋だ。どうやって帰ってきたのか、忘れた。困惑する。服のままベッドで眠っていたせいか、体に微妙な疲れが残っている。
陽大が送ったのか、と思う。
(違う)
霧が消えて行くように、記憶に色を灯す。
背中。
温もり。
優しさ。
言葉。
その一つ一つが、はっきりと脳裏に蘇る。志乃は顔が赤くなるのを感じた。私、陽ちゃんに言ったんだ。呟く。声に出してみる。俯く。頬が熱い。耳の奥であの時、陽一郎が言った言葉を思い返してみる。
陽一郎ははっきりと志乃に言ってくれた。
(夢じゃなかったのかな)
だったらイヤ。
でも、あの暖かさは、夢なんかじゃなかった。
机の上の写真に目を向ける。
一枚は陽一郎が志乃を撮ってくれた写真。そしてもう一枚は美樹からもらった陽一郎の写真。二枚の写真は、まるで一枚の写真のように並んでいる。陽一郎へ志乃が笑いかけるように。志乃に陽一郎が照れた笑みを見せるように。
陽一郎の父と母が亡くなる前の写真だ。以前は、陽一郎も無理な笑顔を作っていなかった。無理で造花のような笑顔を見せるのはつい最近のことだ。それも最近では和らいできたが。
志乃は陽一郎の自然な笑顔が好きだ、と思う。演技の笑顔じやない、本当に心から笑っている笑顔が。そういう陽一郎を見ると心から志乃も嬉しくなる。
陽一郎の笑顔を引き出せるのは自分。そう強く何度も言い聞かせてきた。
もしも他の人だったら──。
(そんなのイヤ)
今ならはっきりと陽一郎に面とむかって言える。
「陽ちゃんに笑顔をあげられるのは私だけ」
おごがましいと思う。独占欲だと思う。でも、そう思うのだ。誰よりも今の志乃は無力だが、誰よりも陽一郎の力になれる。なってみせる。
卑怯──自分の事を卑下する言葉を陽一郎は止めてくれた。
止めてほしかった。
いつまでも私は甘えてばかり。
それが情けない。
だから、今度は私がもっと強く強く、背伸びして、陽一郎を支える。
志乃は窓を開けて、外の空気を吸い込んだ。夏の風が志乃の、髪を撫でる。小さな体で目一杯伸びる。志乃には今日も夏目家での大仕事が待っているのだ。のんびりしている暇はない。今日から夏祭り期間は、陽一郎はバイトを入れていない、と言っていた。と言う事は、陽一郎といれる時間が今までの倍ということだ。それだけで志乃は嬉しくなる。
頬を軽く、パンパンと叩く。時間は無駄にできない。まずシャワーを浴びて、服を着替えて、それから少し──多分、陽一郎は気付かないだろうけど、少しだけおしゃれして。体に残る疲れすら今日の志乃には、考慮に値しなかった。
鼻歌を唄いながらシャワールームに駆け込んでいく。
志乃を起こしに来た母は、目を丸くして、志乃の後ろ姿を見送る。やれやれ、と肩をすくめる。すっかり『彼』の存在を忘れている。忘れているというよりは、頭にない、と言ったところか。
「あの子は昔から、思い立ったら、周りが見えなくなるものね」
自分と同じで、と苦笑する。
「もうしばらく、男と男の話をさせてあげるのもいいかもね」
クスッと、彼女は微笑を漏らした。
陽一郎はまさか、こんな事態になるとは思っていなかった。
たしかに朝倉家とは昔からの付き合いだ。志乃の父にも、母にもよくしてもらっていた。だが、それも陽一郎と志乃の関係が希薄になるにつれて、遠縁になっていた──陽一郎の中では。
だから、志乃を送っただけのはずなのに、家の中に招かれた事を困惑した。
酒を志乃の父にすすめられ、ますます困惑する。
『パパは陽ちゃんが、自分の息子みたいに思ってたものね』
と志乃の母はクスクス笑って、二人を置いて出て行く。
とりとめもなく出た会話は、想い出話ばかり。幼稚園。小学校。中学校。そして通夜と葬式。
最後の方になると、志乃の父は、嗚咽になっていた。
「俺はそんなに頼りないか!?」
吐露と言っていいほどの叫び声だった。 体を震わせて、陽一郎に涙する。
