第3話「生きるための、選択の余地」
かつてエルフは、森の神の寵愛の元に生まれた種族であった。
人に近い容姿でありつつも、小柄ながらしなやかな筋肉と鋭敏な感覚を持ち狩猟に長け、また秀でた頭脳は種族の発展に大きく寄与した。
森に住まうエルフは寵愛を与えた神の教えに従順であり、しかし客観的に言えば傲慢で、教義の遵守という点では利己的であった。
人間とは互いの存在を認知していたが、平原や海沿いに住む人間と森や山に住むエルフとは、互いに不可侵を貫いていた。
しかし、エルフという種族そのものは一枚岩でもなく、エルフの中には教義よりも実力主事の世界での自己実現を求めて人里に降りる者も少なくはなかった。
特に、閉塞的で高圧的な特権階級たる古老議会に愛想を尽かす若いエルフも多く、”里離れ”は当時のエルフ種族にとっての大きな悩みの種であったとも言える。
やがてエルフはその高い知能で相応の地位を得る者も増え、自然とエルフを受け入れる風潮も人間社会に広まり、エルフが人間社会に進出する事は特別な事ではなくなっていった。
エルフ自身はそれでも平均的に見て知能で劣る人間全体を潜在的に見下した意識を捨てきれず、エルフはエルフ同士が寄り集まり暮らすコミュニティが形成される事になった。
このような地区は「エルフ街」と呼ばれ、石や鉄を使わない木や葉だけを用いた家屋が連なり、周辺の住宅とは一風変わった色合いを見せ、通り掛かる者にエルフ達との間にある壁を感じさせる事もあった。
それでも能力に優れたエルフは人間社会の発展にも大きく貢献し、奇妙な共存社会の形態はその歪さのままに進歩していく事となった。
時は流れ、死が世界を支配し、どの国においても死者が死者を食む終末めいた時代を迎え、エルフ達は人間達と共にその脅威に晒され、減少の一途を辿る事となる。
エルフは人間と共に戦い、そして多くが敗れ、命を落としその尊い魂や肉体はほとんどが冒涜された。
それでもなお、戦いから逃れたり里に残り戦火を免れた生き残りのエルフ達は、死者の軍勢をかいくぐり持ち前の優れた能力を頼りに末世を生き延びる術を模索していた。
血と葉の入り混じった香りが傷ついたエルフの存在を示すものだと認識できる者は、同じエルフに限られる。
しかしそのエルフは、同族の窮地を察して駆けるような責任感は持ち合わせてはいない。
青褐色の肌を覆う赤い布地の色は、その青白さを余計に際立たせる。
「ダークエルフ」と呼ばれる種族は、かつてエルフの間で”呪われた血族”として忌み嫌われていた。
しかし、実際には噂されるような呪いなど存在せず、たまたま特殊な色素の遺伝を持つ者を呪われた者と呼び、汚れ仕事を押し付けた老いた世代が作り出した唾棄すべき幻想を若い世代が受け継ぎ悪習だけが現代にまで残っているに過ぎなかった。
彼女にとって、同族とは己やその家族を使い捨ての道具として扱ってきた忌むべき存在であり、誰もが迫り来る死の前に平等となった時代においては、燻り続けた憎しみはもはや剥き出しの刃物のようなものだった。
復讐のターゲットが、この迷宮の底で傷つき倒れているとすれば、それは千載一遇の好機に他ならない。
命あるものすべてにとって生存があらゆるものに優先される窮状であっても、心あるものは、生存よりも心を優先する事がある。
その時の彼女も、避けるべきトラブルであるとは理屈で理解しながらも、心の中で燃えるものに突き動かされ、匂いを辿る自分を止めようとはしなかった。
匂いが強まり、曲がり角の先にその元がある事を察知した彼女は、滑るように岩陰に隠れ、先の様子を覗き込んだ。
そこには、緑色の衣服を着た一人の若いエルフが横たわっている。
意識はあるが呼吸は荒く、身を捩りながら何とかこの場を離れようと必死にのたうち回っているが、力が入らないのか脚は床を掻くばかりで位置は一向に動いていない。
大きな外傷はないが、その側に横たわる巨大な人の形をした有毒植物を見て、何が起きたかは容易に想像できた。
ダークエルフは構えを解き、意地の悪い笑みを浮かべながら苦しむ往年の仇敵の元に歩み寄り、声をかけた。
「あらあらあらあらあら… あらあらまあまあ、エルフ様ともあろうものが、無様なものねぇ?ご自慢の体術で、毒蔦をお避けにはならなかったのかしら?」
新しい脅威の接近を察したエルフは褐色の姿を一瞥すると、それまでの必死さを失い、急にその場に力なく四肢を投げ出した。
