7月28日「働く長男」
九日目
陽一郎は派手に溜め息をついた。それを見た、店長がクスクスと笑みをこぼす。
「そう緊張する事もないだろうが?」
「親父さん、楽しそうですね」
と陽一郎は恨めしそうに見やる。店長はニヤニヤを止めずに、ネギを刻んでいる。
ラーメン熊五郎と言えば、この街でも一二を争う、味自慢のラーメン屋である。陽一郎は学校がある時は、このラーメン屋の店員としてもアルバイトをしている。
が、夏休みともなると、色々な学校からアルバイト志願の学生であふれるので、陽一郎は仕事を少し遠慮していた、という訳だ。ま、夏休みは学校に行く時間がないぶん、より自由に仕事に専念出来る事もあり、普段はできないバイトにも手を出している。昨日は引っ越しのバイトが臨時で入り、体力的にはへとへとだった。──が、仕事がある事に感謝しなくてはいけない。
それもこれも、口には出さないが、街の誰もが陽一郎を応援してくれている、という証拠なんだと最近思い知った。直接的に夏目家の家計を支えてあげる事は不可能だし、陽一郎達もそれを望んではいない。それでも頑張れ、と言ってくれる言葉は偽善じゃない。無理するな、と言ってくれる言葉は同情じゃない。それが、とても嬉しい。
そう思えるまでに時間のかかった、自分の弱さがはがゆい。
今、自分の足で立つ事ができるのは、兄弟達と、志乃のおかげだと思う。
「夏休みが始まって、たったの数日なのに顔が変わったな?」
と店長は言った。陽一郎はテーブルを拭く手を止めて、顔を上げる。店長は一瞬、微笑を浮かべて、仕事を再開する。
「どういう意味ですか?」
と聞く。まだ昼前だ、客は少ない。のんびりと話す余裕がある。
「そのままの意味だよ。陽坊がそういう顔をする男になるとは、思ってもみなかたからな」
「え?」
「志乃ちゃんのおかげかな?」
と含み笑いを浮かべる。
「な、なに言ってるんですか!」
と慌てる。
「事実じゃないのか? 俺も陽坊と志乃ちゃんが買い物しているのを見たが、おまえら二人が肩並べて歩く姿をもう一度見れるとは思っていなかったからなぁ」
「見てたんですか?」
「見てた。見られたくないのなら、どっか他の街で買い物しろ」
と可笑しそうに豪快に笑った。陽一郎は肩をすくめる。
「陽坊」
と店長は顔を上げて、陽一郎を見やる。
「はい?」
「……志乃ちゃんは大切にしとけ。あの子はいい子だ」
「はぁ?」
「呑気にしていると、また逃げられるぞ?」
「またって、何ですか?」
「そのままの意味だ」
とニッと笑った時だった。戸が開き、大学生と思われる男達が四人、入ってきた。
「いらっしゃい!」
そろそろ昼も近い。忙しくなるな、と陽一郎は腕まくりをして、仕事にとりかかった。
『陽ちゃんの働いている所が見たいなぁ』
とニコニコと笑顔を浮かべて言う志乃に、陽一郎は絶句した。陽一郎は激しく拒否をしたが、妹の美樹も応援に加わり、晃と亜香里までもが(ラーメンを)食べたいコールを連発し、万事休す、長男の威厳はどこにやら、であった。
仕事の邪魔をしない、仕事中には話しかけない、食べたらさっさと帰る、それ条件に陽一郎は渋々、了承した。第一、スープの仕込みや手打ちの麺も店長一人当然やっており、陽一郎は指示された通りに動いているだけである。それなのに志乃の目は「陽一郎が作ってくれる」事を楽しみにしているのが窺える。だからなお、頭痛がする思いがするのだ。
夏目兄妹と朝倉志乃が来店したのは、一時を過ぎたあたりだった。志乃達にしてみれば、陽一郎に迷惑をかけまいという思慮だが、店は忙しさがピークを迎える時間帯である。最近はグルメブームに乗られた人々が、噂を聞きつけて遠くの街からもやってくる。幼い頃から知ってるラーメン「熊五郎」とは思えないほど、人で溢れていて志乃達は目を丸くする。動じていないのは、次男の陽大のみである。
「だから言ったろ?」
と末弟と末妹に苦笑して見せる。お腹が空いたコールに負けて、やってきたはいいものの座る場所すら無く待つことを余儀なくされた。当然、陽一郎は志乃達に目を配る様子は無い。
「ここの醤油ラーメンは格別だね」
と陽大はさっさと注文を決めてしまっている。志乃達もそれに習った。
「大アニは何回か来てるの?」
「うん、図書館での受験勉強の帰りとかね」
「ずるーい」
と晃と亜香里が抗議の声を上げた。
「だから今日来たんじゃないか」
と陽大は微笑む。それはそうだが、どうも納得できないという顔で、二人は憮然とする。陽大はそれを見て、クスリと笑んだ。美樹は呆れるしかない。
「陽アニは大アニが来ていた事を知ってるの?」
「知らないんじゃない。いつも忙しい時間を狙って来てるから」
「知能犯じゃない、大アニ。それ計画的犯行だよ」
と言う美樹の言葉を、陽大は微笑一つでさらりとかわす。
席が空き、やっと夏目兄妹と志乃は席についた。畳の席は満杯で、カウンターに並ぶ。
注文を聞く店員が陽一郎じゃないのにがっかりとしながらも、注文を言っていく。その陽一郎は、中で麺を茹でている。店長は陽一郎をすっかりと信頼して、盛りつけに取りかかっていた。
「陽ちゃん、頑張ってる」
と志乃が呟く。陽大はにっこりと笑った。
「うん、夏休みは学生アルバイトが多いから、兄さんは他の仕事をいれているけど、平日は兄さんがいないと困るらしいから」
「でも、無理しちゃ駄目だよ」
