第12話「薫る桜花(4) - 奪い、奪われる世界」 - “Scents of cherry blossoms chapter 4 - World of killing”

爽やかな陽気の中で、春の訪れを告げる新緑と花々の彩りが、山の斜面を染める。

満開の桜がまるでアーチのように、僕達の歩いているどこまでも続いていきそうな街道を祝福してくれているようだ。

装束姿のままで、彼は振り向きながら下らない冗談を言って、後を追う僕達を笑わせてくれるんだ。

僕の傍らでは、朗らかに、そして柔らかく、彼女は微笑んでいた。

その側を、舞い散る花びらを拾い集めては放り投げて遊ぶ妖精の姿もあった。

芳しい甘い香りが鼻孔を満たす。

ふと、舞い落ちてきた花びらが鼻頭に乗って、思わずくしゃみをする。

えへへ、と僕が笑えば、3人もつられて笑ってくれる。

幸せの時間。

幸せな夢。

僕は、夢を見たんだ。


降り注ぐ雨粒が、積もった枯れ葉に力強く打ち付けて、外の天気をこの場所まで伝えてくれている。

視線の先には、腐って剥がれ落ちた木の断面が広がっていた。

横に目をやると、大きな穴の外に広がる、鬱蒼とした濡れる森の景色が目に入る。

その穴の縁には、僕と大差のない大きさで、蝶のような羽根を生やした人間みたいな女の子が座っていた。

フェアリーだ。

きっとここは、大きな木の虚の中なんだろう。

ふと思い出して、思わず首元に手をやる。

そこに空いたと思っていた穴は、眠っている間に塞がってしまったのだろうか。

彼女は、僕が目覚めたのに気づくと、また視線を森へと戻して、呟いた。

「あなたまで死ぬことはないって思ったから、助けただけだから」

まるで突き放すような、冷たい言い方。

「起きたなら、出ていって」

フェアリーの鱗粉には、癒やしの力があると聞いた事がある。

彼女が、僕を助けてくれたんだろうか。

でも、なんだか僕は、この子が嫌いになってきた。

「あの… ありがとう」

「口も聞きたくないわ。とっとと出ていって」

やっぱり僕は、この子が嫌いだ。

でも、そう思いかけて、ふと、懐かしい香りがした。

「…君からは、あの人の香りがするね」

そのフェアリーは、何も答えない。

肩が震えている。

声を押し殺して、泣いているのか。

顔が見えないから、表情が見えない。

「ごめんね。僕が、彼を連れてきたから… もう、行くね。治してくれて、本当にありがとう」

僕は、彼女の顔を見ないようにして、木の外に飛び出した。

虚の外は、大雨だ。

でも、風はない。

重たい雨が、僕の全身に降り注ぐ。

走ろうかと思ったけど、雨粒が僕の毛を濡らして、僕の身も心も、重く、重くしていく。

”隙間”の空間を渡っていけば、幾分かは濡れずに済むかもしれない。

でも、今はそうするつもりにはなれなかった。

優しかった、サクラさん。

彼女が僕の喉に、あの刃を突き立てたんだろうか。

そんなはずはない。

きっと何か、おかしな術を、誰かに受けていたのかもしれない。

一時的に、操られていたのかもしれない。

微かに思い出される、あの瞬間に感じた不自然な屍臭。

信じたくない。

そんなわけない。

彼女が、死んでいたなんて、信じたくない。

あの時も、そう思って、浮かんだ疑問を押し殺したんだ。

無視したんだ。

でも、あの場所に戻れば、またサクラさんがいるんじゃないかな。

もう一度顔を見せたら、今度は、笑って迎えてくれるんじゃないかな。

悪い冗談だったんだよって。

夢を見ていただけなんだよって。

そう優しく笑ってくれるなら、今すぐにでも駆け出していきたいのに。

1秒でも早く、走ってあの場所に戻りたいのに。

あの場所を目指して歩いていくにつれて、僕の鼻に覚えのある匂いが戻ってくる。

芳しい甘い香り。

それに混じる、肉の腐る臭い…

もう、あと少し歩けばあの場所なのに、もう僕の足はあの場所に戻る事を心の底から拒絶していた。

屍。

それも、2つの屍が、そこにある。

匂いでわかってしまう自分の鼻が、今はたまらなく憎い。

踏み込んだ先には、雑に突き立てられた太い枝が、2本。

その下には、僕の絶望が、眠っている。

どうして、今さら、穏やかな日々が得られると、願ってしまったんだろうか。

どうして、今さら、幸せになれると思ってしまったんだろうか。

これが、僕の仕事だったというのに。

