8月21日「ただいま」


三十三日目









「結局、逃げ切ったわけか」


 鼻で冷笑し面白くなさそうに、照は言う。楠はコクリと頷いた。陽一郎と志乃を誘拐してくれた考え無しの阿呆者の手配にかかっている。仙梁苑からまんまんと仲間を置いて逃げ切ったリーダー株の唐島。やれやれと照はため息をつく。旧時代の合併吸収の傷跡が、今ここにある。旧唐製薬の長男だ。こいつの妹は、某アイドルと結婚して、悠々自適な生活を送っている。


 親父の阿呆め。


 こういう時は呪わずにはいられない。陽と茜は、お互いをまるで半身のように思っていた。


 そんな事ぐらい分かっていたくせに。


 いや、分かっていたのだ、うちの糞親父殿は。天の邪鬼め。


『そうしないと、陽は本音で動かないだろうからな』


 見透かした目で。絶やしたことのない笑みで。せめて孫くらい見たかっただろうに。最後まで笑いを絶やさず死んだ。これを大往生と言うのかもしれないが、照からしてみたらとことん憎たらしい死に方だ。享年84歳。残された仕事は多すぎる。


「いかに、かつてはは外部と言えども今は夏目です」


 楠は慎重にそう照に提言する。内密理に事を納めろ、との進言である。照の内部改革は必然の流れである。利益の上げれない部門は切り捨て、もしくは手術するしかない。時代は違う。しかし、資本さえあれば、挽回できると信じている輩の多いこと多いこと。現状のグラフと数字を見たら、そんな台詞はでてこないはずなのに。


「巨大グループの弱みね」


 と日向はお客様よろしくにこにこしている。楽しんでいやがる、と照は憮然とする。別に呼んだわけでも無いが、普通に密談に出席している。一応、完全密室で盗聴防止機能が張り巡らされている。もっとも、盗聴されても痛くも痒くもないが。


「あんたは」


 と楠夫人は微苦笑する。


「切り捨てる事も覚えなさい」


 にべもなく、夫へそう言う。照も同意見だが、楠は肩をすくめるのみだ。組織にはこういう男が必要だ、と思う。独断は過ちを犯す。夏目太陽が楠を親友として、相棒としてもてた事が「夏目」の成功の秘訣だったのかもしれない。


 その相棒を照は見つけた。間違いなく、ヤツは成長する。


「で、僕が呼ばれた理由が分かりませんが」


 と陽大は首を傾げる。


「理由?」


 照は小さく笑んだ。揶揄を含んだ笑みで。


「お前が、唐島を殴りたいと言ったからだ」


「言ってないです」


「言ったようなものだ。陽一郎を誘拐した元締めだぞ?」


「兄さんが帰ってきたんだから、問題ありません。後はそちらにお任せします」


 クールにそう言う。あの感情を乱した鋭利さは無く、刃を鞘に収めている。冷静と理論。こいつを相方に引き込むのは難儀な仕事だと思う。だが、それでも欲しい。才能のある人間は好きだ。その才能を開花させてあげるのが大人の仕事だと思う。ひりひりする空気を肌で感じながら、照はそう思う。


「でも」


 と陽大は付け加えた。


「ん?」


「貴方が唐島さんという方を殴りたいのなら、止めはしません。むしろお手伝いしますよ」


 陽大は営業スマイルで言ってのける。照はぽかんとして口を開けて、そしてこれでもかというくらい、腹をよじらせて笑った。


「社長?」


 楠は唖然とする。照のこんな表情など、今まで見たことなかったから、なおさら。


「馬鹿」


 と今まで黙っていた朝倉は、失笑を浮かべる。


「楠」


 と朝倉は切り出す。一向に話が進まない。


「はい?」


「夏目の主要部門以外はそんなにまずいのか?」


「まずいですねぇ」


 あっさりに言う。


「赤い字がめだつくらいまずいです。太陽がいてくれたら、さぞかし」


 と言葉を切る。


「──喜ぶでしょうね」


「意味わかんねーぞ、それは」


「そういうヤツなんだよ、糞親父は」


 と照はため息をつく。陽大はそれをじっと見つめていた。忙しい人だと思う。隙がまるで無いかと思えば、隙だらけ。だが、その隙すらも、隙間に刃を隠し持つ。そうやってため息をついているあいだも思考は巡らしている。敵にまわして勝てる自信は正直、陽大には今、無い。


