8月7日「また晴れ」


十九日目







 今日も晴れていた。


  

 北村はスケッチブックと水彩絵の具を持って家を出た。


 家を出るとき、父が目を丸くしていた。母親の葬式から、父の見える所ではろくに絵なんか描こうとしていなかった息子が、また絵を描こうとしている。正直、北村父は自分の息子が何を考えているのか分からなかった。それは息子の父に対する気持ちへも同様だ。


 が、と北村は思う。親子だから、何かもかも理解しあっているだなんて、それは幻想だ。夫婦ですら、永遠の愛なんて無い。父と母は愛し合っていたのかもしれない。演じていたのかもしれない。それすら北村には、理解できない。ただ父は北村にとって父親で、母は北村にとって母親だ。その事実一つでいいと思う。事実一つそれでいい。結局、北村夫婦は離婚していなかったし、母は最後の瞬間まで父に笑っていた。父は母が危篤ときくと、仕事を投げ出して、日本に舞い戻ってきた。


 ――お互いに、甘えられん奴らだ。


 苦い顔で、両方の祖父母が肯いていた。北村は呆然と、そんな二人を見ていた。


 誰かを好きになると誰かが傷つく。そして自分も傷つく。


 だから、あえて人から一歩距離を置く習慣ができた。吉崎に取り繕った笑顔で笑うな、と激昂された事があった。きっと北村の内面を感じ取っていたのかもしれない。


 それでも北村は取り繕った笑顔を消す事はできなかった。


 朝倉志乃と会うまでは。


 変わった。自分でもそう思う。志乃を自分のものにしたいと思う自分がいた。最初から気づいていたのだ。志乃には想い続けていた人がいるという事を。でもあの子は自分が誰を好きなのか、まだ気づいていない。気づかないうちに、自分の方に振り向かせることができたら、北村の勝ちだ。勝てる、とそう思った。笑顔がとても狡猾になっていた気が自分でする。


 結局、北村はその勝負には負けたが。


 手が届かないから、手を伸ばしてみたくなる。結局、手は届かない。分かり切っていた結末だ。そして最悪の結果だった。自分だけじゃない。あの無垢な子を目一杯傷つけた。夏目陽一郎にも罪は無い。吉崎も巻き込んだ。人を好きになるという行為が、これほどまで重くのしかるのは初めてだ。


 面倒だ。みんな面倒だ。


 だが、人のいい笑顔を続ける自分に嫌気がさす。嫌なものは露骨に拒否する父の感覚が羨ましい。


「岳志」


 と眩しそうに、息子の名前を呼ぶ。北村は振り返る。


「いい絵が描けそうか?」


「え?」


「いや……なんでもない……がんばれ」


 親子の会話は今日はそれだけだった。ただ、寡黙な父の表情がどことなく嬉しそうだった気がする。そんな父の顔を見て、北村も少しだけ心が軽くなった。不器用なのだ。お互い。それを自覚する。父の背中を見ながら。


 自分より小さな背中。弱々しい背中。だが疲れてはいない背中。戦い続けている背中。その胸に妻を常に抱きながら、戦うことを諦めない、そんな後ろ姿。


 北村も背を向けてドアノブに手をかけた。干渉しあわない親子。だが北村が思っている以上に、父は息子のことを見ていたのかもしれない。夏休みになって家に閉じこもってばかりいる息子。父の問いかけにも無気力だった息子。取り繕った笑顔も家の中ではさすがに萎えて消える。そこまで演技し続けるほど、北村は役者じゃない。父は干渉しないのではない。ただ、案じ続けていた。それだけだ。父なりに息子を心配していた。


 奥にいる父に、北村は聞こえるように声をかけた。


「行ってくるよ!」


 しばらくして、相変わらずの声が聞こえた。


「ああ、行ってこい」


 北村はドアを開けた。唇から微笑が漏れた。太陽の光が眩しい。ドアをゆっくりと閉める。空を見上げる。命を吹き込んでくれるような爽やかな風が、髪を撫でる。


 北村は何も考えず、画材を抱えて、走り出した。


 


 









