第3話

 これが臨死体験でなければ、僕はたぶん助かったんだろう。

 迫り来る落下物をどう回避したのか見当も付かないが、僕が無事なら真理香先輩もきっと無事なはず。

 だからこそ、信じよう。僕は助かったんだ、と。

 方法なんか問題じゃない、大切なのは結果だ。

 僕は今、夢を見ている。

 いや、忘れていた記憶が再生されているんじゃないかな。夢にしては、あまりにもはっきりとしていてリアル感満載だ。頭を打った衝撃だとしたら、ちょっと笑えてくるな。階段から落とされたときは、なにも思い出さなかったのに。

 目の前には、小さな僕がいた。たぶん五歳だ。

 大人ぶって、黒いスーツなんか着ている。自分で言うのも何だけど、けっこう可愛らしい顔をしている。まあ、幼少期の子供はみんな可愛いのかもしれないけれど。

 隣を歩く母のナイトを気取っているのだろうか。ほほえましくも思える。

「今日はね、空乃に会わせたい人がいるの。ママの大切な人。もうすぐお別れしなくてはいけないから、そのまえに……って思ってね」 

 仕事に忙しい母だった。

 何の仕事であるかは、今もわからない。

 とにかく忙しくて大事な仕事だと、母は言っていた。気にならなかったわけではないし、構ってもらえない不満だって感じていた。

 けれども、長い留守の後に持ってきてくれる沢山のお土産と、優しい抱擁はとにかく格別で、僕は母の悪いところのなにもかもを許していた。

 つまり、世界一大好きな人ってわけだ。

「会わせたい人って、誰なの?」僕は、柔らかい母の手を握って問う。

「とっても、綺麗な女の人よ」

 綺麗な母が言う、綺麗な女性。どんな人だろう? 想像は、尽きない。

 五歳の誕生日、きらめく星々を数日掛けて遊泳する豪奢なつくりの宇宙遊泳船。

 何もかもが輝いて見える空間で、僕は心を躍らせていた。着飾った客が視界いっぱいにいるのに、主役は僕だと信じて疑ってなかった。

 そうだ、素敵な旅になるはずだった。

誕生日を祝って、プレゼントの包装を破る妄想。贈り物は、なんだろうか?  