「…ん?逃げないのか?もっと必死に逃げろよ」
しかし、反応はない。瞳を閉じ、まるで諦めたかのようだ。
「…そういうの、興がそがれるって言うんだよ」
「…し、なさい…」
エルフは力なく呟いた。
「憎い、う… わた… が…」
ダークエルフは大きくため息をつき、手を開いて首を振りながら答えた。
「殺す?冗談だろ?こんな上物、無駄遣いできるわけないじゃないか」
ダークエルフは背筋が凍るような笑みをにたりと見せた後、エルフに歩み寄った。
拷問か。気が済むまでいたぶるつもりか、あるいは…
エルフの心にはもはや、希望は残されていなかった。
しかし、彼女の予想とは裏腹に、ダークエルフは頭上にかがみ込むと、何やら懐から取り出し彼女の口に流し込んだ。
「ぁ…?」
口中に、独特だがどこか懐かしい苦味が広がる。故郷でよく口にした、あの味だ。
「な… ん…」
「生き餌はね、活きが良いのが一番効き目があるのよ」
想像の埒外。いっそ、この残忍な女性に直接手にかけられた方がまだましだったのではないか。
そういう想いが脳裏をよぎりながら、彼女は意識を失った。
ピリピリとした痛みがつま先からつむじまで駆け抜ける感覚に、私は目を覚ました。
先程とはまた別の場所、見覚えがなくはないが、どことなく雰囲気が異なる。
古代の軍勢が這い出した地下には無数の洞窟が広がっており、風景が代わり映えしないために道に迷いやすい。
この場所も、そんな洞窟のどこかではあるようだが、自身が足を運んだ事のない場所のように思える。
講堂ほどの広さの空洞で、蛍光を放つ菌糸類が壁面を覆い、景色が何もかも仄かな薄緑色に染まっている。
痛みの正体が痺れによるものであり、身動きができないままこの洞窟の片隅に放置されたようだ。
しかし、一方でアルラウネに受けた毒の、全身を鋸歯でかき混ぜられるかのような激しい痛みは、もう感じない。
懐かしい、故郷の薬草の味。
たとえダークエルフであっても、同じ森に由来し、同じ木々を愛した同種族だったとしても、そして私の毒を癒やしてくれた事も、心に受け容れるにはまだ程遠い。
生き餌…
あの女は、私を生き餌と呼んだ。
生き餌、抜けぬ麻痺、見知らぬ洞窟…
それらが意味する事は、想像に難くない。
しかし、今の自分に何ができようか?
油断、慢心、避けられるはずだった一撃…
戦い慣れた相手に生じた、一瞬の隙。
以前の自分なら、こんな油断など決してしなかったはずなのに…
長い放浪の中で、彼女もまた生き延びる事に貪欲であり続けた。
その長い戦いの日々は、戦う事を彼女の日常とし、戦う事を生きる事そのものとしてしまった。
どう生き、どう殺し、どう活かすか。
戦いの合理化は、一方の側面からは生き延びる確率をもたらす。
しかしまた一方の側面として、予想外の展開への対応力を失う事にもつながる。
私は決して弱くはなかったし、あの植物も強い相手ではなかった。
ただ、『これで十分だろう』と一撃に賭ける力をセーブした。
この先、さらにその先の戦いに備え、全力を尽くさず、必要最小限の力で倒そうと、手を緩めた。
それが仇となり、反撃の一手を、そして現在の体たらくを許す結果となったのだ。
勝利する以外には死しかない世界での反省など価値があろうか。
あの世で存分にすれば良い…
そう心の中で嘯き、目を閉じた次の瞬間であった。
地鳴り。それも、微震なんてものではない。
瞬く間に揺れは接近し、身体が浮くほどに強まる。
規則的なその揺れは、巨大な柱を床に叩きつけるような揺れは、覚えがある…
そして"それ"は、その長い首の先を現した。
荷馬車のような大きさの頭部、街道を掘り出したような長い首、その先に砦のような胴体と、神殿を想起させる四柱の脚、そして洞窟の壁面を弾き飛ばしながら踊る尾…
実際に目にしたものは数えるほどしかいないのに、子供でも見間違わない。
黒竜はその双眸をぎらつかせながら空洞に這い込むと、牙を剥いて舌舐めずりをした。
生き餌…
己の行く末を知った今、絶望の他はない。
万全な時に全力を賭せば、あるいは勝てない相手ではないのかもしれない。
だが、今は抵抗する力すら入らない。
これが奴なりの、復讐の方法なのか…
生きながら竜に喰わせてやろうと思うほど、私達はあの黒き同胞の憎しみを買っていたと言うことか。
黒竜の首が大きな口を開け迫る。
反省はあの世で…
黒竜の吐き気を催す呼気を頬に感じた時、空を切る音が頭上を走った。
視界に捉えたものは、矢尻!
