「満月」「ロマン」「泥」」の三題噺
白い山と切り株
朝、わたしはわたしが女であることの確証を探す。腕を伸ばす。
夢とうつつの霧の中に手を入れる。でもなにもない。だからといってわたしは女である。確認する必要もない。やがて目を覚ます。
わたしは小さな出版社に勤めている。そして少しだけ時間軸が世間とズレている。
そのお陰で幸せでもある。ほとんどの人はラッシュアワーを避けた都内の電車がこんなにも快適だとは知らずに過ごしている。内部まで日が差し込む、車内は明るい。
仕事の打ち合わせも大抵は昼過ぎから動く。
「お手間をとらせまして」
「いえいえ。でもこれで本当に本になるんですか。なんだか信じられないな」
向き合う中年男性は汗をふきふき、恐縮を絵に描いたよう。
「ご心配なく。撮影も順調でした。営業中にお呼び立てしてすみません」
「いえいえ勉強になりました。しかし写真ってのはおもしろいものですね。実物のケーキを撮ったものとは全然違う。ドライアイスとか最初はなんだろって……はは」
着慣れないスーツはどこか垢抜けない。暑さも和らいだのにまた汗をふきふき。
「どうですか? これから軽く打ち上げでも」
「え? 3時ですよ? 今」
「中休み無しでやっている弊社行きつけの蕎麦屋があるんです。お酒も色々と取りそろえて……」
「いやぁ、お店を抜けてきましたもので、また次の機会にでも」
「そうですか」
§
帰りは大抵、午前様だが、終電の二つ手前なので酔っ払いも比較的少ない。通勤は行きも帰りも快適だと言える。暗い部屋に赤い点滅が見える。母だろう。彼女は他の通信手段を好まない田舎の人だ。かけ直すことはせず、大抵メッセージだけを残す。内容はいつもとかわらない。体を大切にと、当たり障りのない近況報告。
§
元は余程の大木だったのだろう。広さはリビングほどもある。
その切り株はまるで小さなステージ。そしてその切り株は雨に濡れない。
大きな幹も、周囲に影を作っていた枝や葉の茂みは、もう存在しないのに……
記憶だけが残る。森の中心で生きていた頃の、その記憶だけが残り、滞留している。
だからその切り株は雨に濡れない。
§
また霧の中にいた。休日の朝。
わたしは几帳面な性格で、部屋は清潔で洗濯物も溜まってはいない。
休日だからとて、特にすることもない。
「あ! いらっしゃい」
「どうも。見本だけお届けに」
「休日なのに? ささ、中に。紅茶でもどうぞ」
イートインのコーナーもあるが、お客は誰もいなかった。
「ケーキもなにかよろしかったら」
「モンブランはまだなんですよね?」
「ごめんなさい。季節ものでまだなんです」
「そうですか。じゃあレアチーズ……」
「はい! ばっちりいいのございますので」
喫茶店での打ち合わせとは違いやはりてきぱきとしている。でも敬語の使い方がちょっと変だ。
「いやぁ、他の17店はどこも有名どころばかりなのにウチなんかでよかったんですか? 今は世界で活躍してる新進気鋭の若手が凱旋帰国して……大型店も……資本が違うから、立地もそのほうが見栄えが……うわぁ、カラーで6ページも」
都内
「お店、いまからお忙しいんでしょうね」
「ええ、ホステスさんの出勤どきは結構忙しいんです。がんばらなくっちゃ」
「そうですか」
部屋に帰ると赤い点滅があった。早い時刻なので折り返し電話をかけようかと迷ったけれど、ふぅと息を吐いてそれをやめた。母はまだ元気でなにかを心配する必要もない。父がやり手だったので資産として持ち家とアパートを一つ残してくれた。その家賃収入で金銭的にも恵まれている。
金銭的に? そう考えれば、就職氷河期を乗り越え掴み取った仕事だけれど、本当はそこに固執する必要はないのかもしれない。田舎に帰れば、もっと恵まれた人生が待ってるのかもしれない。
少なくとも、離れて暮らす母の寂しさを埋めることはできるだろう。
母はそれを口にはしない。若くして専業主婦となった母は、自分とは違う人生を娘に歩ませたいと願っている。それが本音かどうかはわからないけれど――結婚とか子供とか――
そんな母娘には継承がない。同性であっても、互いの人生の本質を知ることはない。
でも父が亡くなっても、母が雨に濡れることはない。
それは単に時代がよかったせいなのかも……だけど。
それを真似てもうまくいくとは限らない……けれど。
§
泥の
「あはは。ちがうよ、おねえさん。それ泥じゃないよ」
「え?」
「舐めてごらん。あま~いよ」
金属の光沢のある膨らみに座り、子供が笑っている。男の子……女の子?
……本当だ甘い。それに気づいたら地面に足が届いていた。
そして見上げれば、あれは満月ではなかった。
「あはは。おねえさん、おっちょこちょいだね」
§
珍しく定時で仕事を終えた。
だとしてもほとんどは付き合いなどを言い訳に帰宅するのは午前様。わたしの時間軸は少しだけ世間とズレている……はずが、今日に限って誰もつかまらない。同僚も、取引先も、わたしと同じような境遇の、女友達も。
午後8時過ぎ。覗けばお客さんがまだ数人いる。イートインのコーナーには親子連れがいて、嬉しそうに笑ってる。すこし離れた暗い道で、その光景をしばし眺めた。
「いやぁ、お陰様で。とくにモンブランがよく売れました」
「発売と季節限定メニューが重なって良かったです。丁度、初めてお店に伺ったのが去年の今頃でしたね。その時のモンブランがあまりにも美味しくて……」
「ひとつ取って置いてあるんです。なんだかいらっしゃるような気がして」
紅茶が注がれた。銘柄は分からないが渋みの強いストレートティー。
ここでは子供にもこれで、普段はコーヒー党のわたしも駄々をこねたりはしない。
「どうぞ。これが最後の一個です。他のケーキでしたらまだありますので」
「いえ、今日はこれを食べに伺ったので」
クリーム色の皿にまるく銀紙に包まれたモンブランが登場した。ティースプーンとは違う柄の曲がった膨らみを帯びたスプーンが添えられる。
周りを囲むスパゲティ状のペーストも、さつま芋や
そして一番うえに乗っているマロングラッセ……
そっか。この色なんだ。黄金色じゃない。透き通った光沢のある、
カメラマンから上がってきたイミテーションのフェイク写真の方が正確だった。
あれは秋の終わり。最初の一口で食べてしまったから、間違えて覚えていた。
「
「ええ。死んだ親父のこだわりで。びっくりするほど値段はするのですがなんと言うか男の……。まあこの店自体そうなんですよね。変な物ばかり押しつけられました」
自分で入れた紅茶の熱さに目を細めている。ロマン?
「さて、片付けと明日の仕込みをしないと」
「……そうですか」
§
切り株の小さなステージ。子供がわたしに向かい笑いかける。
「おねえさん、マロンって本当は栗じゃなくって
切り株の縁を落ちないように、トコトコ、くるくる、回っている。
わたしは、誰かの傘になることはないのかもしれない。
濡れるはずのない切り株に、雨がぱらつく。ごめんね。
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