「ただ野放しにはできないな」


 と照は再度、ため息をつく。


「なんで?」


 と日向が聞く。何も知らない夏目兄弟を引き込む事もできなかった。自暴自棄の果ての誘拐劇も、楠夫人に阻止された。警察沙汰になればお終いのフィナーレだ。


「追いつめられているから、だよ」


 と朝倉はかわりに言う。窮鼠猫を噛む。どこにいるか不明だからこそ、何をするか分からない。諦めてそのまま夏目を出るならそれも良し。だが、そうもいかないだろう。唐島は明治より続いていた老舗だった。──もう過去形だが。栄光にすがる習癖がなお強い男だ。夏目にいて唐島を誇る。それを否定しようとは思わないが、過去より未来を。今を。それが何より重要だと思う。照だって、日向だって、後悔ならたくさんしている。陽と茜の二人の事は勿論の事、様々な事を飲んでは諦めてきた。


 過去にすがるのはいい。本人の勝手だ。

 でも、他人を巻き込むのはいただけない。


「だが、赤字を抱えている虚勢の夏目には、警察に通報して自分たちのマイナスになる事はできない、と言うところか」


「だからお前は嫌いだ」


 と照は朝倉をみやり、苦虫を潰したような顔になる。


「こいつが夏目の社員とは思えない」


「え?」


 目をパチクリさせたのは陽大だ。サラリーマンで、パソコン関係の仕事をしていたとは聞いていたが、それは初耳だった。と言うよりも、今の発言で夏目と自分達の距離があまりにも近かった事を思い知らされる。もっとも、この旅だって、朝倉に仕組まれたようなモノだ。納得と言えば納得だ。


「陽大、勘違いするな」


 と言ったのは、朝倉では無く照だった。


「色メガネで俺達を見るな」


「で、でも!」


「でもじゃない。俺と朝倉の繋がりは皆無だ。俺は経営者、コイツは技術者。たかだかその程度だ。それ以上の繋がりは無い。良い製品を作ってくれるヤツだが、雑談かます機会なんか無い」


「は?」


 そんなものなのか、経営者って?



「現場は現場に任せる。俺の仕事は、その技術をどうやって売っていくかだ。だから信頼できないヤツは、雇わない。信頼できるから雇う。その程度だ」


「……ガキなんだな、僕は」


「それも違う」


 クスクスと楽しげに楠夫人は笑みをこぼす。


「照さんもガキなのよ。でなきゃ、唐島さんみたいな人を雇うミスを犯すはずないんだから」


 と毒を隠さずに言う。照は反論の余地が異なのか、煙草の紫煙を味わっている。さぞかし、味のしない煙草に違いない、この瞬間は。


「まぁ私としては、唐島が何もしなければ──」


 鈍い音が鳴る。ずしん、と低く、うなるような音が。誰もが息を飲む。顔を見合わせた。日向が真っ先に席を立つ。


「日向、今の?」


「何ぼーっとしんての、糞兄貴! 平和ボケ!」


 と声を荒げる。焦燥と危機感がその表情に滲んでいる。


「今の?」


 陽大が聞く。すでに最悪の選択肢をその顔は想像している。そしてその最悪の選択肢通りの解答を日向は口にする。


「銃声」


 陽大は駆けた。朝倉と照がその後に続く。さらに楠が。だが、日向と楠夫人は動かない。


「華さん」


 と楠夫人の名前を呼ぶ。


「その名前はあまり好きじゃないわよ、日向さん」


「好きか嫌いかはどうでもいいの、今は」


「はいはい」


 飄々と言う。食えない、本当に食えない人だと思う。でも、頭脳は明晰。楠壮次郎と並んで、夏目をここまで導いてきた人だ。そうでなければ、とうの昔に転覆している。照はビジネスの才能は確かにあるが、だからと言ってここまで成功を収めることは出来ない。


 朝倉を初めとした優秀な技術者達に恵まれたのも大きい。


 だが、その一方で組織の一部が腐敗する事も避けられない。夏目太陽が、それぞれの部門をそれぞれに任せていた結果がここにある。最初はそれでもよかったが、野放しが良いはずが無い。太陽もまた技術者でしかなかったと、楠夫人は小さく笑む。それも全て、私達の罪。そう呟く楠夫人に日向は小さく頷いてみせる。