「俺はお前の親父の親友だった。だから、お前達に何でもしてやりたい、と思った」
「おじさん……」
「何で何も言ってこない。待っていたんだ。お前が頼ってくれるのを。それなのにお前は全てを背負い込んで、自立しようとした。まだ、高校生だろ? 甘えてもいいだろ」
志乃が他の人を好きだという時点で、陽一郎からその選択肢は消えていた。見栄だったのかもしれない。
誰かに頼るんじゃなくて。兄妹達を守るのは長男しかいない。その演技にも等しい無理な自覚。それだけだった。葬式の日、声をかけようとした彼の言葉を、陽一郎は気丈な演技で遮った。呆然としていたし、脱け殻だったし、憎しみで体が焼けそうだった。それでも兄妹を守るのは自分しかいないから。そう思って立っていた。親戚連中も、誰一人味方はいない。みんな敵だ。そう思うことで、立っていた。美樹の事を笑えない。自分もそうだったから。
「陽一郎、俺はな、志乃の親だ」
「はい」
「でも、それ以前にお前らも俺の子どもみたいなもんだ」
「おじさん……」
「俺は前々から、お前の親父には『よろしくと』言われていた」
「………」
「言われてたんだよ。アイツには深い意味がなかっただろうさ。だがアイツは俺に『よろしく』って言ったんだ。『任せとけ』と俺は言った。俺の言っている事が分かるな、陽一郎」
「うん……」
「お前らは俺らの息子だ。子どもだ。子どもなんだ」
震えた体で陽一郎を抱き締める。陽一郎は呆然とそんな、志乃の父を見た。
陽一郎の父も母も、穏やかな性格で人を怒るということをしない。怒る役割は、いつも志乃の父だった。だからか、心無しか幼心に【怖い】というイメージがあった。そのイメージがもろくも、壊れていくのを感じた。髭は濃いし、酒臭いし、涙で陽一郎の服を汚す大人を陽一郎は、呆然と見た。そして表情に小さな笑顔と、目尻から雫が溢れる。
「ありがとう、おじさん」
と陽一郎はやっとの事で言った。もっと言葉にすれば、きっと言葉にならないから。
言葉にならない言葉を上げ、彼はさらに泣いた。親友を亡くした悲しみと、その自分の【子ども】達に、今まで何もしてあげれなかった自分が歯がゆくて。悔しくて。それは彼のせいでも、誰のせいでもないけど。
よろしく、と陽一郎の父は言ったらしい。
だから彼は、任せとけ、と答えた。
ただ、それだけ。ただ、それだけなのに。
気付くと陽一郎はビールを飲んでいた。無言で二人は、グラスを交わした。
よろしく、と陽一郎の父は言ったらしい。
だから彼は、任せとけ、と答えた。
ただ、それだけ。ただ、それだけなのに。
陽一郎はとても嬉しくて──泣けた。
それが昨日の夜のことだった。陽一郎は彼と同じ部屋で寝ていた。きっと志乃の母が気をきかせたんだろう、と思う。
陽一郎は無言で起きた。志乃の父も同時だった。悲壮感が表情に翳るのは、お互い二日酔いのせいだと思う。
キッチンでお互いみそ汁をすすりながら、言葉も無く時間を共有する。吐くべき言葉は吐いた。そう陽一郎は思う。だから今は信頼して彼を見ている。他人じゃない、と陽一郎は思う。志乃の事も含めて。
「陽一郎」
と先に声をかけたのは、彼のほうだった。
「え?」
「バイトは今日いれてるか?」
「……夏祭り期間中は入れてないよ。家族サービスしようと思って」
「高校生が家族サービスとか言うな」
「じゃあ、どう言えばいいのさ」
「普段、家族サービスしていない俺は、母さんと志乃に睨まれるだろう」
「それは俺のせいじゃないよ」
と陽一郎は苦笑した。彼もまた苦笑する。
「陽一郎、今日は手伝え」
唐突に言う。陽一郎は目を丸くして、そして頷いた。何がとは陽一郎は聞かなかった。今日は何の日かは心得ている。
「陽大と晃も連れていくよ」
「そうしろ」
と彼は目を輝かせた。心から嬉しそうに。
夏祭りの開始準備のため、町内の男達が団結して、一日がかりで会場設営にあたる。
