「マンガ」「エコー」「メイド」の三題噺
復唱するは我に有り
おぼろげな月が細く浮かんでいる。男の口笛だけが静かに響いている。
その男はまだ少年のようにも、はたまた疲れた老人のようにも見える。
石垣の上に座り、何かを待っている。この世ならざるものを……
イギリスのリバプールと言えば、ビートルズで有名な港町。海鳥が波間のパン屑を浚う、抒情の風景を想像すると一番しっくりくるだろう。
目的の場所は街から外れた田園にあった。片側に古い石垣があり、波に荒く削られた海岸線が反対側に続く狭い坂道を、灰色のロードスターが息を切らせ登る丘の上に、その屋敷は建っていた。石垣と同じ素材の尖塔が、蜃気楼のように低い雲を突き刺している。
「ようこそおいでくださいました」
執事は挨拶もそこそこに男を招き入れる。描写するならば監獄の面会室を思わせる地下室へと。電話でおおよその内容は聞いていたが、改めて秘密の話をするためだった。
壁には大きな姿見があった。鏡には執事の他は誰も映ってはいなかった。
「舌が?」
「そう。肩甲骨のあたりから天使の羽のように二つの巨大な舌が」
「……グロテスクだな」
「なにも害はないのでございます。ですが酒場などではもう噂にもなっております。ウイング・タンなどと……名門ファンドラット家においてこのような恥辱は……」
「悪魔払いのたぐいならばそれこそ本場だ。わざわざ私を呼び寄せる必要も……」
「教会より派遣されたエクソシストは皆が口をそろえて言うのです。命の保証はできないと。プロテスタントでもカトリックでも正教会でも同じでございます」
「使用人なのでしょう?」
「なのですが……」
「………………? なるほど、さしずめご当主が愛人に生ませた隠し子ってところでしょうか。当たりかな? よくある話だ。正式な夫婦の間に子供ができず、外に生ませた子供を手元に置いて可愛がる。だから首にもできず、かといってそんな化け物が徘徊して街中で噂になるのも困るってわけですな」
「亡くなった奥方様は病気がちで子宝には恵まれず。なのでベアトリーチェ……様はファンドラット家の正当な血を継ぐ唯一のお方なのでございます。どうか」
「とりあえず私でなんとかできるモノか一度、見てみましょう。どのような存在かは検証を待たねばなりますまい。噂が広まって警察などが動く前にね」
男の口笛がやんだ。代わりに風が強く吹く。冷えた大地から海に向けてなだらかな斜面に沿って滑るように空気の塊が落ちてゆく。男の口笛は、昼夜で風向きが逆転する僅か一瞬、無風の中の出来事だった。
見れば少女が一人歩いてくる。濃紺のワンピースにフリルのあるエプロンを羽織り同じくフリルの付いたカチューシャを頭にはめている。もうこれでもかと言うほどのメイド服。胸にはスカーフリボンで飾られた緑青に光るブローチをしている。
そして裸足だった。だけどもそんなことを気にとめる人は誰もいないだろう。
それよりも、少女の体の両側にはぬめって光る真っ赤な舌がうごめいている。
年老いた執事が言ったとおり、それは羽のように彼女の背後から伸びていた。
「夜のお散歩かね? お嬢さん」
「夜のお散歩かね? お嬢さん」
「出かけるのはおよしなさい。夜風で風邪をひくよ」
「出かけるのはおよしなさい。夜風で風邪をひくよ」
同じ言葉を繰り返す。だけど少女は男をからかっているわけではなさそうだ。
目には悲しそうな色が浮かんでいる。何かを男に伝えたいようだった。
「なるほど……取り付いているのはエコーか」
今度は言葉が繰り返されることはなかった。ゆっくりではあるが少女の歩みは既に男が座る場所を通り過ぎていた。男の呟きはただの独り言に終わった。男は思った。背中から生えた舌は彼女と一体となっている。エクソシストが強引にも聖別の祈りを捧げれば、そこから出血して命はないのだろうと。
「それでは取り憑いているのは悪魔ではなく精霊だと?」
「ええ、エコーは元々、森のニンフであったのですが、女神ヘーラーの怒りに触れ、他人の言葉をそのまま繰返すだけの存在となった。自分からは何も話しかけることができない。こだまの精霊なのです」
「なんとおいたわしや。しかしなぜにあのように醜いお姿に……」
「いえ。エコーはむしろ、彼女を守っているのだと思います。誰かを探し求め彷徨う、同じ境遇の者として」
「それはどういう?」
「自らの言葉を持たぬエコーは、美男子ナルキッソスへの胸の思いを伝えることができず、悲しみのあまり身体のない声だけの存在となった。あの女性がそうなる前に御当主にお目にかかりたいものですな」
二枚の舌は激しく羽ばたき、でも決して少女が飛びすさることはない。
唾液の粒を周囲にまき散らして、部屋の空気を生臭くするだけだった。
部屋には四人の人間がいる。背中に舌の生えた少女と男、執事と……
「おお、なんと哀れな姿だ。使用人のメイドとは言え、このままでは捨て置けない。なんとか助ける方法はないものだろうか?」
「クイーンズ・イングリッシュは好きになれない。どうもにも慇懃無礼だ。この姿を見ても、まだ当主としての体裁を守るおつもりか?」
「失礼ではございませぬか!」
執事が割って入る。
「いや構わない。口調は生まれ持ってのものなのでご勘弁願おう。この子を救えるのなら……私はなんでもしようではないか」
「真実でしょうな。血を分けた子は可愛い。だけど
「……」
「そう。この羽のようなモノはあなたの舌だ。真実の嘘をつく二枚舌。彼女は探していた。父親を捜し求めていた。薄々は感じているのに、本当はわかっているのに、……あなたの口からそれが伝えられず、なのに自分からは何も言えず苦しんでいた。自らの言葉を持たぬ、エコーはそれに同調したに過ぎない」
結末はあっけなかった。
父は我が子を抱きしめ、涙ながらに詫びて、親子の名乗りを上げる。
エコーがそれを復唱することはなかった。舌の羽は気づかぬうちに、消えていた。
海岸線と石垣に挟まれた狭く長い坂道を、灰色のロードスターが下って行く。
名家で起こった荒唐無稽な事件を解決した割には、報酬は余りにも安かった。
だが、イタリア男は気にしない。海風に乗せ、こう独り言を呟くだけだった。
~~~~~ Tutto è pazienza pazienza ~~~~~
「ナニゴトモ、ガマンガマン」
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