第32話 『赤子の視る夢 (4) - “夢”』 Fetus dream chapter 4 - “Dream”
瞬間的に感じたのは、彼の怒りだった。ヴァルター博士は立ち尽くしたまま、無表情でいようと務めているが、その目の奥にくすぶる激情は消せないようだ。
ぐるぐると私を渦巻いていた多くの音が遠ざかり、私は呆然とヴァルター博士を見つめていた。
――私はこの男を殴って逃げた。マティアス博士は私とヴァルター博士に後を任すと言った。ふたりの博士が私のところにやってくる……
異界への門。
その門に執着したというマティアス博士。ヴァルター博士はマティアス博士の何を知っているのだろうか。いいや、死んだと言っていたではないか。だからこそ、私に記憶を取り戻せと。
読まされた論文は確かに異界と私たち人間のかかわりに関するものだったが、それすら、私にはそれが真実であると確かめるすべもないのだ。
異界は確かに存在するのだろう、目の前にある門の向こうが我々の世界ではないことは疑う余地もない。
だからこそ、私はどうしていいか途方に暮れた。どちらが正しい? あるいは、ふたりとも、ただそれぞれに異なる見解を持っているだけなのか? 私は哀れな道化のようにじりじりと追い詰められていくだけだ。
ヴァルター博士は息を整えてから、私にきちんと向き直った。
「突然いなくなるものだから、驚きました」
「……」
「さぁ、病室に戻りましょう」
「どうしてですか?」
私の声は強張り、隠すべき警戒をごまかすことは出来なかった。
それにヴァルター博士は驚いたように目を見開いた。大きな目玉がごろんと飛び出て来てそうで、私はじりっと後ずさった。
「どうしてって……あなたは昏睡から目覚めてすぐですし、それに記憶だって」
「あなたは何を隠しているんですか?」
私の投げかけた問いに、ヴァルター博士が息を飲んだのが分かった。
「あなたはどうして私を監視していたんですか?」
「監視……?」
ヴァルター博士はいよいよ怪訝そうに首を傾げている。
「監視なんて、どうして私がする必要があるんですか」
「私が聞いているんです、博士。この監視所に生き残っているのは他にどれだけいるというのです? あの看護婦は? テオは? モニカは? マティアス博士も!」
問い詰める私の声の緊迫に対して、ヴァルター博士は身を乗り出した。
「思い出したのですか?」
「いいえ、ちっとも。全く」
「てっきり思い出したのかと思いました」
ヴァルター博士のついたため息は大仰に響いた。彼はどこまでが本心なのだろうか……ただ、記憶を取り戻していないと聞いた今の表情には嘘がなかったように思えた。
私が思い出すことを本当に望んでいるのだろうか。分からない。
「さぁ、病室に帰りましょう。記憶がないというのに、色々お話をしてしましました。混乱されているでしょう。申し訳ない、私も焦りすぎていたようだ」
「近づくな……」
「落ち着いてください、お部屋に戻るだけですから」
「来るな……っ」
私の拒絶の声はかすれて、ヴァルター博士には伝わらなかった。ただ、私に手を伸ばしながら、じりじりと退路を断つように近づいてくる。穏やかな口ぶりだが、どこか高圧的に行動を誘導しようとしているのが分かる。
白いその手のひらに、私は闇を見ていた。
私が信用すべきものは何だろうか。客観的な事実は目の前にある、異界へと繋がるその赤黒い腹を晒したその門だけで、異界の向こうであったという事件も、そのほかの人間も私は知らない。
私は本当に、クラウスなのだろうか? 私はどこにいる? 確かに窓の外、円形の中庭を抱えた監視所の向こうは深い森である、鬱蒼とした、いっそ森しかないほどの山の中ほどのようだ。少しばかり変化のあるのは、遠く峰が冠雪するばかりで、人里からは離れているのが分かる。……こんな大がかりな準備をして、ただ記憶のない私に拵えた嘘を信じさせようとするのであれば、それは尋常ではない。何か、想像を越えるほどの大きな目的のために、記憶を失った私を利用して何かを仕向けようとしているのではないだろうか。門の存在だけは真実だが、どこまでが真実だろうか。
