花を食む。




 サタッサタッサタッ

            サタサタサタサタサタ

                         サタタサタタサタタサタタサタタサタタ






 雨の気配がした。白いまゆの中で聞く、やがて強くなるその、ベクトル。





「お目覚めかい?」

 休日の彼は早起きだ。ベッド脇で、カップ片手に私を観察している。


「ん~最高に気持ちいい」

 滑り落ちそうなブランケットをかき抱き、可愛いはずの面差しを彼に向ける。



 昨夜も……。平均的な夫婦と比べみても相当に仲は良い。体の相性も抜群で、愛し合った翌日はいつも、潤った肌と悩みない冴えた脳。奇跡的に過ごしやすい体感湿度が私を待っている。

 ――だから、朝が好きなの。



「お昼は、南野なんの飯店はんてんにしないか」

「いいけど?」

「気にするなよ。いろいろ気にしすぎだよ」

 私好みに幾分、冷ました珈琲を手渡し、彼は笑う。いろいろと完璧すぎる。


 彼は残らず与えてくれる。

 体をいたぶる時は、私のプライドを保ちながらも奥に眠る屈折した被虐的願望さえ満たしてくれる……この口には出せぬ情欲を先回りして食べてくれる怪物を引き当てた女の幸運と愉悦はずばり、女にしか知ることが許されぬものである。

 結婚5年目にして尚、――私は、彼に、夢中なの。



 昼までにはがある。零さぬようカップを持ってソファーに座る。彼は家でもきっちりとした服装が多く、部屋着のままの私はなんだかいつも気恥ずかしい。

 未だ、――保護者と被保護者の気分…………かな?





「あーぁ、馬鹿だなぁこいつら」

 戦争のニュースが流れている。宗教的な背景も影を落とすが実質は誰が利益を得るか、ただそれだけなのだろう。信条や主義にかこつけても、欲望にかまけた愚か者たち。

 心臓の位置は同じなのに、お互いがお互いを劣等種だと罵り合っている。




 ソファーからワンバウンドして立ち上がり、セクシーに窓を覗く。煙るような景色に浮かぶ細く入り組んだ路地は、遠くにあるはずなのに、高層から眺めるとやけに近くに感じて、そしてその場所に居さえしなければ、その風情は趣深い。

 悲しいかな、この国にも貧困はあり、彼と結婚していなければ今はもう夢の中に存在するだけの泥の淵に、私はうつつとしてまだそこに居たのかも知れなかった。

 ――彼と出会わせてくれて、ありがとう。


 

 窓辺。そんな想いを知ってか知らずか、彼はイヤラシく、私のヒップを抱く。

 それは不快ではなく、欲望と親愛との僅かな隙間に存在する不可避の愛撫で、私が望めばエスカレートするであろうし、そうでなければ、親愛のまま終わる。

 彼は異能者で、彼から威圧的な行為を受けた覚えがない。そして愛されている実感が、どうしようもなく確かに、そこに存在するのだった。

 ――彼もまた、私に夢中なの……



 貧しさにも季節は巡り、木々に光るは、雨に濡れた小指ほどの新芽だろうか? 