「そうだね、だから僕らは兄さんのストッパーにならなくちゃ、って思ってるんだ」
「陽大君?」
「だってそうしないと兄さんは、体が壊れるまで働こうとするし、学校の勉強も両立してるし。実は学校の先生から、親戚のいる地方の方へ転校するように言われているんだ」
「え?」
それは初耳だった。美樹が陽大を睨んでいる。必要の無いことまで言うなと警告するが、陽大には意味も無い。軽く笑って、肩をすくめる。
「隠すことでもないだろ?」
「それはそうだけど、志乃ちゃんに余計な心配をかけさせなくたって──」
「心配をかけるんじゃない。兄さんが無理しないように知っていて欲しいだけだよ。志乃ちゃんだって、内緒にされたくないでしょ?」
志乃はコクリと頷く。確かに学校の教師からして見れば、親のいない生徒ほど厄介な存在も無い。書類上の保証人はいるとは言え、もしも事故や事件が起きた場合、責任の尻拭いをしたくないというのが学校側の意見なのだろう。
「成績が下がったら、向こうへ帰るように言われたけど、親戚連中は僕ら全員を引き取る事は了承しなかった」
「それって?」
「兄弟バラバラ」
と腹ただしそうに、美樹はぼやいた。
「でも、保険金は自分によこせって言うのよ! 志乃ちゃんどう思うっ!?」
と美樹はすっかり逆上している。陽大は苦笑した。
「寄越せじゃなくて『預かってやる』だよ、あの人達の台詞は」
「同じよ! そんな奴の所には誰が行くか、っていうのよ!」
「僕は兄ちゃん達と離れるの嫌だ」
「私も晃と離れるのは嫌だよ」
と晃と亜香里が声を揃えて言う。陽大もコクンと頷いた。
「うん。志乃ちゃん、これが夏目家の結論なんだ。兄さんの成績は下がるどころか上がった。それがどんなに大変な事なのか、僕はよく分かる。でも、だからって無理してほしくない。 残念だけど、僕らには兄さんを助ける力は無い」
「そんな事は無いんじゃないかな、陽大君は新聞配達までして、陽ちゃんの事を手伝っているじゃない? 美樹ちゃんも家の家事を頑張っているし、晃君と亜香里ちゃんも、自分の事は自分でして陽ちゃんの負担にならないようにしているし。陽ちゃんは、充分だって思ってるよ、きっと」
陽大と美樹は顔を見合わせ、小さく笑う。
「そうかもしれないけど」
と美香は言った。
「それでも足りないんだ、兄さんを助けるには」
と陽大も言う。
「僕らは小さすぎる」
「それは……」
「だから陽アニが無理しないように、志乃ちゃん、これからもお願いします」
美樹はペコリと頭を下げた。陽大も頭を下げる。それを見て、晃と亜香里も頭を下げた。
「ちょっ、ちょっと! みんな!」
と志乃が慌てた時、店員がラーメンをカウンター越しに差し出した。
「お待ちどう様」
と陽一郎はにっこりと笑って言った。
「陽ちゃん……」
「のびないうちに食べな」
そう言われるまでもなく、晃はすでに食べ始めている。陽一郎は失笑して、仕事に戻った。
その一瞬だったが、陽一郎は志乃に笑ってくれた。ただ、それだけで嬉しい。
志乃は陽一郎の仕事中は邪魔しないよう心に決めていたので、一言も話す事はできない、と思っていた。でも、すぐに傍にいるのに話せないのがこんなに苦しいとは思ってもみなかった。
志乃は陽一郎を見る。陽一郎が志乃にむかって一瞬だが、にっこりと笑ってくれたのが見えた。
志乃もラーメンを口に運ぶ。
「おいしい」
と思わず漏らした言葉に、店長も陽一郎も嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
「兄弟や志乃ちゃんに想われて幸せだな?」
と客の流れが落ち着いたころ、店長がわざと陽一郎に聞こえるように呟く。
「何がですか?」
わざと陽一郎は聞こえないふりをする。店長は可笑しそうに、腹をかかえて笑った。
何が、とは店長はあえて言わなかった。
その陽一郎の表情に笑みが浮かぶ。言われなくても分かっている──ここまで自分の事を気遣ってくれる兄妹や志乃に感謝してしまう。まだまだ働かないと、と思う時がある。でも無理をして、体を壊せばかえって心配をかける。それは店長に耳が痛くなるほど言われた言葉だ。
それでも、ガムシャラに無理をしていた時期もあった。
両親が死んだ事に対する悲しみや怒りを払拭するために。でも、それすら帰りを待っている家族がいてくれる事に気付き、感情は萎えて冷静になれた。
そして志乃が今いる。 それが何よりも嬉しい。
「陽坊、男なら態度をはっきりとさせた方がいいんじゃないか?」
とニッと店長は笑む。
「え?」
「いつまでも子供のままじゃ、困るだろ」
意味深な微笑を浮かべて、チャーシューを切る。
「親父さん?」
「女の子を待たせるだけの男は最低だぞ?」
ニヤニヤしつつ、目は笑っていなかった。
「うん……」
「ま、夏休みは始まったばかりだからな」
「うん……」
それは陽一郎が迷っていた事でもある。
子供のままの二人じゃいられない。陽一郎は小さく溜め息をついた。何を迷っているのか自分でも分からない。ただ、臆病になっている自分がいる。安堵している自分もいる。そこから幼いまま、一歩もむ進めない自分がいる。忙しいなんて、所詮は言い訳だ。
夏休みはまだ始まったばかり?──もう九日も過ぎたのに?
陽一郎が再度つく溜め息を聞きながら、店長は小さくまた微笑んだ。
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