これが、僕の生きる世界だったというのに。

きっと、僕は彼と、同じだったんだ。

僕も、彼も、命を奪う側の存在だったんだ。

命を冒涜し、奪い、それによって生きていく定めの、呪われた命。

これは、きっと報いだ。

何かを奪う者は、誰かに何かを奪われなくとも、運命に何もかもを奪われていくんだ。

そうして、本当に欲しかったものなんて、何も手に入らなくなってしまうんだ。

歩み寄っていくにつれて、死の匂いが充満していき、吐き気を催す。

墓標の前に立った時、たまらず僕は、嘔吐した。

ここから、逃げ出しても、どこでもない場所まで逃げて、全て忘れて、できればそうして死んでしまいたい。

でも、これが僕の選んだ世界だ。

もう、戻れないんだ。

二度と戻らない事を、いつの日か選んだのは、僕自身だった。

口元を拭い、意を決して、マントと毛皮の”隙間”の空間に、手を入れた。

そこから、人間の子供が砂場遊びに使っていた、小さなスコップを取り出した。

嫌悪感と拒否感が一気に襲ってくる。

「何をするつもりだ?」

心の隅に残った良心が、あるいは僕の最後のまともな精神が、僕に自問してくる。

決まっているだろう。

僕に、他に何があるのか。

屍を集めること。

それを、力を欲する人達に届ける事。

それが、僕の仕事。

どんな怪物に追われても、どんな罠に脅かされても、今までの仕事の中で、こんなに辛かった事は、一度もなかった。

スコップを土に突き立てる。

もう一度喉の奥からこみ上げるものを、無理に飲み込む。

焼けるような酸っぱい不快感が、喉を覆っている。

突き立てたスコップで、土を払う。

土を払い、土を払い…

美しい花をあしらった、血のように赤い生地が覗いた。

その時、背後の空間に捻れが生じるのを感じた。

咄嗟にその場で身をよじる。

光弾が頬をかすめ、眼前の木々を貫いていった。

光が通り抜けた木々には、鉛筆ほどの穴が、無数に開いている。

まるで、散弾銃で撃ち抜かれたみたいに。

振り返った先に、フェアリーの少女が浮かんでいた。

その悲痛な怒りの形相に相対して、僕が心に覚えた感情は、恐怖や反発ではなかった。

同情と、共感と、憐憫であった。

「…お墓に、何をするつもり?」

嗚呼、どうして君はまたここに来てしまったんだ。

君はただ、巻き込まれてしまっただけだと言うのに。

「これが、僕の仕事なんだ」

”隙間”の空間に手を入れて、護身用にドクターから譲ってもらったブーメランを取り出す。

しかし、逃げ隠れして旅してきた僕に、どれほどの事ができようか。

彼女は、間違いなく、異常なほどに、強い。

まるで猟銃のようなあの光弾相手にして、実戦経験の皆無な僕にどれだけの勝ち目があろうか。

「僕も、とても辛いけど… 2人は貰っていくよ」

「あなたが、何を言っているのか、わからないわ…」

少女は、泣き出した。

両手で目元を拭いながら、人間の子供みたいに、泣きじゃくっていた。

スキだらけで、逃げたり、投げたり、何かできたのかもしれない。

でも、僕はメソメソと泣く彼女を、じっと見ていた。

心の中で、これから死ぬ僕の代わりに、めいっぱい泣いてくれと、頼み込んでいた。

やがて、彼女は目元を払い、僕を鋭い眼光で睨みつけてきた。

「…やっぱりあなた、生きているべきじゃあないわね」

やっぱり、こうなる運命なんだね。

君もきっと、今こうして、奪う者と、奪われる者の世界に、足を踏み込んだんだよ。

僕は叫んででも止めたかったけど、君は君自身の優しさのために、どうしてもこっちに来るんだろう。

叫んだところで、きっとそれは、僕にも止められない。

むしろ僕が招いているんだって事も、わかってる。

でも、どうして僕たちは、こんな形でしか、出会えなかったのか。

みんなで一緒に、君とも一緒に、東国で待つ桜の木々を見に行く。

ケンゾーも、サクラさんも、みんな一緒で。

そんな幸せな未来も、あり得たんじゃないかな。

きっと君も、同じ未来を願っていたんじゃないか。

きっと、きっとそうだろう。

でももう、戻れない。

ただ今は、彼女の未来を哀れむばかりだ。

ブーメランを振りかぶり、跳躍する。

彼女が身構え、指先が瞬く。

きっとこれが僕の、最初で最後の戦い。

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