 水で溶かす。


 単色の青がゆっくりと溶けていく。北村は筆で優しくその青を撫でる。混ぜ合わせる。ゆっくりと。ゆっくりと。色々な青を作っていく。淡い青。水の青。空の青。青は、その時間、その場所によって表情を変えていく。波紋のある場所と無い場所。水飛沫。差し込む陽光。流れゆく雲。


 ──絵はね、写真じゃないのよ。


 母は美術教師だったせいか、北村にいつも教育口調で言う。北村はそれを聞くのが嫌ではなかった。今から思うと、北村家の親子の時間はそれくらいしか無かったと思う。


 ──絵はね、表情を作るの。経過した時間じゃない。あの瞬間を絵を閉じこめるの。その日の画家の気持ちでね。気持ちだから、全て真実じゃなくてもいいのよ。岳志が見た空を、こんな青だと思えば、それは岳志の空だから。


 北村は母の言葉をなぞるように聞いていた。


 絵の嫌いだった自分が絵を描いている。それがとても可笑しい。でも、絵を描いている時間は今ではとても貴重だ。上手くは無いと思う。美術部も半幽霊部員だから。上手い連中ならいくらでもいる。でも北村は絵を描いている。上手いとか下手とかじゃない。ただ自分にできる唯一の事だから。呼吸と同じだから。


 筆をパレットから離す。北村は決意を決めた。


 スケッチブックの下絵に、そっと色をいれていく。いつもこの瞬間は、心臓が止まるくらいドキドキする。


 ──失敗は許されないのよ。世界に色を塗るんだからね。


 呼吸。息を吸う。そして吐く。失敗は許されない。でも成功したら、世界は呼吸を始める。


 空に青が滲んだ。いい。そんな感じだ。


 雲一つ無い青。青。青。濁らない青。濁らない世界。裏切らない世界。傷つかない青。子供たち。微笑み。柔らかい日だまり。無垢。青空。飛行機雲。汗。太陽。


 言葉にするのなら、きっとそんな感じ。北村は、迷いなく色を埋めていく。


 無地が鮮やかな灯りを灯す。北村の思い描く絵は、淡く、どことなく消えそうなくらい儚い。だが、確かに存在している事をアピールするよう光り輝く子供達と、噴水の水飛沫が眩しい。


「綺麗」


 横から声がして、北村は思わず顔を上げた。昨日のあの子が真剣な表情で、絵を覗き込んでいた。


 北村は硬直する。筆が止まる。彼女は、北村の絵に引き込まれるように見つめていた。


「君の絵は硝子細工みたいだね」


「……本当に来たんだ」


 北村は呆れて言う。その言葉に不思議そうな顔で、彼女は北村を見る。愚問、と言いたげに。


「だって昨日、言ったはずでしょ?」


「それはそうだけど」


「それなのに君、昨日とは違う場所にいるんだもん」


 少し怒ったような表情で、彼女は言う。北村はまた呆れて-------そして可笑しくて、吹き出した。北村はできるだけ噴水の近く、それでいて日陰になる場所を選んだ。そうでないと熱中症になってしまう。その北村の言い分も彼女には通用しそうになかった。


「君が同じ場所にいないおかげで、私は散歩コースを外してきたんだからね!」


 と本気で膨れて言う。言い方を変えれば、散歩コースを変えてまで、北村に会いに来た。北村の絵を見に来た、と彼女は言いたいらしい。不思議な人だ、と思う。むしろ変な人だと思う。


「ペロに謝りなさいよ」


 と柴犬に向かって言う。とうの柴犬ベロはリラックスしたむ雰囲気だが、その犬に謝れと彼女は言う。やっぱり変な人だ、と思う。おかしな人だと思う。でも、それが彼女の照れ隠しなのに北村は気付いて、小さく微笑んだ。少し、可愛い人だ、と思う。