「人を呼んで。騒がずによ」


「警察に通報は?」


「しないで」


 楠夫人は驚いて日向を見る。日向は肩をすくめた。


「陽一郎達が心配なの。一度は誘拐してるのよ」


「陽一郎君達に向けた銃声なのかもしれないしね」


「華さん、私、最悪を想定はするけど、最悪を口にする人は嫌いよ」


 楠夫人は小さく笑む。だが最悪を心配してないような表情だ。


「太陽ちゃんの孫が、陽ちゃんの息子が、茜ちゃんの息子が、そんなに簡単にヤラれるものですか。唐島なんて、へっぴり腰、どうしていつまでも飼っているのか不思議よ」


「毒を吐くな、毒を」


「あら? あれを飼育と言わずして何というの? 自力で生きていく事が出来ないから、夏目にいつまでもこだわるんじゃないの? 飼い犬という言葉が相応しいわ」


「……自力で生きれる人が、大半じゃない、って事よ」


「そんな人は野垂れ死にすりゃいいと思います、おばちゃんは」


「おばあちゃんは、に訂正してね」


 と日向は苦笑を浮かべて、部屋を出る。また低く唸る音が鳴り響く。日向は駆ける。楠夫人は内線電話をプッシュした。











 唐島は拳銃をその人に向けていた。


 その人は、きょとんとした顔で銃口を見つめている。弾痕が彼女の腰掛けているベットと窓に空いている。彼女は微動だにしない。不思議そうに彼を見つめていた。


「あんたは、幸せだな」


 今度は彼女の頭に拳銃を突きつけた。


「旦那が死んで、呆けて、社長職は無能の夏目照が掌握している」


 目をぱちぱちさせて、彼女は銃口の中を覗き込んでいる。


「そのままでいてくれ。あんたの頭を打ち抜ける」


 唐島を見上げる目。老いてなお澄んだ目。むしろ、余計な不純物が無くなってしまったような目。こうなってしまったら犬と猫と変わらない。そこまでして長らえる理由が分からない。薬剤研究は人間の延命に貢献しているのだろうが。こうまでして生きているとも思えない。まるで抜け殻だ。唐島の知る夏目夫人──夏目雛の面影はどこにも無い。


「利発で清楚な姿は影も形も無いな」


 にっこり、と唐島に向けて笑う。


「なぜ、そこで笑う?」


 さぁ? と首を傾げる。分かってる、意味なんて無い。理解する能力すら無い。この人を撃ち殺したところで、何が良くなるわけでもない。鋼鉄の意志を持つ夏目照の方針は変わらない。夏目兄弟を懐柔する事にも失敗した。今となっては誘拐劇も愚かだ。犯罪者になる材料が揃った。警察沙汰でないのは、ただ単に夏目が汚点を増やしたくないだけだ。


 だが、せめて気持ちだけなら、晴れるだろう。


 夏目との因縁を断ち切る。


 夏目太陽がもっとも大切にしていた妻を撃ち殺す。


 唐島の人生は全て、それでお終いだが、夏目に翻弄された人生も終わりにする事ができると思う。憎いと思う。ニクイ。これほどまで憎いと思ったことが無い。順風万風を夏目に転覆させられた。責任転嫁だとしても救われるなら、今はそれでいい。


 唐島は銃口を確実に、夏目雛の頭に押し当てた。確実にこれで死ぬ。脳を貫通だ。


 不思議と落ち着く。


 引き金に手をかける。

 小さく笑む。


 満面の笑顔で彼女は笑いかける。


 指が止まる。──と同時に、ドアが開いた。


「陽一郎、こっちだ」


 と入ってきたのは、誠に美樹。そして陽一郎と志乃、晃と亜香理だった。


「やめろっ!」


 と晃が叫んで、唐島に体当たりする。銃口が反れた。誠が晃に続く。その腕に絡み付き、拳銃をもぎ取った。唐島は暴れたが、その腕を冷静に陽一郎は抑える。目と目があう。沈黙が空気を重くした。


 さらに動こうとする唐島を、美樹が正拳突きで応酬する。夏目美樹、中学二年生、空手部所属。夏目兄弟唯一の活動派と自負している。最近出番が無いと嘆いていたのは、また別のお話であるが、その分も相まって拳は手加減無しだった。


