8月6日「晴れ」


十八日目








 この日は晴れていた。






 北村はぼーっと、空を見上げていた。目の前を子供が走り抜けていく。涼しい風が頬を撫でる。眩しげに、空を見上げて、ベンチにもたれかかった。膝の上には白紙のスケッチブックと愛用のHBの鉛筆。


 志乃のラフは描かなくなった。──いや、描けなくなった。


 いいことだ、と相棒の吉崎は笑う。その事を話すと。


 そうじゃない。

 別にふっきったわけじゃない。


 風が頬を撫でる。砂埃が舞う。子供達の笑い声。噴水の中で遊んでは行けません、という看板を無視して遊びに夢中になるイタズラ・キッズ達に微笑みつつ、北村は鉛筆を握った。


 砂埃が舞う。今その瞬間のように、志乃がどんな顔で笑っていたのか、思い出せない。笑い顔が一番可愛いと、付き合っていた時思っていた。だからもっともっと笑わせていたい思っていたが、その好きだった笑顔がもう思い出せなくなってきていた。


 夏休み、になって十八日目。

 早いな、とため息をつく。


 このまま、何もしないで終わる気がする。まで死人のようだ、と最初の頃は吉崎に言われた。自分でも自覚がある。世界中の色を見ることができなくなったような、色彩感覚の欠如。絵を描く事すらできなくなった。ただ志乃のラフを描き続けた。


 あの夏祭りの日、志乃のラフ画を全て破った。


 花火と一緒に舞い上がった。


 志乃の笑い顔は北村の中では、その日に死んだ。殺した。それでいいと思う。志乃の笑顔は、北村に出会う前から、夏目陽一郎にむかって向けられていた。ただそれだけのことだ。ただ、それだけ。あの二人は回り道をしたにすぎない。北村は志乃のその気持ちを知っていながら、それを逆手にとり、利用していた。付き合ってしまえば、想い人の事も淘汰できる。その打算で。


 結局は無理だったけど。


 あの日、ラフを破ってから、北村は志乃の顔を描けない。写真は吉崎が、愛用のジッポライターで燃やしてくれたし、そこまでして志乃の笑顔を描きたいとは思わない。


 ただ無心になって初めて気づいたのだ。北村はスケッチに描いていたラフ画の複製を作り続けていただけだ、という事を。北村はそれに気づいていなかった。タダ、心の隙間を埋めたい一心で、描き続けていた。


 北村は今、子供達の遊ぶ姿をスケッチしていた。何もしないで死人のように過ごすほど、時間を無駄にしたい人間じゃない。志乃に会う前から絵は描き続けていた。だから、絵だけはやめる事はできない。どんなに悲しい事や辛い事があっても。絵は小学校の時に離婚した母親が、北村にくれた最後のプレゼントだから。


 絵を描く事は好きだった。でも、下手だった。今では誰も信じないが、北村は小学校の時、図画工作の授業の成績が一番低かった。下手だから、描きたくなかった。でも、好きだった。


 母親はそんな北村を見抜いていたのかもしれない。

 スケッチブックと鉛筆と水彩絵の具を誕生日にプレゼントしてくれた。


「岳志、絵はね、描けば描くほど命が宿るの」


 にっこりと笑って、そう言ってくれた。描けば描くほど、上手くなるから。好きなら描いてみなさい。そう目で言っていた。上手い下手じゃないから。岳志が岳志の世界を描けたらね、それはきっと素敵な事だから。


 自分で思うのも変だが、妙に達観した子どもだったと思う。父と母の仲がよろしくない事を北村は気づいていた。父は優秀なビジネスマンだった。単身赴任でニューヨークへ。優しいが寡黙。ゆえに自分の感情を表に出すのが下手な人。だから、離婚届けも彼女の言うとおり、印を押した。北村はその姿を見ていた。冷静そうな後ろ姿。小さく微笑んだ母親。最良の選択、と母は言った。父はその言葉を受け止めて、肯いていた。


 その後の父は、この日本へと戻り、北村と二人で生活をしている。少し表情が軟らかく――そして寂しそうな顔で。相変わらずの寡黙で。


 父は出勤前に、母の写真に目を向ける。そして、くしゃくしゃにまるめた離婚届を見やる。位牌の前に置かれたくしゃくしゃな離婚届を。父は離婚届けは出してなかった。が母は離婚したと思っていた。お互いがお互い、演じ合っていた。お互いが傷つかない演技を必死に考えながら。常に家にいない父だから可能な演技で。