牙の間を縫って駆け抜けた矢は喉元に突き立ち、反射的にのけぞった黒竜は頭部を天井に叩きつけた。
誰が?考えるまでもない。
今にも崩落しそうに揺れる天井を見上げながら、岩陰からあの女が駆け出してくる。
「やったぜ!やっぱ狩りは良い生き餌に限る!」
次の矢をつがえ、私の足元までスライディングしながら続けざまに黒竜に矢を射込む。
しかし、首や胴、脚や尾に射られた矢はどれも鱗に突き立ったまま、血が出る様子もない。
「口の中以外はダメか、でも十分!」
女はそう言いながら、動かない私の体を肩に抱えて黒竜とは逆の方向に走り出した。
「何、し…っ!!」
「舌噛むよ!肌艶の良い生き餌なんて、この地底じゃ滅多に手に入らないんだから!」
言い終わる前に、怒り狂った黒竜の尾が横殴りに飛来した。
間一髪、上方に跳躍してかわし、垂れた革靴の紐の端だけが、かすって跡形もなくはじけ飛んだ。
赤い襟巻が宙を翻り、私を抱えたままに懐中から大量の黒色でどんぐり大の丸薬を取り出し、空中で振り返りざまに投擲した。
丸薬は火薬の類か、竜鱗に触れたものから次々と炸裂し、一時空洞内は真昼のような明るさになった。
全身を爆破され悶える黒竜は一歩二歩と後ずさり、首を振りながら意識を整えている様子だ。
着地と同時に私を脇に置くが早いか、再び背負った大弓に腰の特別大きな矢をつがえ、片目をつぶり狙いを定めた。
「これでも喰らい… !」
掛け声をかけるよりも先に、怒り狂った黒竜は口を大きく開き、その口中からタールのような液体を吐瀉した。
回避するため、反射的に飛び退く事が最適な選択であった事は、私の目に見ても明瞭だった。
しかし、ダークエルフはそうしなかった。
一瞬の迷いもなく、私を抱え、それから跳んだのだ。
そうしなければ、私は避ける余地もなくあのブレスの直撃を受け、即死していただろう。
跳躍した女は、ブレスを躱し切れず、足先を黒い吐瀉物がかすめる。
焼きごてを当てたような音が響き、跳躍した姿勢を保てず女は空中で私を手放し、まるで放り投げられた雑巾のように地面へ跳ね落ちた。
放り出された私も、為す術もなく全身を地面へ打ち付ける。
麻痺の影響か、衝撃はあったが強い痛みは感じなかった。
視線の先で、脚を抑え苦悶の表情を浮かべる女が見える。
ブレスを受けた脚は溶けただれ、骨が若干露出しているのが見える。
終わりだ…
見上げると、黒煙を吹き上げる竜が、最後の一撃のために腕を振り上げているのが見える。
しかし、その腕は振り下ろされない。
片足を上げた姿勢のまま黒竜はまるで石膏のように固まり、動かない。
瞳には光がなく、まるでそのまま剥製か石像になったかのようだ。
「しく… った…」
女が苦しそうに這いずりながら、痛みに歯ぎしりしながら、悔やむように腕を床に叩きつけた。
空洞には、度違いの彫像と、身動きが取れず喘ぐ女二人が残されていた。
どれだけ時間が経ったろうか。
いつの間にか、私は眠ってしまっていたらしい。
腕を動かす。動く。
足を動かす。立てそうだ。
ひどい頭痛にふらつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
頭上には、意識を失う前に見たままの光景が広がっている。
黒竜の大きく開かれた顎、振り上げられた腕はそのままに、まるで精巧な彫像のように佇んでいる。
傍らを見ると、元いた場所にあの女はいない。
逃げたか?