 息が一瞬できなくなるほど、唐島は苦悶する。


「美樹、女の子の行動としてはいただけないぞ」


「陽アニ、今の女の子は行動力が無いといけないんだよ」


 とニッと笑った。陽一郎は肩をすくめる。ただ、唐島を見る。


「ガキにまで負けたか」


 唾を吐く。陽一郎の頬に飛んだ。陽一郎は微動だにしない。ただ、その目で唐島を見つめている。


「陽アニ?」


 きょとんとして、亜香理は聞く。陽一郎は聞こえていないかのように、拳銃を掴む。銃口を唐島に向ける。


「撃て」


 唐島は無気力に言った。


「撃ち殺せ。すっきりするぞ」


 にっと笑む。


「貴方は人殺しをした事は?」


「は?」


「人を殺したことは?」


「無い」


「…そう、か」


 銃を唐島に向ける。


「陽ちゃん、ダメ!」


 志乃が陽一郎を止めようと駆ける。させない、陽一郎に人殺しなんか。だが、陽一郎は志乃を見て、柔らかい笑みを漏らした。


「え?」


 拳銃を投げる。窓ガラスが割れた。外に凶器は落下していく。誰もが目を点にする。


「陽一郎?」


 誠が聞く。陽一郎の体が震えている──。


「貴方は人を殺した事もなければ、何も失った事も無い」


 唇を噛む。


「本当に二度と帰らなくなった人がいないから、簡単に誰かの命を奪うなんて言う」


「失ったさ。プライドも唐島家が築いてきた栄華も功績も、何もかも。夏目に奪われた」


「そんな事」


 と志乃は陽一郎の手を握って、強い意志で唐島の言葉を否定する。


「くだらない」


「く……くだらない、だと!」


 怒気を強めたが、少年少女は醒めた目で、唐島を射る。視線が痛い。


「くだらないよ。人の命は何より重い。拳銃を振り回すなんて、そんな事したって何の解決にもならない」


「ドラマの見過ぎだ、小娘。勝つか負けるか。弱肉強食だ、世の中は」


「それは用法を間違ってるよ」


 と誠はつまらなそうに言った。


「それは食物連鎖を指して言う言葉だ。決して、肉食動物が草食動物に勝っているわけじゃない。むしろ草食動物が肉食動物に勝つ時がある」


「それに」


 と美樹は付け足す。拳を固めて。


「力に責任を負えないものが、力を使うべきじゃない。まして、そんな小さな責任を果たせない人が、会社なんか動かせるはずがない」


 毒舌ではなくて、真実。唐島は反論できない。たた、声にならない声で、呻く。事実を躊躇いなく打ち込まれた。唐島に力があれば、単独で企業として生きていく事もできたのかもしれない。だが、唐島は際だって経営力が無かった。長年続いた財閥が自然解体するのに時間はかからなかった。負債は億を超えている。それを見越して、合併した夏目の経営力は確かにたいしたものだった。マイナスを今やプラスにかえてしまっている。


 だが、賞賛の言葉が唐島の口から自然と出るたびに、自己嫌悪が体中を駆け回る。


 羨望と嫉妬。歴然とした格差。部下の誰もが唐島を侮蔑している。それでも、今の場所から抜けきれない。野に降りて一からやり直す勇気が唐島には無い。


 とその唐島の髪を誰かが撫でた。唐島は顔を上げる。


 憎んでいた、夏目雛がそこにいた。


「夏目、夫人っ!」


 構えてしまう。普通にコミュニケーションのとれない相手と知っても。


「おばあちゃん…なの?」


 晃が言葉を漏らす。夏目の里は次から次へと、新しい事実を突きつけてくれる。亜香理はまじまじと雛を見つめる。刻まれた皺、銀糸のような白髪。オレンジのパジャマの姿で、素足で、唐島に屈み込んでいる。


 不純物一つ無い純粋な微笑みを浮かべて。


 髪を撫でる。何回も何回も。唐島はもう力が入らない。どうしていいのか分からない。自分の感情が分からない。ただ、虚栄が崩れていくのを感じる。何もかも何もかも――。


「陽」


 と彼女は陽一郎にむかって言う。それから志乃に


「茜さん」


 と。


 誰もが顔を見合わす。志乃は陽一郎の手を強く握った。陽一郎も志乃の手を強く握り返す。何て言って良いのか分からない。どう言って良いのか分からない。どう言葉にしていいのか分からない。ただ、陽一郎のおばあちゃんは、孫を自分の息子と勘違いしている。