 母は末期の子宮癌だった。


 結局、離婚届けを役所には出してないから、北村の姓のまま、母は墓で眠る事になった。昔から不器用だったな、お前さんたちは。と母方の祖父が、目を細めて言っていた。


 北村は、あの日、離婚届けに捺印した父の後ろ姿が目に焼き付いて離れなかった。だからスケッチブックに父と母の最後のシーンを描いた。水彩絵の具で彩色までして。そうしたら何故か、二人は幸せそうに微笑み合っているように見えた。


 ウソでも命は宿る。--------いや、違うかな。


 あの日、たぶん二人は、お互いの思惑が分かっていたのかもしれない。


 それでもあの瞬間から父と母は死んでいた。北村の中では。それが絵を描くことによって、命が宿った。だから北村は絵だけは、絶対に止められない。自分の世界で描く事は、つまりは二人を信じる事になる。


 北村は水飛沫の中、はしゃぎまわる子供達を一心にスケッチしていた。


 こんな気持ちで絵を描くのは、何日ぶりだろう。たぶん、志乃と一緒にいるときは絵を描いていなかった。志乃と別れてからは、複製のスケッチだけを大量生産していた。


 と犬の鳴き声で、北村は顔を上げた。北村の後ろから覗き込むように、背のすらっと高い女の子が、そのスケッチを見ていた。子犬の柴犬をつれて。北村は唖然として、その子を見やる。

 風がその子の甘い髪の香りを運ぶ。亜麻色で長い、柔らかい髪の香りを。


「ごめんなさい」


 彼女はペコリと謝った。


「邪魔するつもりじゃなかったんだけど」


 俯く。でも、彼女は北村の絵から目を離さなかった。北村は彼女の目に吸い込まれそうになった。どこか安心したような目で、北村の絵を見ている。


「絵が好きなの?」


 と北村は聞いた。


「違う、君の描く絵に興味があっただけ」


「え?」


「だって君、昨日もいたでしよ?」


「あ……うん」


「夏祭りの前も」


「ん…うん」


「あの時は、顔のない女の子のスケッチばかりで何だか怖いって言うか──悲しかった」


「え?」


「でも今日のは、すごく生き生きした絵だよね。うん、私はこういう絵を描く君、いいと思うな」


「……いつから見てたの?」


「夏の初めから」


 クスッと笑う。柴犬が早く行こうと催促しているのが見えた。北村は笑う。誰かに向けて、笑うなんてすごく久しぶりな気がする。


「そういうのはプライバシーの侵害、って言うんだよ」


「私の散歩コースにいる君が悪いんだよ」


 初対面なのに初対面じゃないような、そんなやりとり。


「明日も君はここにいるの?」


 と彼女は聞いてきた。北村はコクリと肯く。


「明日もここに来るの?」


 と彼女に聞いた。


「私の気がむけばね」


 と小さく笑う。それだけ。ただそれだけ。北村はまたスケッチに没頭した。彼女もまた自分の犬に声をかけて歩き出した。「ばいばい」も「じゃあね」も「またね」もなかった。第一、北村は彼女の名前すら知らない。向こうがほんの少しだけ先に、北村の絵を見ていたに過ぎない。


 彼女は私の気が向けばね、と言った。


 なんて子だ、と笑いがこみ上げてきた。つまり彼女は、来ても来なくても、ここで絵を描いてなさいよ、と言っているのだ。変な人だ、と思う。


 風が彼女の香りの足跡を運んだ。それは、すぐ消える。


 


 


 

 空を見上げた。


 晴天。その二文字で説明が事足りる、青。青。青。青の原色では表現しきれない青。この青を表現するために、どれほど多くの画家が色彩との格闘をしてきたことか。


 今日、とても晴れている事に北村は初めて、気づけた気がした。


 青。

 雲の流れすら無い青。


 自分の心を埋める青。

 硝子よりも透明な青。


 今日でこのスケッチを完成させて、明日は水彩絵の具で色を塗ろうと思った。


 原色では表現できない青を。自分が描ける世界を。宿る命を。動き続ける人たちを。絵では収まらない鼓動を。流れ続ける時間の一コンマを。


 空を見上げる。

 今日はとても晴れていた──。

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