アンカー

『非常に強い台風第〇号は、午前3時現在、日本の南にあって、北西へ毎時20kmで進んでいます。中心気圧は925hPa、中心付近の最大風速は50……』


 真っ暗な部屋にスマートフォンの明かりだけがぼわっと浮かび上がっている。

 日光は雨戸で遮られ、除湿に設定された空調のエアだけが静かに流れている。

 湿気は掻き出しても掻き出してもどこかから湧いてくる。まるで蛆虫のよう。


 蒸し暑さの原因。極めてまれなルートを辿る大型台風がゆっくりと近づいていた。



「兄ちゃん、中学生がタバコ吸うなし」 

「わりぃわりぃ」

 光一はタバコをもみ消した。罪悪感はなかったがそこは密室だった。


「どんどこ近づいてきたな。やりぃ」

 弟の悠斗はるとがディスプレイを横から覗き込む。曇りのない瞳にそれが映り込んだ。


 ボクサーがアッパーを繰り出すように、南からまっすぐ北上している。台風は今夏、近畿地方に幾度も上陸し、その度、死者がでている。岡山、広島など中国地方では被害はもっと甚大で、その数は数十人にも及ぶ。不謹慎ではあるが今年は所謂……『台風の当たり年』であった。



「なんだよ兄ちゃん、暑いからくっつくなし」

 光一はかまわず悠斗を後ろから抱きすくめる。小学校も高学年になると男の子らしく恥ずかしがってはいるが、それが弟に必要だと光一は分かっていた。

 本来、その役目をするはずの母はそんな心の余裕を失っている。むろん、オニババと化したわけではない。母は変わらずこころやさしい。ただ疲れているのだ。2年前からの衰弱は家族のみならず、他人にも容易に分かるほどに……


 だが、家族の人生の歯車が狂いだしたのは、それよりもずっと前だった。


「あんまりよく覚えてないだろ?」

「覚えてるよ」

「7年前はおまえ3歳だったんだぞ」

「地震のこともよう覚えてる。馬鹿にすんなし」


 それは突然だった。なんの情報もなく突然 ”津波” と言う言葉が、家族に投げつけられた。地震のあと、家族全員の安否を確認し胸をなで下ろした直後のことだった。


 光一は台風の続報を見つめた。

 このように厄災が予測できるのならば回避すればよいのではあるが、それはやはり統計的なものであって、ある程度の規模の台風は確率として人の命を奪っていく。

 それは痣のようなリアルに過ぎなかった。

 海水浴では毎年、なぜだか根拠もなく、まるでそれが決められていたかのように同程度の数の人間が死亡する。交通事故も同様である。


「それじゃあお母さん夜勤にいってくるからね」

 ドアが開き、母が言った。母の腰元では妹の未玖みくが離れがたそうにしがみついていたが、それがかなわないとわかると『だぁーー』と兄たちの元になだれ込んできた。


「こらぁ、暑いからくっつくなし」

 悠斗は腰をわざと振るが未玖は『きゃきゃと』笑うだけである。


「台風すごそうだから戸締まりだけはしっかりとね。何かあっても病院から家までの道も危険だからすぐには帰れないからね」

 タバコの匂いも当然するだろうが、母は光一とは弱く視線を合わせるだけだった。悠斗と未玖は小熊のようにじゃれ合っている。「はーい」「あーい」


「わかってる」

 光一は目線を外し声だけを投げる。すっかり気弱になった母を見るのが辛かった。ドアが閉まる音だけを耳の奥で聞く。


 7年前。津波が街をおそった。父親はそれに巻き込まれ、遺体が発見されたのは二週間後だった。当時、八歳だった光一は遺体が並べられた公民館に入ることさえ許されなかった。だから父親の死に顔を見ることもなく、荼毘に付された白い骨をちらりと見ることしかできなかった。




 母が再婚し、兵庫県の田舎町に家族が引っ越したのはその5年後だった。土地勘も親戚もいない……不意の寂寥。

 だが光一はそのことで特に不満はなかった。借金も抱え、子供達の将来のことを考えてのことだと知っていたからだ。それに父が亡くなったあとの母の憔悴を見れば、子供達では満たされない感情を抱えた母を許すべきだとそう思った。



『ガガガラガガガラ』

 大きな音に悠斗と未玖がびくりと首をすくめる。

 雷と勘違いしたのではない。乱暴に縁側の雨戸をひく、怪獣像ガーゴイルの存在に怯えたのだ。

 また静寂が訪れる。ここは木造の古い家ではあるが作りがしっかりしているので、戸締まりを完全にすれば少々の雨の音など聞こえない。悠斗と未玖はスマホでゲームをやり始めた。そこには、やせ細り腰のまがった怪獣像がいる。


 最初に似ていると言ったのは悠斗だった。勇者が通る廊下の両側に並ぶ、怪獣像の一体が動き出す。悠斗はそれを執拗に滅多切りにする。それはまるで現実の怪獣像に復讐しているかのようだった。



 母が暴力を受けている。それに兄弟達が気づいたのはここに来てすぐだった。

 怪獣像は周辺の土地のほとんどを所有している。だが自分で耕作するのはほんの少しで、他は貸し出している。子供達の祖父と言ってなんの違和感もないその年齢のせいだった。

 なのに母には家事と畑仕事の一切を押しつけ、さらには病院で働くことまでさせている。

 病的な吝嗇家。借地料で街に繰り出し遊び惚けるほどの金があるのに……


 

 しかし、今回の計画を光一が決意した理由は、それだけではなかった。





『未玖に……?』

『うん。お母さんが夜勤のとき……』

 その話を聞いたとき、悠斗はただうつむいていた。





 風の音だけが微かに聞こえる。


「さぁおまえら今日はもう寝ろ」

「えーなんで」

「なんで」

「台風くるからに決まってるだろ。心配すんな。寝て起きたら全部きれいさっぱり終わってる。上陸したら怖くて泣くぞ? 今のうちから寝ておくの! 今回のはやべーぞ!」

「はーい」「あーい」

 悠斗と未玖は素直に布団に潜り込んだ。



 光一は部屋を後にした。これから数時間、時を待つ必要がある。

 凶器は柔らかい物。柔らかくて重い物。内出血だけにして、決して現場に血は流さない。

 終われば一輪車に死体を乗せ、裏手の濁流が流れているであろう小川に捨てればいい。

 それだけでいい。それ以外はしてはいけない。



 翌日早々、泥にまみれた怪獣像が発見されたとしても、まともな検証はされない。7年前と同じ。あの時の警察や役所の対応。手に余ったときの人間の心理。工場のベルトコンベアに乗せられて加工される製品のように、粛々と粛々と処理がなされていく特別な状況。

 それは統計的でありどうあっても人は死ぬときは死ぬ。この規模でこの経路を辿る台風が通り過ぎれば、人が何人か死ぬことは確率論だと光一は考える。復旧に追われひとつひとつの死は特別な理由がない限りは、検証されない。母のアリバイは存在している。




 悠斗にはほとんど父の記憶はない。お腹の中だった未玖は父の顔さえ知らない。


 光一だけが深く知る、父親の愛情と家族への想いが、凶行への迷いを打ち消す。

















 風だけが強く吹いていた。だがそれは普段に比べれば、であった。



 空には大きな満月が浮かび、薄い雲さえも掛かってはいなかった。



 心に穴があいた。光一のこれからの人生に、ロマンの欠片さえ残されてはいない。




 了














※アンカリングとは、先行する何らかの数値(アンカー)によって後の数値の判断が歪められ、判断された数値がアンカーに近づく傾向のことをさす










 







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