第38話 『白き山脈にて (2) - “エレドスティ山地"』 In the white mountains chapter 2 - “Mountains”

エレドスティ山地は白銀に覆われている。

所々灰色の岩肌が覗いているが、モノクロの世界が山頂まで延々と続いているのだ。

見ず知らずの人間が来れば、たちまち自分の位置を見失い、これまでも多くの部外者が山中で遭難し、姿を消したり、遺体となって発見されてきた。

エレドスティの狩人は先祖代々伝わる景色の覚え方を伝えてきた。

鹿岩、猪の木立、柊の穴…

似たような地理の中から僅かな特徴を捉え、形状によって動物や自然のものになぞらえ、様々な目印に名を付けて、位置関係を記憶し、道を知る。

エレドスティの狩人はそうしてきたのだ。

そして、村に奇跡でも訪れない限りおそらくは、私がそれを継ぐ最期の一人となるのだろう。

死体に宿ったジョゼフは私の指示に従い、急斜面を駆け上がっていく。

浮石の多い岩場を避け、雪庇を予見し、迂回の必要性を説き、最短の道筋を指し示す。

傍らでは、ライツが無言でその様子を見つめている。

背後に立ったアリーセがこちらを見ているのか、それともまだ山頂を見つめているのか、振り返る余裕のない私にはわからなかった。

やがて、しばらく道なりに進むだけのなだらかな斜面で、私の指示は一旦途切れた。

「山頂まで足を踏み入れる者は多いのか」

唐突に、ライツが表情を変えず、抑揚のない声で尋ねてきた。

面食らった私は即座に返答ができなかったが、しどろもどろしつつ、答えた。

「あ、いや… そうですね、そんなに多くはないかな。ここまで登れて、帰れる者がまずそう多くない」

「では、その大都市の蜃気楼とやらを目にした者も、多くはないという事か」

「数人ってとこですね。」

「なるほど… ならば、間違いなさそうだな」

これこそが、エレドスティに彼らがやってきた理由なのだ。

麓の村で囁かれていた、眉唾ものの噂。

それが遥か遠方に住む彼らの元にまで伝わって、こうしてここまで足を運んできたのだとしたら、恐るべき情報収集能力と言わざるを得ないのだろう。

実際に、最初に蜃気楼を見たのは、隣家のハンスだったはずだ。

それ以外に、狩り仲間の何人かが見たと言っていた。

私自身、山頂に足を運ぶ事は少なくなかったが、そんなものを目にした事はなかった。

多くの場合、それは吹雪いた日に見えるらしい。

吹雪いた日にわざわざ山頂まで登る馬鹿はいない。

山に通じた者なら、リスクを冒す前に降りるのが基本だからだ。

だから、それを見たという者は総じて、年数の浅い未熟な狩人達だった。

年長者達は、そうした噂を一笑に付していた。

山で吹雪かれた失態を誤魔化そうと、それらしい作り話をして誤魔化そうって算段だ、ハンスを真似して他の者も同じ事を吹いているんだ、そう言って取り合わなかった。

私も、同じ程度に考えていた。

作り話ではないにしても、極寒の中で似たような幻覚を見ただけだろうと、軽く見ていた。

その噂がどうやって村の外にまで流れていったものか。

出入りがない村ではないのだから、誰かがこの話を、村の外でしたという事なのだろうが…

村の誰もが信じなかった話を、部外者であるこの屍術師達は、端から信じていた。

信じるに足る何かを、無知なる村人には持ち得ない情報を、彼ら自身が持っていたからなのか。

確認する手段はないが、そうとしか思えなかった。

「着いたぜ」

耳の内側で声がこだまする。

目線をライツから戻すと、ジョゼフの視界のあった辺りには、一層濃い白さの靄が立ち込めていた。

いや、違う。

それは、山が見せる過酷さの一側面だ。

猛烈に吹き荒ぶ雪の粒が、ジョゼフの視界の一切を閉ざしていた。

仰ぎ見る山頂付近は、既に雲の中にすっぽりと覆われているように見えた。