「よく帰ってきてくれました」


 満面の笑顔で、そう言う。


「お父さんもね、会いたがってたのよ」


 満面の笑顔で、そう言う。


「日向も時々、帰ってきてくれるの。それなのにあんた達ときたら、まったく帰ってこないんだから」


 満面の笑顔で、そう言う。


「嬉しい」


 満面の笑顔で。


「会いたかったのよ、


 満面の笑顔で。


「元気でいてくれて良かった」


 満面の笑顔で。


「親はね、それだけで嬉しいのよ」


 満面の笑顔で。何て言葉を返せばいい? 陽一郎は口にしようとして、その言葉が宙に消える。どう言えばいい? なんて言ったらいい? どう言ったらおばあちゃんは救われる? ばくぱくと金魚のように唇だけ動く。言葉が紡げない。


「何言っても無駄だ」


 唐島は投げやりに言う。


「何も通じない」


 その言葉すら夏目雛の耳には届いていない。陽一郎は考える。どんな言葉なら、おばあちゃんを救えるのか? ずっと待ち続けていた。父さんだって帰りたかった。素振り一つ見せなかったけど、多分、頭の中では「夏目」の事があった。夏目はみんな頑固だ。譲れないモノは絶対に譲らない。戻らないと決めたら、戻らない。父さんにとっては、それが母さんを守る唯一の方法と信じていたから。


 唇を噛む。でも、不器用さはこんなにも残酷だ。


 おばあちゃんは今でも、二人を祝福して、二人を待ち続けていた。


 でも夏目陽も夏目茜も、今は同じ大地に立つことは無い。

 自然と涙が溢れてくる。


「陽ちゃん……」


「陽一郎」


「陽アニ」


 みんなが目を向ける。辛かった。苦しい。でも、陽一郎は精一杯、微笑んで見せた。


「うん」


 と雛にむかって屈み込んで言う。


「母さん、ただいま」


 雛は陽一郎の首に手を回した。溢れる想いが雫にかわる。待っていた。ずっと待っていた。嗚咽がそれを物語る。誰かが一人、いなくなった。それを雛は知っていた。でも、雛には今、理解する能力が無い。夏目太陽が死んだという事実を理解する能力もない。


 ただ雛は待ち続けていた。


 息子と、息子が全力で愛情を捧げた女の子と一緒に帰ってくる事を。


 陽一郎も涙が止まらない。祖母を抱きしめながら、宙を凝視する。どうして、こんな形でないと、答えを知れないんだろう。もっと早く素直になれたら、もっと傷つくことなんか無いのに。大人になればなるほど、不器用さと残酷さは比例していく。


「欺瞞だ」


 唐島が吐き捨てる。その言葉をそれ以上、誠は言わせなかった。その手で、喉を絞める。窒息しない程度で、離す。普段の誠なら絶対に見せない行動と表情だ。


 晃と亜香理も怒りの視線を唐島に送る。


「なんだ?」


 うろたえる。純粋な少年少女の視線に耐えられない自分がいる。


 美樹は自分の可愛い弟と妹の頭を撫でてあげる。


「どうして分からないのよ、バカ」


 怒りより嘆き。呆れ。大人達の不器用さ加減への。


「分からなくたって、いいよ」


 晃が強く言う。


「おばあちゃんはずっと待ったんだもん。お父さんが帰ってくるのを」


 亜香理が言う。


「それが何か悪いの?」


「待ってちゃダメなの?」


「僕たちには父さんと母さんの血が流れてるもの、陽アニの言った事は嘘じゃない」


「私たちはお父さん達と一緒に帰ってきたんだもの」


 晃と亜香理は強く強く、そう言い放つ。美樹も目頭が熱くなった。志乃がそんな美樹の肩を優しく抱きしめる。優しく微笑む。美樹は思う。ああ、やっぱり志乃ちゃんはお母さんだ。陽一郎には志乃が必要だ。私たちにも志乃ちゃんは必要だ。私がマコちゃんを必要としているのと同じくらい。


「誠君」


 にっこり笑って志乃は言う。


「こういう時は誠君が、一番先に行動しないと」


「え?」


 目を点にする。志乃のあどけない笑顔は全て見透かしている。叶わない、と思う。幼さの残るその顔に時々、一番大人びた表情で背中を押してくれるのが志乃だったりする。甘えん坊だったり、泣き虫だったりる表情はかき消えて。