ヴァルター博士の目は乾き切り、何の感情も出さないように努めているのが分かる。口だけが笑っているが、酷く醜く、気味が悪い。
「さぁ、体も冷えたでしょう。温かい懐炉も用意させますから」
赤子は宿主の記憶を読み取ると記されていた。ヴァルター博士の首筋に垣間見えた赤黒い影が脳裏を過る。
目の前のこの男が、既に赤子に成り代わられているとして、なんの不思議があろう。
「私に全てを思い出させて、一体どうするつもりなんですか?」
私の疑問は余程意外だったのか、ヴァルター博士の目に一瞬だけ逡巡の色がちらついた。
「真実のためです」
「……真実? 門の向こうに入った人間はほとんど死に絶えた。それだけでは足りませんか?」
「門の向こうで起きたことを、私は知りません。なにも記録することは出来ない。本物の乳母を目の当たりにして帰ったのは、あなた達ふたりだけだ。あなたは真実に辿り着き、マティアス博士の遺志を継ぐ必要があるのです」
丁寧に感情の取り除かれた声で、ヴァルター博士は呟く。
「ヴァルター博士。私は何が真実か分からないのです……」
「そうでしょう、仲間を失い、異界の脅威に晒された。当然のことです」
「私はあなたが信用できない」
魔物に見えるとは、口には出来なかった。
遠慮したためでもない、ひゅっと目の前に杖が突き付けられたためだ。
「――……手荒な真似はさせないでくれ」
声は冷たく澄んでいた。
私は自分に突き付けられた杖の先が、迸る雷光をまとっていることに気が付いて、また一歩後ずさった。しかし、部屋の中だ、逃げ場などない。ヴァルター博士が意志を込めれば、その杖は瞬く間に私に一撃を見舞うだろう。
「――……やはり」
「博士、あなた……」
「私はずっと疑問だった、切開して肉片が見つからなかったから、あなたは安全だとマティアス博士は判断したが……やはり――やはりあなたは赤子の成り代わりなのか……」
丁寧な口調に徹していた分、命令じみたその話し方は、あまりに無機質に私を追い詰めてくる。
「ならば、処置するまで」
「処置……?」
ヴァルター博士は杖の先を揺らす。
「いずれにしても、安全のため一旦病室に戻ってもらう」
「閉じ込めるのか」
「それはあなた次第です」
「モニカは逃げ出したのか?」
「――……信じたくない気持ちは分かる。だが彼女は、誓って、こちら側には戻ってきていない」
「杖を下ろしてくれ、私だって真相は知りたいのですから」
「私だって知りたい。だが、君はもう異界に冒されているのだ。私には他の隊員を守る責務がある」
「私は大丈夫だとマティアス博士は言っていたじゃないですか!」
中々従わない私に苛立ってヴァルター博士の眉がひくりと跳ねあがった。
「村には成り代わりが出た。精神に異常をきたし、周囲に怪異をまき散らしながら死んだ……そいつらは死んで、人の姿を失った。…我々が目にしたのは、崩れ去った肉片だけだ。人の姿である内の完成体の解剖は、まだ行われていなかった。」
「違う!」
私は声の限り叫んだ。
――……ねえ、クラウス。
モニカの声は確かにした。私を呼ぶ声が。
「モニカ……?」
――……本当に信じてもいいのかしら。なんだか、少し怖い気がするわ。
「私は信じてなんていない。騙されたりはしない……!」
「クラウス君?」
――……あなたはどう思う? どちらの言い分にも、筋は通っているけれど……。
「うまく行くはずない……こんなこと」
「クラウス君、気を確かに持つんだ」
ヴァルターが私を捕まえようと手を伸ばす。
捕まるわけにはいかない。このままあの独房へと帰れば、そのまま何もわからないまま、永遠に外には出られまい。
逃げなければ。真実を知るためにも、そして、モニカを救うためにも。
――……クラウス……!