いや、違う。
地面に残された黒い筋…
その先に、石壁にもたれた女の姿を見出した。
酸性の吐瀉物がかすめた右脚は、膝から下がもはやなくなっており、その先は包帯が包んでいる。
女は疲れ切ったのか、眠っているように見える。
ほとんど無防備な状態で。
立場が、逆転したようだ。
この場で首を掻っ切るのは容易い。
禍根を断つ、それは最善の選択だろう。
私は腰の剣に手をかけた。
硬化毒の矢は確実に入った。
完全な硬化までも、時間の問題だった。
炸裂弾での牽制も、黒竜の足止めとしては十分だった。
最後の大矢も、落ち着いてブレスをかわしながら射込む事が出来たはずだ。
毒矢をもう一本加えていれば…
あるいは炸裂弾を渋らずに使い切っていれば…
白い女を、助けるような真似をせず、射込んでいれば…
あと一手、そこで判断を誤った。
右脚はなくなり、もう使い物にならない。
素早く動けない自分に、もはやこの地底で生きていくだけの力は残されていない。
万事休す、ここで死ぬのが、私の運命なのか…
かつての日々が脳内を駆け抜けていく。
貶され、蔑まれ、まともな教育も受けられなかった。
両親は物心がつくよりも前にしくじって死んだ。
私は、”そういう”施設で殺しによって糧を得る術を学んだ。
たくさん、殺した。
世界に大きな亀裂が生まれ、クソジジイ共がおっ死んで暗殺者ギルドも崩壊し、施設や組織に囚われない自由を得た後も、暮らしに大きな変わりなどなかった。
殺して、奪い、生きる。
過程に些細な違いはあれど、やっている事は同じだ。
自由であれ不自由であれ、生きる事の前には皆平等だった。
生きるための最適な手段を選び、ただ生きるために生きる。
誰に蔑ろにされようが、大切にされようが、求めるべき結果は常に変わらない。
生きるんだ。生きる、ただ生きる…
目を覚ますと、私は誰かに背負われていた。
絹のように艶やかな金髪が、頬に触れる感触。
頼りないほどに細く狭い背中が、今の私を負っている。
毒を受け、惨めに死を待つばかりだった小さく頼りない背中が。
「…アンタ、何してんの…?」
「目を覚ましたの?」
エルフは、私を背負って滝のように汗を流しながら歩を進めている。
私の体は裂かれた赤い布切れでエルフの体に巻きつけ固定され、手ぶらで背負えるようにされている。
「…何勝手にヒトのマント破ってんだよ」
「文句言うなら置いてくわよ?」
「助けてなんて、頼んだ覚えはない」
「そうね、あなたの言う通り。助けてなんて、頼んでないわ」
あの瞬間の事か。返す言葉もない。
「ダークエルフは、みんなエルフを憎んでいるものだと思っていたわ」
「憎いに決まってんだろ」
「じゃあ、どうして?」
「…この地底で、活きのいい生き餌は貴重なんだ。生き餌を使った方が、独りで狩るよりよっぽどリスクが少ないんだ」
「そう…」
「アンタは?」
「…理由はどうあれ、あなたは私を解毒して助けてくれたわ。だから私は貴女を助ける。これでチャラ」
「なんだそれ…」
「借りっぱなしは嫌なのよ、私は」
「…勝手にしろ…」
再び、沈黙。
小さな、背中。
背負われて歩くなど、何年ぶりだろうか。
「地上に戻れば、知り合いに腕のいい医者がいるわ」
「こんな脚じゃ、もう戦えない… 永らえても、仕方がない」
「貴女は戦えるわ」
「どうやって?」
「一緒に戦うのよ。私が前に立って刃を交え、そこを貴女が物陰から撃つの」
「何勝手に決めてんだよ!」
「じゃあ、独りで戦うの?その足で」
「…それは…」
「活きの良い生き餌があれば、狩りはリスクが少ないんでしょう?」
生きるために、ただ生きる。
孤独だった頃、自分にとってそれは私を取り巻く世界に与えられた命題であり、絶対のものであると思っていた。
しかし、もしも自分独りでないとしたなら、色々なやりようも、あったのかもしれない。
選択の余地は、あったのかもしれない。
「今さらそんな事、言われてもな…」
思わず涙が溢れた。そんな気がしただけかもしれない。
「憎んでるんだぞ、お前達エルフを…」
「生きる方法があるなら、それに縋るしかない時代なのだから。私達はまだ死んでいないわ、二人とも」
「それは、そうだけど…」
「貴女が支援してくれるなら、あんな失敗はもうせずに済むわ」
「…アンタを盾にして戦えるなら、私のリスクも少ないだろうね」
「それなら、一緒に戦うのが、お互いにとって一番良さそうじゃない?」
「…それも、そうだなぁ…」
「どうしても私達を許せないなら、その時はまた独りに戻ればいいわ」
「出来ないってわかってる癖に、よく言うぜ…」
永らえた先に待つものが何であるかは、わからなかった。
ただ少なくともその時だけは、生きる事から、今までに知る事のなかった新しい何かが得られるんじゃないか、そんな気がした。
~おわり~
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