 誕生日ケーキに刺さった五本の蝋燭を一気に吹き消す練習は、一週間前から入念にしてきた。きっと上手くできるはず。

 僕たちを乗せ、出航の鐘が鳴る。

 桟橋に集まった見送りの人たちに手を振って、僕は母と連れだって船内に入った。豪奢な内装に丁度良い、きらびやかな音楽が、僕らを迎えてくれる。

 僕の、記憶として残っている記憶はここまで――のはずだった。

「逃げて、空乃!」

 響く声は、母さんの悲鳴だ。

 溢れるほどの幸福感で目覚めて終わっていた夢は、まだ続いているようだ。

 気付けば、僕は泣きじゃくっていた。

 母は逃げろと叫んでいるが、足が竦んでいて身動きすらままならなかった。蹲ったまま、何もできない。

 せめて母の顔くらい見えていれば少しも勇気がでたのかもしれないが、照明は勿論、非常用の誘導灯すら消えた真っ暗な船内では、動こうにも動けない。

 とにかく恐ろしくて、母の苦しげな吐息から、僕は離れられなかったのだ。

 遠くからは、悲鳴や助けを求める声が聞こえてくる。

 僕たちは、船に乗り込んできた海賊に襲われていた。

 あまりにも痛々しい状況だが、どうしようもない。見ている映像は、僕の失われた記憶の一部にすぎない。過ぎ去った過去を変える術は、さすがに持ち合わせていなかった。

 ネットから拾ってきた情報によれば、乗員・乗客計百五十名のうち、生還者は三十名足らずの大惨事となった事件だ。死者のほとんどは女性という、奇妙な記録も残っている。

 脅えるしかない僕の耳に届いてくる悲鳴は、男女様々。大半は、亡き人となっているはずだ。全ての結末を知る身としては、亡者の断末魔にも聞こえる。

 船内はとにかく酷い有様であったと、数少ない生存者は語っていた。

 人が、人でなくなっていった。自分を襲ったのは、海賊ではなく妻だった。

 傷を覆う白い包帯に顔の半分を埋めていた男の写真は、酷く脅えた目が印象的だった。その、首を傾げたくなる証言も記憶に残っている。

「逃げて、空乃。あなたは、男の子だから大丈夫」

 一切の灯りの無い空間は、不安と恐怖を煽る装置になっている。

 逃げられるような状況ではないが、パニックにならないでいるためには……冷静でいるためには、何も見えない状況はかえってよかったのかもしれない。

 乗員のほとんどが、怪死を遂げている。見えないが、あちらこちらに酷い有様を曝している死体が転がっているはずだ。

 十九の大人になった僕でさえ、スラムの端っこに転がる死体はいまだに直視できないほどだ。子供なら、なおさらだろう。

「死にたくない……あぁ、まだオレは、死ぬわけにはいかない」

 濃い闇が、さらに濃くなった。息を殺して小さくなっている僕の前に何かがやってきた。生臭い気配を感じる、酷く窶れた女の声だ。

「やっと、きざはしに手を掛けたのだ。このまま、処理されるわけにはいかない」

 聞き取るのも困難な呪詛を吐きながら、じりじりと近づいてくる。

 なにしてんだよ! 逃げるんだ、僕! ママを守れるのは、お前しかいないんだぞ!

 あぁ、ダメだ。

 なんとかしろと僕は僕に叫んでみるが、届くわけもない。

 逃げるどころか、驚きすぎて立ち上がれもしないのだ。おまけに、これは夢だ。どれだけ臨場感があっても、僕は何もできないし、できたとしても所詮は夢だ。現在が変わるわけがない。

「五年前、僕たちを襲ったのは……お前か」

 僕は、運悪く事の首謀者と遭遇していたようだ。 

 僕は、薄暗い闇の中で見ていた。

女が掴んでいる塊、明後日の方角へ首が曲がった名も知れぬ少女の無惨なシルエット。長い髪が、カーテンのように揺れている。

 少女を掴み上げて笑う女は次はお前だと言うように、にやっと僕を見て笑った。しゃがれ声は酷く醜いが、相貌はとても綺麗で――僕を脅え竦ませるには、充分すぎるほどに恐ろしかった。

 死ぬんだと、僕は思った。

 放り投げられた、憐れな少女の遺体と同じように、僕は殺される。

 ゆっくりと、歩み寄ってくるミドゥバル。

 伸ばされる手は、僕を助け起こそうとしてのものではない。人の形をしていたはずの細い女の手は、いつの間にか、鋭く、槍のように突き出し――

「ぶべぇ!」と、蛙の断末魔すら美声に聞こえそうなほどに酷い悲鳴を上げたのは、僕だ。

 ぎんぎんと痛む頬、口の中は血の味が滲んでいる。

「ま、真理香先輩? あぁ、よかった。生きてたんですね」

「この……バカ空乃! 心配させんじゃないわよ! 突然、うなり出すもんだから、びっくりしてとりあえず叩いちゃったじゃない!」

 青い空を背にして、僕を覗き込んでいた真理香先輩が怒鳴る。

 顔に容赦なく降りかかってくる唾を拭うどころか、驚いた腹いせとばかりに僕は現在進行系でさらに頬を叩かれている。

「もう、大丈夫。大丈夫ですから! ちゃんと起きてますからっ!」

 リアルな痛みで、生存を充分に味わった。振り下ろされる真理香先輩の手首を左右それぞれ受け止めて、上体を起こす。

 まあ、いい。願いどおり、僕たちは助かったようだ。生きているだけで、充分だ。

「大丈夫? 顔色、めちゃくちゃ悪そうだけど?」

「だいじょうぶ……だと、思います。ってか、顔色が悪い大体の原因は真理香先輩だと思いますけど?」

「もう! すぐ、他人のせいにするんだから!」

 いやいや、現行犯逮捕されても文句言えない状況だったと思いますけどね。

 頬の痛みとは別にある、ぎゅっと心臓を掴まれるような感覚。込み上げてくる吐き気をなんとか飲み込んで、僕はもう一度「大丈夫」と返して、起き上がった。

 鋭い触手に胸をなぞられる、いやに生々しい感覚は真理香先輩に叩かれた頬よりも痛く感じる状況にほっとするなんて……異常だ。

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