彼女はこんなに、私に救いを求めていたというのに!
「私が確かにクラウスだというのならば、私はあなたを信じることは出来ない」
「私は君を信じたい、だが……っ」
「そうやって私を閉じ込めても、永遠にこの事件は解決はしない」
ヴァルター博士は赤子に取り込まれ、新たな犠牲者を招こうとしているのか?
あるいは、マティアス博士とは異なる形で異界の研究を推し進めようとしているのだろうか? いずれにしても、"私"を己の目的のために利用しようとしているのには違いあるまい。
この門ごと私たちを葬り、門の封印を自身の手柄とするつもりなのか。
いや、門の向こうに仲間を閉じ込め、赤子へ代わる様を観察するためなのか。
――……助けて……!
「まさか……!」
ヴァルター博士がハッと息を飲み、杖を捨てて私に手を伸ばす。捕まるわけにはいかない。
「待ちなさい!」
悲鳴に近い制止を振り切り、私は開け放たれたままの窓から門のある中庭へと飛び出した。夕闇が忍び寄り、禍々しいまでの赤黒い内部は近づくほどに不思議な光を帯びていく。
私は門の前で、監視室を振り向いた。
ヴァルター博士は監視室の窓の向こう、立ち尽くしてこちらを見つめ、叫んだ。
「あなたは、間違っている……!」
絞り出すように放たれた声には、強い、裏切りへの怨嗟に似たものが感じられた。
一瞬足が竦む。
そんな私の視界の端を、よく実った稲穂のように束ねた黄金色の髪がよぎった。
この香りを、覚えている―――気がする。
「モニカ……?」
私はヴァルター博士から目を離し、再び門を振り向いた。
赤黒い内壁は、脈打ちうねり、うごめいている。寸での先で曲がっているのか、奥が見えなかった。
その曲がり角をモニカが歩いていく。その先に数人の人影も見える。
「モニカ!」
きっと彼女だ。
私の声が聞こえないのか、モニカの姿は肉の壁の向こうに消えた。
本能的に竦む足を叱咤して、門に飛び込んだ。
足がぐにゃりと沈み込む感触、踏みしめることのできない地面に足を取られ倒れ込みそうになる。生ぬるい風がかすかに吹いていた。
手をつく壁もぐにゃりとゆがみ、そして、蠢く。
垂れ下がった肉という肉が、壁や扉、カーテンのように行く手を阻み、私の視界を遮った。あれほどはっきり見えていたモニカ達が見えない。
「モニカ!」
「しかし、暑い……博士、一枚だけ脱いでもよろしいですか? 他の隊員たちの消耗してしまいます」
「……仕方ない。袖のあるものは残しなさい」
ぐわんぐわんと肉の空間を反響して、声が間延びして聞こえた。
……後ろ?
声は、私が先ほど足を踏み入れたばかりの門の方から聞こえてきた。
私は恐る恐る背後の空間へと振り向く。
「クラウス、付着物から何かに感染するかも」
「構わない。どうせこの空間を進む限り汚染は避けられないから、出てからまとめて洗浄する。体力を温存しておきたい」
大仰なバッグを担ぎ、肉壁の中を慎重に進んでいる一団がうっそりと歩いていた。あたりを探る視線の動きや、慎重そのものの歩き方。あれは、写真で見た、仲間たちだ……。
どうして。いつの間に、後ろへ?
彼らの中に、先ほど私が見た同じ髪の女性がいる。忘れるわけがない、ついさっき、彼女の背中を見て飛び込んだのだから。
モニカに駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、先ほどよりも深く、ぐにゃりと地面が沈み込み、私は無様に肉の中へと倒れ込んだ。
「嘘だ……」
静かに、そしてまるで霧になるようにして、はっきりと見ていたはずの彼らが消えた。ぐっと胃の奥から吐き気が込み上げてきた。
何かがおかしい。
甲高く思わず耳を塞ぎたくなるような泣き声が聞こえた。まるで獣のようなその声に私はぼそりと呟く。
「赤ん坊……?」
赤子の異界。
マティアス博士の論文がよみがえった。
赤子の異界と名付けたのはマティアス博士だったが、まさか、比喩ではなく、本当に異界には赤子がいるのか?