 懐かしさとないまぜ、未舗装の迷路みたいな路地の据えた匂いを思い出せば、嫌悪もある。数キロ先、離れたあのバラックに少女の頃の、私がいる。



「彼らも低い屋根を捨てればいいのに……」

「知らないからよ。一度、満たされた生活を知れば……あっ」


 唇を塞がれた。


 誘ったのは私。


 彼はスローなキスが好きで、それには私も一票を投じた。





 なにもかも順調。マンネリズムさえない。5年も経てば、姑も優しくなった。 

 当初、姑が結婚に反対したのは無理からぬことで、棘みたいな些細な差別は、未だ、この国にも残っている。イズムとしてではなく、母の愛情としての懸念。

 だけどそれは、彼女の容貌そのまま、すなわち老婆心だった。



 百年もの遥か昔に、この国の種族間の争いは終わっている。元々、手足の数も心臓の位置も同じではないか。英知は無知を乗り越えた。

 彼は特権階級であるし、社交界の振る舞いにおいて、私はそのバックアップを着実にこなしている。棘が生活を脅かす心配などない。元々……




 ――――私たちの差異は、花をむか、そうでないかだけの違い――――



 そのことで戦争が起こり人々が殺し合ったことなど、もはやなんだか現実味がない。それは愚かな過去の記憶であり、恥ずべき、在りし日の過ちだった。





 私の両親も花を食む。兄は大学卒業と同時に食むのをやめた。今は、ある種のサプリメントで補っている。体調は大丈夫だろうか? 老けるのが早くなるとも聞く。逆に食まない種族が、自らの意思で食むこともあり、それはイデオロギーからの解放であったり、強烈な博愛主義の体現だったりもする。


 彼もおどけて花を食む。だけど必要でないものは、余り美味しいはずがない。



 味覚とは、


 味蕾みらいに取り込まれた物資を識別し、脳に情報として送る。付帯的要素として、匂い(嗅覚)歯応え(触覚?)見た目(視覚)を加え総合的に、快か不快か? 

――美味しいか不味いか――判断しているに過ぎず、要するにその物質が必要か否かのジャッジを顕在けんざい意識として表面化させただけの、


 ただの現象。




 太古から――脳と呼ばれる器官が生まれるずっとずっと前から――腸は生命を司ってきた。脳が支配しているのではない。脳が支配を受けているのだ。



 花を食まねば私の種族はうまく眠ることができない。それは医学的、あるいは科学的に証明され……でもその原因物質、そのすべてが明らかになったわけではない。なので、サプリメントではやはり、自然の摂理に及ばないのだ。




 なぜ故に、美しく栄養価のないものを食むのか? 

 蜜なら滋養もあり花を殺さずに済むではないか?


 なんと無法な屁理屈だろう。 


 花を食むことは、デカダンス(爛熟の末の退廃だとか道徳の腐敗)ではない。

 決して嗜好品ではなく、食むことは、ほとばしる玉の緒としての、種族の必然。





「そろそろ行こうか?」

 とろけるような笑顔で、彼は車のキーを光らせる。私が雨に濡れる心配はない。


 

 彼はやさしい。休日のランチに中華を選ぶのも、私へのサービス。

 店のオーナーシェフは、私と同じ種族で腕一本でのし上がった有名人。

 テレビの料理対決にも出場経験があり、出自にプライドを持っている。


 赤、青、黄色、紫、ピンク、白、水色。だから、常に高価な花々を食材として取り揃え、それは私たちの階級でさえ……躊躇ちゅうちょするほどの値段であった。


「梅雨の時期だから紫陽花あじさいなんかがあるんじゃないかな?」

 車の窓に水滴が走る。ハンドルを握る彼は、前方に注意を向けつつ予想する。


 紫陽花は育った土の質で様々な色の花を咲かせる。けれど味はどれも一緒で、それほど美味しくはない。雨に濡れる姿は美しいけれど高級食材ではなかった。



「ん~あの店に紫陽花はないかな? いまならカモミールとか? ジャーマン種は終わってるからローマン種ね。あとは梔子くちなし睡蓮すいれん、カラー、アルストロメリア、……薔薇ばらも季節だけど最近は高すぎるわ。青い薔薇なんか……破産しちゃう」


「薔薇でもカラーでも好きなもの食べればいいよ。君は頑張っているんだから」

「いやだぁ。そんなに食べたら眠くなっちゃう」

 私は頬をオレンジに染める。




 石畳の振動が僅かにして、滑るように雨除あまよけのある駐車場へと車は滑り込む。一応は傘を携えた、ドアボーイが会釈する。雨のせいか店は割合と空いていて、本当に青い薔薇が本日の一押しだったら……断り辛そう。




 だがお勧めは紫のクレマチスと、やはりカモミールだった。少しほっとする。


 料理好きな彼はオープンキッチンに夢中で、私はそんな彼の横顔を見ている。




 スッゥトン、スッゥトン、スッゥトン。

 