「はいはい、ごめん」


 とベロの頭を撫でる。子犬は気持ち良さそうに目を閉じて、欠伸をする。


「誠意がこもってなーい」


「大変、失礼いたしました」


「心がこもってない」


「ごめんなさい」


「もう一回」


「すいません」


「投げやりな言い方。減点」


「ごめん、って俺、悪くないし」


「悪い。約束破りは私、嫌い」


「約束してないよ」


「……したよ。だから君はここにいるじゃない」


 と言って、空を見上げる。その目が、少しだけ遠くを見ていた。その目が今度は北村を見据える。


「だから私もここにいる」


「え……」


 ドキリとする言い方だった。分からない。自分の感情が。ただ、彼女から目を離せない自分がいる。落ち着かない。彼女は北村の絵をもう一度、まじまじと見た。そして北村の表情を見た。


「君ってさ」


「え?」


「本当に素敵な感性しているよ。空をこんな風に描ける人は素敵だと思う」


 青。そう青く淡く柔らかい青。風の溶け込むような、濁りの一つ無い、そんな優しい青。北村の理想。誰も傷つかない世界。そんなモノは無いけど。


「私は絵は描けないから、なおさら素敵だと思う」


「絵なんて、ただの紙っぺらだよ」


 北村は何気なく言ったつもりだったが、彼女ははっとしたようにその言葉を、食い入るように聞いていた。


「同じこと言われた」


「同じこと?」


「写真なんて、ただの紙キレだよ、って」


 彼女はそれ以上は何も言わない。北村も何も聞かなかった。触れていい事といけない事がある。少なくとも赤の他人同士でしかない二人が、触れていいことではないと北村は判断した。──否、聞けなかったと言うべきかもしれない。彼女のその切なそうなやりきれない刹那の表情が。それはすぐに消える。


 北村は黙々と色を埋める事に専念した。言葉にすればするほど、余計に彼女の事を知りたがる自分がいるから。浅ましいと思う。打算だ、と思う。


 浅ましい──。


「モデルにならない?」


 笑顔で北村は彼女に言っていた。彼女は固まったように、目をぱちくりさせた。北村は髪を掻きあげた。気まずい沈黙だけが流れる。


 と彼女は、ぐっと北村に顔を近づける。甘いような、くすぐったいような、彼女の呼吸が北村の頬を撫でる。それだけで、北村は心臓が跳ね上がりそうになった。


 変な人だ。


 そして俺も変だ。なんなんだ、この感情は。


「私なんかで、本当にいいの?」


 ぐっと体を乗り出す。北村はただ肯いた。


「私は美人なんかじゃないよ」


 北村は横に首を振って、微笑んだ。美人じゃない──それは彼女の基準だ。北村の基準から見れば、とても可愛い子だと思う。志乃とは違う可愛さだ。志乃のように表情がくるくると変わるが、無防備では無い。自分の意志と向かい合っている。ある意味、子供という殻を脱ぎ捨てている。こんな大人な目をしている女の子を、北村は今まで見た事がない。だからこそ、新鮮だと思う。


「明日からどう?」


「その絵は?」


「今日で完成するから」


「そうしたら君は明日も来るんだね?」


「勿論、だってモデルは目の前の女の子だしね」


 笑う。彼女も小さく笑みをこぼした。


「じゃ、約束だね?」


「あ、うん」


 と北村はにっこりと笑った。


 約束。彼女は約束に随分とこだわる。むきになる、と言ったほうがいいのかもしれない。不思議な人だ。おかしな人だ。かわいい人だ。楽しい人だ。でもやっぱり変な人だ。


 と退屈した柴犬ベロが今日もまた催促している。北村と彼女は顔を見合わせて、また笑った。


「じゃ、明日ね」


「うん、また──」


 と言って気付いた。昨日はそんな事、一言も言わなかったのに、今日は彼女の口からそんな言葉が自然と出ている。そして北村も、そんな言葉が自然と出ていた。


「明日、ここで待ってるよ」


 北村の言葉に彼女は嬉しそうに微笑み、ベロに引っ張られつつ、駆けていく。


 それを尻目に、北村は彩色の仕上げに入る。


 青。青。無垢な青。

 空。空。果てまで続く空。


 雲。雲。消えそうな雲。

 色。色。世界を灯す色。


 青。青。溶けそうな青。


 青が朱と混ざり合い、夕焼けの色が強くなった時間に、ようやく全ての作業は終了する。


 出来上がった自分の作品を見て、北村は久々の充実感を味わっていた。


        

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