私は気付けばブンブンと頭を強く、大きく振っていた。
赤子の泣き声は止まる気配を見せない。
泣き声が次第に高まる中で、加えて妙な音が聞こえはじめた。水分を含んだ肉と肉がこすれあって、歪な音を出している。
肉だらけの異界の中で、ズル、ズル、と音が近づいてくる。異音のオーケストラに包み込まれ、私は朦朧としていたが、唐突に胸部に激しい痛みを覚え、身を跳ねさせた。
咄嗟に抑えた手に、硬い感触がある。表面は柔らかく、熱く、けれども確かな芯のあるそれは……、
「――……肉……?」
愕然とする。
私の胸に深々と刺さっているそれは、肉片に他ならない。皮膚を突き破り、まるで角のように伸びている。
こんなものが刺さったのであれば、すぐに気付いていたはずだ。
痛みも微塵も感じなかったのに、今は赤黒くてらてらと光るその存在を主張し、激痛でこの身を強く支配して離さない。
呼吸すらままならず、私はその場に蹲り、うめき声を上げる。
世界を構成する肉の壁が、共鳴するように微かに揺れる。肉と肉の向こうに何かが見えた。あれほど重かった壁を容易く押しのけて、巨大な何かが近づいてくる。
それはとても大きくて、また、小さかった。恐ろしいようで暖かく、また拒絶するようで受容している。
ああ、
ああ、お前が。
視界が陰りゆく。
恐怖は、跡形もなく消えていた。
――……ブウ――――ウン、ンン―――ウウン…………。
私の脳が揺さぶられるように、震えているのが分かる。
歓喜に打ち震えているようにも、怯えて縮こまっているようにも思える。
――……ブウウン、ンン―――ウウン…………。
この音に合わせて震えているのだ、私の頭は。
ピチャリ、ピチャリと濡れた音が聞こえる、この音も私は知っている。
音以外の全ての感覚が間遠く鈍い、かわりにかえって来る浮遊感。
ドクリドクリと脈打つ音。その音と水音が私をゆったりと包み込んでいる。
これは、羊水のようなものか。
私の脳は更に震えた。
ブウウン、ピチャリ、ドクリドクリ、まるで競うように奏で合う。音ばかりが響き合う。心地よい温度に包まれて、私は恍惚としている。
私?
私とは――。
……ああ、これはきっと、「赤子の視る夢」なのだ。
これから赤子として目覚めるのだ……。
門の中に入り、私はあの時もきっとこの光景を見たのだ。死に絶え、消え行く命を、呆然と見守ったのだ。迫りくる脅威に怯え、哭き、叫びながら、潰えるものの中から産まれたものを、見守ったのだ。
私たちを待つものは……、私たちが得たものは……。
赤子は泣いている。いつまでも、いつまでも。ああ、何がそんなに悲しいというのだ。この暖かな空間から飛び出すことが恐ろしいのか。
私たちは何を求めていたのだろう。求めた先にどんな未来があったというのだろう。
次第に、何かが遠ざかっていきながら近づいてくる、矛盾した奇妙な感覚を覚えた。
それは波のように押し寄せては、元の形から解けていくものの流れでもあり、また確かな形を得るように集まっていくようでもある。
人の形をしていることだけが、人であるということの証左になるのだろうか。
私と世界との輪郭が次第に明確になっていく感覚に、胸が高鳴る。
ゆっくりと、影が私の視界を覆い始める。見開かれながらも、何も映さない瞳。
額から滴が流れ、それを覚束ない手付きで拭う。まるで血のように赤かった。
やがて音は絶えて、その影が輪郭を持ち始める。おぼろげな光を背負ったその影はパックリと顔を真横に引き裂くようにして笑った。
「あっ……クラウス博士……」
私は叫ぶ間もなく、意識を遂に手放した。
――……ブウウン、ンン―――ウウン…………。
ブウン、ウンンン……――
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