私達がいる中腹はまだ穏やかに白い粒が舞い散る程度である。

山の天候は変わりやすい。

こうして山の中の離れた地点を直接目にする機会など持ち得なかった私は、実際に同じの山の中にいながら全く異なる気候に晒された二者間を実感し、大層感心してしまった。

しかし、ライツは無感動に、また抑揚のない声を出した。

「視界が悪いな。払うか?」

「ライツ様はすぐ楽しようとするんだからいけねぇなァ」

ジョゼフが冗談めかして言う。

「いいからさっさとやれ」

突然背後のアリーセが声を発したので、思わず後ろを振り向いてしまった。

事実上、彼女の声を聞いたのはこれが初めてとなった。

彼女は、明後日の方向を向いたまま、表情だけ苛立たしげに眉をしかめていた。

ライツがおもむろに呪文を唱え始めると、ジョゼフの視界に、死体の右腕が映る。

わかっていた事なのに、腐肉を晒したそれを見て、一瞬だけ目を背ける。

ライツの動きに合わせ、視界の中の右腕が同じように動く。

そのときだけはまるで、ライツがその死体の右腕を動かしているかのようにも見えた。

呪文を終えると、視界の中の右腕が光り、目映い筋が白く閉ざされた虚空に放たれる。

窓を拭うかのようにライツが右腕を左右に振ると、死体の右腕が同様に白い空間を左右に払い、それに合わせ、空気の裂け目とでも言おうか、前方の中空に雪の振り込まない空間が浮き上がる。

そしてその空間の先に、驚嘆すべき光景が広がっていた。

大都市。

噂が形容したその言葉は、決して間違いではなかった。

密集し、入り組んだ石造の建造物群。

外縁を城壁が囲い、その広さは、かつて目にした城下町を数個中に収める事ができるほどの威容であった。

「ほ、本当にあったのか…」

開いた口が塞がらず、呆然と見つめる私の脇から、アリーセが乗り出し顔を近づけて幻像に目を凝らす。

「…見せていますね、これ」

「だろうな」

ライツが相槌を打つ。

「見せる?誰が?」

素っ頓狂な声を上げる私を無視して、ライツが鼻の下に手を当て、考え込む。

「誘っている、のだろうな…」

その言葉に、背筋がぞわりと粟立った。

姿を消した狩人の仲間達。

何人もの仲間が、この蜃気楼を目にしている。

「実際に行ってみるのが早かろう。ジョゼフ、進め」

「アイサー」

ライツとジョゼフの手短な会話の後、視界が再び高速で動き始める。

「行くって、どこへ…?」

この場所で、今の私がどれほど間の抜けた存在なのか、自分でも嫌というほどわかっていた。

だが、わからないものはわからない。

それに変わりはないのだ。

ライツは、実に味気なく答えた。

「この都市に、ですよ」


猛然と斜面を駆け下りていく死体。

生身の人間であれば一昼夜はかかるであろう山越えを、屍術師連中は、ものの1時間足らずで為そうとしていた。

エレドスティ山地は複数の山から成り、麓の村に面した山は、テレス山だ。

実際にはパルムとナンネックという2つの山も面したコの字の中央に村があるのだが、パルムとナンネックは厳しく切り立った崖に面しているため、村から直接登る事はほとんど不可能である…少なくとも生身の人間なら、と今なら言えるが。

テレスを越えた先には、登りと同じだけの急勾配が待ち構えており、そしてさらにその奥に、レイーニ山や南北に横たわるナンネックの北端側などが連なっているはずだった。

しかし、そうした私の知識は、今この場において、何の役にも立たなかった。

視界には、広大な未知の盆地に、蜃気楼で見たものと全く同じ都市の情景が広がっていた。

こんな場所を、私は知らない。

「あの蜃気楼はいわば、入り口なのだろう。従来は何者も足を踏み入れられぬよう、目を逸らさせる術…具体的にどのようなものかは直接出向かねばわからぬが…が、施されていると考えれば説明がつく」