 今は陽一郎を優しく見つめているように。陽一郎の傍にいる志乃はこんなにも強い。


 同じく──陽一郎の傍にいる美樹も晃も亜香理も、そして陽大もこんなにも強い。


「ただいま」


 そう陽一郎は言った。美樹も晃も亜香理も声を揃えた。


「ただいま」


 今は陽一郎の傍に、夏目陽と夏目茜が傍にいてくれる気がした。陽一郎が祖母を抱きしめるように。陽が一緒に母親を抱きしめるような、そんな錯覚。でも、錯覚じゃないと信じる。陽一郎達には夏目陽と茜の血が熱く流れているから。それが幻想や思いこみでも。











 部屋に駆けつけた照達は、言葉を失った。絶句と言っていい。唐島は無気力にうなだれて、照を見て小さく笑んで、手を挙げた。


「よぉ」


「お前はバカか」


「かもしれないな」


 照は疑問符を浮かべる。唐島の表情から吹っ切れたものが見えた。全て否定しようとする悪態が無い。それが部下達の信頼を無くしていることに本人はまるで気付いていなかった。そうなった理由は何となく分かる。やはり陽一郎は陽の息子なんだ、と実感する。


「兄さん」


 陽大は心底、安心したのか脱力する。わかりやすい男だ、と思う。照もそれは同じなのだが。照にとっては、陽の血が流れた陽一郎達は絶対で。陽大にとっては長兄と弟、妹達は絶対なのだ。


「うん」


 瞬く。涙は止まらない。それは雛も同じだった。


 祖母の目には、待ち焦がれた息子とようやく出会えた感慨で一杯だった。それは確かに嘘だ。でも、夏目雛にとっては真実だ。幸福な嘘がある。それでいいと陽一郎は思う。だからなおさら、熱く熱くこみ上げてくる。


「朝倉」


「ん?」


「陽が帰ってきたんだな」


 照は俯く。朝倉はわざと見ないふりをした。この男が感情を他人に見せるのは珍しい。感化された訳じゃない。感情を出すのが不器用なだけで、好きこのんで冷徹でいるわけでもない。素直になれない大人の典型的な一例だ。


「うん。一緒に帰ってきたんだ。いつも、陽一郎達の傍に陽と茜はいる」


「あの二人は何て言うと思う?」


「誰に?」


「俺に」


 気弱そうに朝倉に聞く。表情は見えない。朝倉は小さく笑んだ。隣にいる妻と、夏目日向と顔を見合わす。だから不器用なのだ。何でもかんでも、自分で背負い込むくせに素直になれなくて、重大な過ちを犯した事に気付く頃には、陽も茜もいない。せめて祝福の言葉だけでもあげたかった------照にとっては、それは声にならない叫びなのかも知れない。だが、遅い。


 朝倉は小さくため息と苦笑を漏らした。


「そんなの決まってるだろう」


「ただいま、って言うに決まってるじゃないの」


 と日向は断言する。


「そう……か?」


「そうよ」


「そうですよ」


 朝倉の妻も頷く。照の拳が震える。その手を亜香理が手に取る。多分、亜香理にだけ、照の表情は見えた。すぐに背を向け部屋を出て行く。楠は慌てて、その後に続いた。


「あらあら」


 と楠夫人は笑みを零した。そして自分の姉に目を向ける。良かったと思う。陽一郎が良い子で本当に良かった。せめて今この瞬間だけは、夏目雛は救われた。夏目照も救われた。夏目に関わる全ての人が、この数日で生き生きした表情を見せる。


 と破片の散らばる硝子に目をやる。


 爽やかな風が吹く。


 志乃の柔らかい髪を、風が撫でてワンピースの裾をふわりと舞わせる。


 ──タダイマ。


 楠華は、思わず窓の外を見やった。声なんかしない。ただ、陽一郎も志乃も同じ視線を窓の向こう側に送っていた。


 幻聴でも思いこみでもいいと思う。今はこう言ってあげよう。小さく声に出す。


「お帰り」


「お帰りなさい」


 晃と亜香理が声を揃えて言った。意味を理解しているのかいないのか。――多分、理解している。大人が思う以上にこの子達は聡い。満面の笑顔でこの男の子と女の子は、窓から風を見送る。


 風は、ちぎれた雲のカケラを向日葵庭園へと運んでいく。

 陽と茜の大好きなあの場所へ。


 空は青く、陽射しは眩しく。風は爽やかに。


 陽と茜の大好きなあの場所へ──。


 

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