露店はもとより、盆踊りのやぐらの設営。それに星流しという、昔からの慣習もある。それらを用意するのは男の仕事。女は神社の境内で、おにぎりとみそ汁を作る。そのかたわら、飾り物の仕上げにも当たる。町が総動員して、祭りの準備にあたるのだ。
もっとも、志乃は昔から陽一郎の傍から絶対離れず、男衆と一緒に祭り準備をしていたが。
多分、今回もそうだろう、と思う。
昨日、陽一郎の背中に負ぶさられ、帰宅した一人娘の事を思う。今まで思い詰めた顔をしていた娘が、幼稚園時代の昼寝を連想させるほど、無邪気に無防備に陽一郎に体を預けていた。昔から志乃の陽一郎に対する好意は想定していただけに、父としてのショックはたいして無い。むしろ陽一郎で嬉しい、とさえ思う。これで何かにかっこつけて、陽一郎と酒を飲むという口実ができたわけだ。
とその愛娘が、お気に入りの歌を口ずさんでキッチンに入ってきて、二人を見て固まる。
「陽ちゃん?」
「あ、志乃。おはよう」
「あ、うん。おはよう」
と言って、突然気付いたように、あたふたする。
「おはようじゃないよ! どうして朝からいるの?」
「昨日、陽一郎は泊まっていたんだ」
事も無げに父は言う。
「泊まった、って?」
赤くなったのはシャワーを浴びたせいではないのは、一目瞭然だ。
「ませてるな。今からそういう期待をするのか、最近の女の子は」
「お父さん!」
照れを通り越してして、父にむけて怒りの視線が飛ぶ。今にも拳が飛んできそうな気配だ。
「照れることないだろ。いずれ、そういう仲になるんだろうし」
「お父さん!」
「違うのか?」
「……そうじゃないもん!」
「志乃は陽一郎のことが嫌いなのかぁ、そーか、そーかぁ」
この親子の言い合いは恒例行事だ。昔から何一つ変わってない。いつもなら、志乃は陽一郎の事なんか『嫌い』ときっぱりと怒号して否定するのだ。それを分かって、志乃の父はまたからかう。
「そーか、志乃は陽一郎の事が嫌いなんだなぁ」
「違うもん! 好きだもんっ!」
「え?」
「好きだもん。大好きだもんっ! 陽ちゃんの事が大好きだもんっ!」
面と向かって大きな声で言われて赤くなるのは、陽一郎だ。志乃も赤くなっている。居心地悪そうに、志乃の父は頬をかきつつ、二人を見やる。好きという感情を自分の娘が否定しなくなった。成長したのか、と思う。それは父として寂しくも有り、嬉しくも有る。普通の父親なら卒倒ものかもしれないが、生憎、陽一郎になら志乃を嫁に出してもいい、と本気で思っている。親の幻想かもしれないが、この二人が一緒にいる時が、一番嬉しい。
陽一郎と志乃が離れていったのが大人になっていく証拠と思い込もうとしただけに、尚更だ。
「そこまでにして、ご飯食べなさいね」
と志乃の母が助け舟を出した。
いつも、いいタイミングで志乃の母は声をかけてくれる。うん、と志乃は頷いて、ご飯とみそ汁を盛り付け、陽一郎の隣に自然に座る。二人の表情はすでに赤くなかった。いつものように、自然に笑い合っている。
その二人が眩しい。
「それとお父さん」
何気ない口調で、母の声が飛ぶ。
「ん?」
「陽ちゃんにお酒を飲ませるのもほどほどにしてね。陽ちゃん、まだ未成年なんだから」
志乃の父は凍る。志乃の強い視線を感じて。
「お父さんっ!」
志乃の怒号。次にその標的は陽一郎にくる。陽一郎は志乃に怒鳴られる前に、自分の食器を下げて、早々に退散する。が、小姑と中学校時代、陽一郎に言わせた志乃がそう簡単に引き下がるはずが無い。
洗濯機を回していた志乃の母は、それを見て小さく微笑した。
ちりん。
風鈴が鳴る。
夏目の両親もそれを見て、一緒に笑っている気がした。
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作者蛇足。
飲酒は二十歳になってから。
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