第39話 『白き山脈にて (3) - “ショゴス"』 In the white mountains chapter 3 - “Shoggoth”
爆音が響いた。
視界が高速でぶれて、何を見ているのかわからない。
炎、黒煙、タール、石壁、そうしたものが矢のように視界を走り、やがて一点に留まる。
そこには、先程までこの世の全てを巻き込み押し潰さんと蠕動していた巨体が、炎に包まれ、燻り、焦げた姿だった。
内側から捲れるように波打っていたタール状の物体は、今はもう動かない。
表面に遺された眼球も、その全てが焦点を失い、増えも減りもしなくなっていた。
本当に、ただの一瞬であった。
死体は目にも留まらぬ速さで動き、そして自身の何十倍もあろう怪物を、いとも容易く屠ってしまったのである。
開いた口が塞がらないというよりも、最初はむしろ、何が起こったのかもすぐには理解が追いつかなかった。
およそ人間の為せる業ではない。
これが、屍術師達の戦いなのか。
敬意や感謝よりも、畏怖が心を支配する。
横に居座るライツに目線を向ける事もできず、荷物の袋に腰掛けたまま、私は項垂れてしまった。
「いいだろう、ジョゼフ。調査を続けよう」
「黒幕がいるパターンですかねこれは」
「予断は持つな。念には念を、だ」
ライツは淡々と指示を続けている。
自分がとても場違いな場にいる感覚が、一層強くなった。
こんな現実離れした戦いを前に、ただの狩人に何ができるというのか。
山を越えるまでの道程において、私でもできる事があるように思えていた。
だが、それはほとんど、その場限りの幻想だったのかもしれない。
未知の都市に降り立った以上、ここから先、私にできる事はもう何もないはずだ。
これ以上ここにいても、仕方がないのではないか?
とは言え、ではここから、独りで村に帰るなどという気にも当然なれなかった。
私は事実上、村を裏切り、捨てた身なのだ。
行く先などない。
思い返してみれば、約束の金も後金がまだだった。
彼らの戦いを見届けねば。
それが自分にできる、ここでの最後の仕事だろう。
気持ちを切り替え、再び幻像に目を向ける。
そこで私は、またしても思わず声を上げてしまった。
視界を覆う、暗い虹色のタール…
それが、前方、左右の進路を塞ぎ、四方八方から迫ってきている。
振り返る視界が、後方にも同様の接近を確認している。
「すげぇ数だな!」
再び幻像の中の腕に炎が灯る。
しかし、右方向から素早く伸びてきた粘液の触手が下腕へと絡みつき、燃え上がる腕全体を包み込む。
すかさず左からも粘液が迫り、視界がみるみるうちに粘液に囲まれていき、やがて暗転する。
「あぁ…!」
思わず、私は落胆の声を漏らした。
「…いいぞ、戻ってこい」
眉間にシワを寄せてライツが腕組みをした。
すると突然、それまでずっと私の右後方で眠ったように椅子に深くもたれたままだったジョゼフが顔を振り上げて、大きく息をついて叫んだ。
「ぶはァ!ありゃあ無理だわ、分が悪いぜさすがに」
ジョゼフはため息をついて、手の甲で額を拭った。
見れば、いつの間にか、彼は汗だくであった。
さらにジョゼフは続けた。
「だから言ったろ、黒幕がいるパターンだってアレは」
「まぁ、そうだろうな… 指示を出しているのか、操っているのか、はわからんが…」
ライツは再び黙考を始める。
私はまだ、心臓が跳ねるほど高鳴っていた。
まるで、死ぬ瞬間を目撃するかのようだった。
死体なのだから死んだというのも変な話だが、ただ、仲間達も、ああして飲み込まれ絶命していったのは間違いないように思えた。
そう思うと、嘔吐を催しそうになる。
私は思わず、胸の前で十字を切っていた。
急に、背後から声がした。
「次はどれを使いますか」
目前の幻像に集中しすぎて、斜め後方から同じように観察していた女性の存在を忘れていた。
アリーセは手近な死体袋を抱え、縦に積まれていたそれらを横に広げ始めている。