私の困惑と疑念を聡く察したライツは、丁寧な補足を加えてくれた。

「それはつまり、誰かがあの大都市を隠していたという事ですよね…」

私は質問しながら、聞かなければよかったと後悔していた。

当然ながら、私の質問は否定されず、首肯だけが返ってきた。

こうした会話を尻目に、死体はあっという間にその都市の南端にまで歩を進めていた。

見上げ仰いだ城門と思しき石柱は、天頂部が雪に霞んで詳細な造形が確認できないほどの高さを誇っていた。

その石柱には、私には全く想像もつかぬような未知の言語と見られる字の並びと、獣とも人ともつかぬ異様な生物の抽象化された像が彫りつけてあった。

ライツも、その彫り物を目にして、鼻先に指を当てて、考え込み始めた。

「私はあまり詳しくはないのですが… もしや、これはとてもその、古くて価値があるものなのではないでしょうか?」

私はおずおずと、自身の感想を述べた。

ただ、ライツの反応は、予期したどんなものとも異なっていた。

「仮にそうだとして、我々には関係ない」

その言葉に呼応するかのように、死体の視界がまたゆっくりと滑り始めた。

馬車が4台並んでも通れそうな幅の広い石畳の回廊は、城門と同じ高さのアーチを描いた天井の下をひたすらに真っ直ぐ伸びていた。

左右には、アーチを支えるように左右の直立した壁面が続き、それぞれ所々に大小の穴が開いており、それらが市場の露店のような、街道に面した何らかの建造物であるように見えた。

一体誰が、何の目的でこんな威容の都市を築き上げ、そして秘匿してきたのか、そうした背景を思うと、私はその威容に対する感動などよりも強く、薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。

素足で歩む死体は、足音らしい音も立てない。

回廊に踏み入ってからは風音も止み、回廊は不気味な静寂に包まれていた。

そうした状況にあっては、僅かな音であっても、聞き逃す事はなかったと言える。

進行方向の暗闇から、濡れた何かを引きずるような、気色の悪い音が聞こえてきた。

それと同時に、聞こえなくなったはずの、風音らしき音が幽かに響いた。

しかしそれは、あるいは本当に風音だったなら、どんなに良かったろうと思う。

二度三度、音は規則的に繰り返される。

やがてその音は、明確な声となって私の耳に響いた。

「テケリ・リ」

文字に起こすならば、こう記すのが適切かもしれない。

その声は確かな音の響きを持って、繰り返し、死体の立つ場所へと迫ってきていた。

本能が相反したふたつの欲求に働きかけ、私はその間に立ち、身動きが取れなくなっていた。

つまりは、「それを見たくない」という恐怖と、「それを見たい」という好奇とである。

「敵性だな、構えろジョゼフ」

「言われなくとも」

死体の視界がやや沈み、その腕が目前に上げられて拳と手首が映る。

そして…

その先に映ったものを目にしたとき私は、声にならぬ叫び声を上げ、尻もちをつき倒れた。

回廊と覆うほど巨大で、暗く虹色に発光するタール状の粘液の塊、それが、自らの意志を持って、身を捩り這いずりながら渦を巻いて、雪崩れてきていた。

その表面には、無数の眼球のようなものが、まるで滝壺に湧く気泡のようにせり出しては弾けては消え、明滅していた。

それはまた、姿を消した仲間達の末路を示唆するものでもあった。

もしもこの怪物に直接遭遇していたなら、私は容易く失神していただろうと思う。

ただ、今置かれた状況が、遠方の誰かの運命をガラス越しに垣間見るような他人事じみたもので、その溝によって隔絶されているという実感が、私の意識を現実につなぎとめる役割を果たしたと思えた。

「よく燃えそうだ」

嘲り混じりに、ジョゼフの独り言がこちらに届いた。

応えるように、ライツが短い呪文を口ずさみ、右手を軽く振るう。

幻像の中で、死体の腕が突如燃え上がった。

屍術師とは何者なのか、死体を使って戦うとはどういう事なのか、何故冒涜者達はそれを選んだのか。

その真実を、これから私は、目の当たりにする事になる。

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