料理モチーフの短編
ぜひ映画館でご覧ください。
「カットや! カットっ! あかん。ぜんぜんあかんわ」
藤崎はメガホンを肩越し後ろに投げた。助監督がかろうじて空中でキャッチする。
どこからともなくため息がもれた。スタッフ全員に疲労の色が浮かぶ。
「監督。それほど重要なシーンでもないですから、その……いい加減で」
たまりかねた制作会社の人間が藤崎に近寄りそう取り成す。
「ええことあるかい。映画ちゅーもんは序盤で観客を引き込まなあかん。無実の罪で網走刑務所に服役しとった男が失意の中、ふらっと立ち寄った定食屋でカツ丼食べて目に光がもどって再起を誓う。ここで観客の心をぎゅっと捕まえて感情移入してもらわんとあとの復讐のシーンも会社立ち上げるシーンも 画竜点睛を欠くや!」
「それを言うなら、仏作って魂いれずじゃね?」
「どっちでもいいよ……チッ。なんであんな関西弁の監督に俺たちがこき使われなきゃならんのよ」
「しょうがないだろ。資金を出すのは生き残った関西の財閥なんだから。戦争がやっと終わって映画撮影が再開できるだけありがたいと……」
音声担当、カメラマン、照明担当がささやき合うも、藤崎のぎょろっとしたぞっとするほど迫力ある眼力にすぐに黙ってしまう。
昼頃から開始された撮影であったが、既に間借りした定食屋のガラス窓には夕映えの赤がほんのりと映っている。気温もいくぶん下がり、大勢の男たちの汗や熱気が
「監督。私の演技が悪いでしょうか? ご指導いただければ勤めますんで」
「いや健ちゃんは最高でんがな。なんも悪いことあらへん。悪いのはな演技やない。カツ丼やっ! ちぃーっとも美味そうに見えへん」
「なにがご不満なんでしょう? 僕から見ると非常に美味しそうに見えるのですが」
助監督が藤崎の耳元でささやく。彼だけは名古屋出身でいわば中立の立場だった。
「湯気がでてないやないか」
「湯気?」
「そうや。冬の終わりに網走刑務所のたっかいたっかい塀の隙間から看守に見送られて外に出てみればお空は粉雪や。満期の出所やのに誰も待ってやせん。風呂敷一個、寂しそうに抱えてふらついて、ふと立ち寄ったなんてことない定食屋。受刑者が外に出て初めての飯やど。どんぶりの蓋開けたらこう湯気がもわぁと顔にかかって、あぁシャバに出られたんやとしみじみ噛みしめて一口、口に運ぶ。そんな絵でなかったらあかんのや」
「いやあの……いまは夏でここは東京ですからそれは無茶な話です。それに消え物の杉山さんがちゃんとできたてを運んでます。見てください。湯気だって立ってるじゃありませんか」
「あほんだら。こんなほっそいほっそい湯気がフィルムに映るかいっ! あんな? 客に伝われへんもんはないのも一緒や。みんな戦争に負けて心が死んどるんや。それでも木戸銭はろうて楽しみに来てはるお客様に、目ぇ細めて湯気探せちゅーんか!」
「もうそれだったら煙草の煙でも仕込んどときゃいいでしょう。なぁ? 健ちゃん。高いギャラもらってんだから、煙草くさいカツ丼くらい平気で食えるよな?」
薄給のカメラマンは若くしてスターになった俳優が気に入らない。撮影が長引いたイライラも募り冗談めかしていやらしい嫌みを言う。
「自分はかまいませんが……」
「違う違う。煙草の煙じゃ絵が違う。うう~ん弱ったなぁ………………………………
そやっ! ドライアイスやっ!」
「……アイス? キャンディーかなんかですか?」
「どあほ。ドライアイスもしらんのかいな?」
藤崎は再びメガホンを放った。今度は床に転がり、慌てて助監督が拾いに行く。
「演出で何回か使ったことがあります。確か神奈川の川崎かどこかに工場があったはずです。軍部が使用してたんで優先して稼働していたはずですが、今日中には無理です。それにこの暑さですから、朝一、東京に運んでもそう長い時間、撮影は出来ないかも知れません」
制作会社の人間はなかば諦めてくれと言わんばかりに怖ず怖ずと藤崎に確認した。
「そか。ほな今日は撤収やっ! 健ちゃん悪いけど今夜は飯抜きや。ドライアイスが溶けんうちに気合い入れて一発で撮影するでぇ!」
「精一杯、勤めます」「チッ。結局、偽物撮らせるのかよ」
俳優の声とカメラマンのぼやきが重なるもそれは余りに小さく、皆には届かない。
§
「もうこんな所に戻ってくるんじゃないぞ」
「ありがとうございます、看守さん。お世話になりました」
小さな風呂敷を抱え男が空を見上げれば、曇天から助監督が降らす粉雪が舞う。
誰も待っている人はいない。女房は再婚したと聞いた。友達も親戚も罪を背負った人間などに関わり合いたくはないのだろうと……哀れ無実の罪は出所したその後も失意を男に背負わせる。
手元には刑務作業で得たわずかの金しかない。バスに乗るのもはばかられ男はトボトボと歩き出す。網走川に見立てた多摩川の河川敷に沿って、空爆の瓦礫や高い建物が写り込まないよう絶妙な導線でパン (Pan)すると、人家の立ち並んだ町筋が現れ、そこに忘れらさられたような定食屋が暖簾を風に揺らしている。
「どうせいつ死んでも変わりゃしない。死ぬならなにか食ってから死のう」
誰に言うともなく男は呟き、濁ったガラス戸をおもむろに横に曳く。
「いらっしゃい」
まだ戸も開ききらぬうちに明るい声が響く。半分ほど顔を入れて中を覗くと、店員らしき割烹着を着た若い女が、濡れた手を切りながら微笑みかけてくる。
そんな表情が自分に向けられるのは久しい。男はもそもそ、もごもごと口ごもり、手で探るように椅子の背の笠木をつかみ後ろにずらし座り込む。
「観光ですかいね? いま
女は申し訳なさそうに男に聞いた。
何を食うとも決めてはいなかった。男は所在なげに店内を見渡す。魚料理が多いが生の魚は体を冷やしそうだった。とても食べる気にはならず、迷っていると男の目が一点に止まった。
「あの……カツ丼……出来ますか?」
「カツ丼っ! あいよ~。出来る物を注文してくれて良かったぁ。漁は
女が厨房に消えていく。
男は出されたお茶を両手で包む込むように握り、今夜泊まる場所を考えた。
……そして諦めた。
暫くすると、鼻をくすぐるような鰹だしと味醂の甘い香りがふわり漂ってくる。
刑務所の中に長くいれば、五感は研ぎ澄まされる。
匂いだけでなく、衣をまとった肉が油の中で泳ぐ音さえ聞き取れた。
シュワシュワと大きな音が、なにかをきっかけにチリチリ、ピチピチと高い音に変わり、それと同時に少し引きのアングルで、カタカタと太い箸で切るように卵を叩く女のかいがいしい表情が映る。
老舗料亭で別撮りされた調理中の音声は女の動きに絶妙に合わさり、画面は少しぼやけて手元だけがクローズアップされる。
さっきまで死のうと考えていた男はそれも忘れて、音だけで食材たちがまとまり、カツ丼と言うめっぽう庶民的な料理が
「はい、おまちどおさま」
男は割り箸を割り……だがまだ蓋を取ろうとはしない。いとおしそうにどんぶりを眺めた。そして目をつぶった。
30秒ほどしてからだろうか。男はカッと目を見開き蓋を取り去る。
北海道の冬のさえた空気に触れて、どんぶりの中にこもっていた熱が湯気に化けて膨らんだ。男はさっき開けたばかりの目をまたつぶる。その顔をなでるように湯気が立ちのぼってゆく……
§
「いやぁ、あんな冷たいカツ丼をあれだけ旨そうに食うのはたいしたもんだ」
撮影終わり、椅子に座る俳優にかけられたカメラマンの言葉に嫌みはかけらもなかった。
「どうでしょう? ムショから出て初めてのシャバの飯を演じ切れたかどうか……」
「関西野郎も納得だろうよ。何よりカメラで覗いてたのはこの俺だから間違いない。あれだな。若造でもスターになるってのは、やっぱその、何かしらあるもんだなぁ。それが証拠に今夜はどうしてもカツ丼を食わないと眠れそうにもねえ。活動屋がカツ丼や……チッ、つまんねぇ関西弁が移っちまったぜ」
了
※活動屋……映画制作に携わる人
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