ライツは少しの間無言だったが、やがて鼻先に当てた手を膝に降ろし、真っ直ぐアリーセを見て告げた。
「情報が足りないな。一旦、偵察に切り替えよう」
それを受けてアリーセは頷くと、ひときわ小ぶりな袋を探り当てて、地面の図形の中央に運び込んだ。
そしてジョゼフをちらりと見ると、再びライツに向き直った。
「偵察だけなら、私がやりましょうか」
「オイオイ、俺はまだ行けるぜ」
ジョゼフが口をはさむが、アリーセは目線をライツから離さない。
「黒幕がいるなら、彼は温存しておいた方が良いでしょう。今回は、時間がかかりそうですよ」
ライツは真っ直ぐアリーセを見つめ返す。
ジョゼフは「まぁそうだけどよ…」とブツブツ言いながら、足を組んで膝の上に肘をつき、明後日の方を向いてしまう。
「わかった、偵察は君に任せるよ」
ライツの答えを聞いて、アリーセはほんの少し微笑んだように見えた。
しかし、すぐにその表情を潜め、彼女はジョゼフの座っていた椅子に足早に歩み寄った。
ジョゼフは椅子に大きくもたれかかってひとつ伸びをすると、そのまま勢い良く立ち上がって、気怠そうにアリーセと椅子を代わった。
胡座をかいていたジョゼフと違い、アリーセは両手を膝に添え、背筋を伸ばしたまま目を瞑った。
「良いですよ」
アリーセの合図を受け、ライツが呪文を始める。
最初の時と同じように図形が、そして死体袋が発光し、やがてライツの呪文と共にその光が止む。
今度は、袋が独りでに開いた。
小ぶりな袋を目にして、私は嫌な予感がしていた。
子供の死体なのではないかと想像していたのだ。
だが、私の想像は全く予期しない方向で裏切られた。
袋から突き出された顔は、兎のそれだった。
片耳が削げたそれは、軽やかに飛び出し、二足で器用に着地する。
それは、二本足で立つ兎だった。
そしてやはりそれもまた、毛皮のあちこちが剥がれ、ピンク色の肌が露出し、あるいはまたその肌も剥げ落ち、内側の筋肉まで露呈していた。
「度々で申し訳ないが、道案内をお願いします」
ライツが、私に対して軽い会釈をした。
「お願いします」
アリーセの声も、今度はやまびこのように耳の奥に響いた。
兎は、最初の死体とは全く異なる性質を持っているように見えた。
木陰や岩肌などに身を寄せると、一瞬視界が暗転した後、かなり離れた地点に唐突に顔を出すといった芸当ができたのだ。
そのために、ジョゼフを案内した時とは案内の勝手が異なった。
連続した視界の移動ではないため、彼女がどこに立っているのかわからなくなる瞬間があった。
しかしそれも、改めて目印となるものを視界に入れてもらう事で、確認し直す事ができた。
彼女の受け答えは簡潔で粛々としていたが、ライツの無感動さ、感情の起伏のなさから来る淡々とした姿勢とは異なり、いわゆる生真面目さのようなものが感じられた。
ライツは黙々と目的を達成する事に従事しており、いわば職人のようだった。
アリーセは、まるで軍人だった。
屍術団という組織の性質は知る由もないが、戦うための組織という印象からは、ある意味では彼女のような人間が一番それらしく思えた。
兎は間もなく、都市の入り口へと足を踏み入れた。
最初の死体に対して、半分ほどの時間で到達できた事になるのか。
兎は高い身体能力こそ有しないものの、迂回が必要な地形を全くといっていいほど無視した登攀が可能だったからだ。
最初の死体が喰われた回廊の入り口に立つと、既にその奥からは、風音に紛れて、あの忌まわしい鳴き声が遠く響いてきているのがわかる。
「マントを使います」
「わかった」
アリーセとライツの簡単な会話の後、死体の視界が一瞬、何かの布によって隠された。
すぐに視界は晴れたが、それまでとどことなく視界が違って見えた。
まるで、磨りガラスのようなものを一枚隔ててものを見ているかのような、不明瞭な見え方に変じていた。
私が興味深そうに幻像に見入っていると、兎はそのまま回廊をスタスタと直進していった。