 ジュワァァァ、チャッチャ、ガチャコンガチャコン。


 ばっさばっさばっさばっさ。




 そうだった。味覚の付帯要素には聴覚もあった。

 彼の目の動きと表情だけで、厨房を見ずとも、大体のことはわかる。



 新鮮なレバーを切る独特の音。湯通しして一瞬で引き上げ、色とりどりの花を大量に放ち鍋を煽っている。彼が注文した、レバ花炒めだ。


 新中華料理ヌーベルシノワ、塩だけのシンプルな味付け。




 バッキタンッ、バッキタンッ、バッキタンッ    パタパタ


 ジュンジュワァ、ジュワァ、ジュワァ…………ぷちぷちぴちぷち




 隣客の注文だろう。小斧で骨ごと肉を叩き切り、衣を付けて揚げる音がする。

 彼は自分の注文を後悔しているはず……唐揚げは彼の大好物。でもカロリーを気にして注文しなかった。ふふっ、表情が微妙。人はとかく他人の注文した料理がやたらと美味しそうに感じ、おもんみるものだ。






 幸せ。彼の横顔を見ているだけで、こんなにも。



 あぁ、そんな私たち夫婦に陰る、たったひとつ満たされぬもの。



 彼に父親としての、人生を与えてあげたい。……彼を完成させてあげたい。




 


 種族が違えば子供ができにくいのは事実ではある。

 でもそれは、たった数パーセント、僅かゼロコンマの差異でしかない。

 ドクターも太鼓判を押してくれているではないか。


 だったらなぜ? もう5年も過ぎた。

 優しくなった姑の目の奥にある願い。それは私も同じなのだ。

 子供が欲しい。子供が欲しい。子供が欲しい。


 満たされても満たされても満たされても、足りない足りない足りない、子供が欲しい子供が欲しい子供が欲しい。



 


 ――食事は最高に美味しかった――




 

 飲酒運転になるので食後酒はうちに帰ってからだった。彼はグラッパを嗜み、数時間のんびりしそのまま眠るだろう。上流階級は休日に齷齪あくせく遠出などしない。

 私も花を食んだから、暫くすれば眠くなるだろう。




「美味しかったね。味がわかってきたのかな? 花もなんだか慣れてきたよ」

「うそ、うふふ。お隣の唐揚げが羨ましかったんじゃない?」

「……まあね。でもカロリーは控えなくっちゃ。それに、レバーも最高だった。やっぱりレバーは白人に限るね。美味しくて尚且つヘルシー。そりゃぁ唐揚げは筋肉質な黒人のほうがむいてるけど………………こっちにおいで」

「私は固すぎて苦手。みんな黄色いのは癖があるって言うけど花に合わせるならそっちのほうが好き。最近は数が減って随分と値段が高くなっちゃって……昔は駄菓子屋でも売ってて、眼球の裏の脂肪とか大好きだったのに……」

 私は彼にしな垂れる。


「黄色は繁殖力が弱いんだ。育てるのも手間が掛かるから高値なんだろうけど、希少性だけで今の値段は馬鹿げてる。部活帰りに買い食いした、懐かしい味ではあるけどね。そうだ、今度は和食の店にしよう。白人の踊り食いが名物なんだ。生きたまま酢醤油かけて、君の好きな睡蓮浮かべて。和食なら食材を粗末にしないから、捨てる部分で ”黄色の煮っ転がし” なんかサービスしてくれるかもね」





 カサッカサッカサッ

             カサカサカサカサカサ

                           カササカササカササカササカササカササ




 

 彼の愛撫はいつにも増して巧みで、6本しかない腕が、10本にも20本にも感じられる。


 花を食み、眠りに付くまえの、例えようのない夢現ゆめうつつの快感。



 


 そう。花を食むこと以外、私たちはなにもかも同じ。

 私たちを遺伝子操作で誕生させた、創造主をも食料とする、選ばれし民。

 花を食むとか、食まないとか。それが一体なんだと言うのか……








 ああ、神よ。私たちの創造主を創造した真の神よ。


 どうか私たち夫婦に子供をお授けください。日々真面目に生きております。


 創造主が犯した過ち……その同じ轍を踏むほど、私たちは愚かではない。


 なのに、神よ……なぜに、私たち夫婦にこれほどの仕打ちを? ああ……




 










 あなたにとって美味しいもの       わたしにとって美味しいもの







             違うことは罪ですか?




 



 

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