「こ、この先には、あいつらが…」
幻像を指差しながらライツを見やるが、ライツは落ち着き払っていた。
「構わない、このまま進めばわかる」
死体は躊躇いなく回廊を進んでいき、間もなくあの悍ましき粘液の集団が視界に入った。
足元には、先程は見られなかった人骨が1つ、横たわっていた。
さすがの私でも、それが何なのかはすぐに判断がついた。
兎は構わず、そのまま直進する。
粘液の集団は、それぞれが這いずりながら、捕食されるべき哀れな被害者を探しているように見えた。
その巨体が回廊を塞ぎ、脇の方にほんの少し、人がふたりほど行き交える程度の隙間だけが空いていた。
兎はそちらに目線をやると、足音を立てないようにそっと脇の空間へ歩み寄っていく。
その間にも、無数の眼球が周囲を凝視し、勿論兎のいるべき方向にも視線を向けているように見えた。
だが、兎が手を伸ばせば触れられるほどの距離まで接近しても、どの眼球も反応する様子はなかった。
まるで、見えていないかのように。
もはや、何が起きても、何をしでかしても、驚きはしない。
おそらく、何かの特殊な力を用いて、姿を消しているのか、という事まで、想像がついた。
「マントを使う」と言っていたが、それがこの力なのか。
詳しくはわからなかったが、もはや取り立てて驚いたり質問したりするのも野暮なような気がして、特に何も発言せずに過ごした。
兎はそうして怪物達の間隙を縫い、集団がたむろする領域を抜けて、回廊のさらに奥へと向かっていった。
再びの静寂が訪れてから、しばらくの時間が経った。
鳴き声も遠ざかり、今や都市を覆う吹雪の風音さえも聞こえなくなっていた。
果てしなく続くと思われていた回廊にも、ようやく終点が見えてきたと思われる。
正面に、左右の壁面と同様の壁が立ち塞がっているのが見えてきた。
その下方には、壁面に対しては狭小な扉が開かれていた。
扉の縁や蝶番には、見覚えのあるタール状の粘液がこびりついているのがすぐに確認できた。
足音を殺し、扉の中へと忍び込む。
中は農家の納屋ほどの大きさの部屋で、書棚や薬瓶棚が敷き詰められていた。
その奥の壁に面した机に突っ伏した人影を認めて私は息を呑んだ。
人がいる!
ライツも、アリーセも、背後のジョゼフも、無言である。
兎は静かに人影に近づき、覗き込む。
枯れ木を思わせる色と質感の肌。
抜け落ちた髪の毛が、机の上に広がっていた。
落ち窪んだ眼孔に、眼球はなかった。
大きく開かれたままの口の奥から、干からびた舌が突き出ていた。
「死、んでる… んですかね、これは」
私は、予想しなかったものを目の当たりにし呆然としていた。
だが、術士達にとっては、全く異なる印象を受けたらしい。
ライツは大きなため息をつき、明らかな落胆の色が顔に出ていた。
背後のジョゼフが、突然笑い出した。
「あっはっは… 外れでしたね。まぁ、こんな事だろうと思っていましたよ」
「それでも調査しないわけにはいかないだろうが」
反論したアリーセの声には、苛立ちと怒りが滲んでいた。
「アリーセの言う通りだ。可能性は全て探るのが方針だ、当たり外れじゃあない」
ライツはふたりを諌め、そして鼻先に指を当て、独り言のように続けた。
「ここにある書物だけでも持ち帰りたいところだが、道中の連中が邪魔だな。この量では、往復にかかる時間も馬鹿にならない。直接乗り込めるのが理想だが…」
やがて、ライツは平手で膝を打ち、ジョゼフに振り返って言った。
「やるぞ、ジョゼフ」
「どこまでやりますか?」
「この部屋以外、全てだ」
ジョゼフがにやりと笑った。
私は、その笑みを目にして、なぜか背筋に怖気が走るのを感じた。
そしてライツは立ち上がり、幻像の中を覗き込みながら言った。
「奴らは確かに怪物だが… 我々もまた、怪物なのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます