罠。美しき彫像
一体の彫像がそこにあった。
「不思議なものですね。まるで生きているようだ。そして、艶めかしい……おっと失礼しました。これは亡くなられたお嬢様のお姿でしたな」
「娘はダンサーを目指しておりましたから、気品も妖艶も清純さも、すべてが褒め言葉ですよ」
「将来を嘱望されておられたと……」
「ええまあ。レッスンも科学的でして、ですからこのような正確なデータも残っていたわけです」
冷たい彫像の足下からは、微かなトゥシューズの
「やはり不思議だ。3Dプリンターを使えば、それこそ肌の色や質感さえ再現できる。ですがそれでは人形になってしまう。イギリスのマダム・タッソー館の蝋人形にさえ及ばない。なのにこれは人間の肌とはまるで違う色なのに、内部に気泡や幾筋もの傷もあるのに、どうしてだか生命が感じられる。大変勉強になりました。難しい仕事でしたが挑戦できて良かったと思います」
「あまりに脆い素材ですからな。御社の精密彫刻技術がなければ、叶わなかったことでしょう」
男の年齢は70歳を超えたあたりだろうか。ただ惚けたように目の前の踊り子を眺めている。
「いやいや我々の技術など、これほど巨大な岩塩の結晶を探し出されたご苦労に比べれば……」
「世界中を探し回りました。40年ほど。ですが少しも長い時間だったとは思いません。この瞬間の喜びに比べれば……あの……どうか……娘と二人っきりにさせてはもらえませんでしょうか?」
もう一人の男はなにも答えず、静かに一礼だけしてその場を離れた。
そこには父と娘だけが残された。
「ああ、この時をどれほど待ち望んできたことか。だが確信できる。あのときの悪魔の言葉は真実だったのだと。この姿を見れば、あれが幻覚や盲信ではなく、
男は静かに歩み寄る。
あろう事か、男は彫像の唇に自らの唇を押しあてる。
この
40年も前に交わされた契約は腐ることなく、この世に奇蹟らしき実を結ぶ。
恍惚としながらも腐臭を孕んだ醜き表情から、それが神のなせる技でないことは明白だ。
罪深き口づけは甘く切なく魂を揺さぶり、だが男は知らなかった。それが悪魔の罠だと。
一体の彫像がそこにあった。
生まれたばかりの少女は、生まれてすぐ、前世での忌まわしき記憶に
かつて愛した男がそこにいた。彫像でありながら父性を超えた変わらぬ愛がそこにはあった。
だがしかし、少女の高潔な魂は恐怖と愛情を乗り越える。そこには一体の彫像があるだけ。
少女は立ち去った。その場から立ち去った。彫像は動かない。ただ、静かに微笑んでいた。
※
「なるほど、これが例の?」
「ええ。まことに不思議なものでしょう?」
「まったくもって…………」
「専門家の分析でもこれは人の手によるものではないとしか……3Dプリンターや超精密レーザー加工でもありえないとのことです。そもそも作り手がわからない。わかっているのは唯一、これがボンベイらしいと言うことくらいでしょうか」
「ボンベイ?」
「黒猫の一種で、アメリカ原産の品種のひとつです。ですが、ただ小さな斑点さえも許さず全身がエナメルがごとき漆黒の美しい光沢のあるのが、その特徴ですな」
「それはまた奇っ怪な。黒猫をこのような色と素材で表現しようとは……」
「ええ。黒猫は不吉であるとの迷信と、意図の知れない突然現れたオーパーツ(場違いな工芸品)として
「それはまた勿体ない。艶めかしく、まるで生命を感じるほどなのに……」
「実際のボンベイネコはとても愛情深く、人に懐きやすい性格なのですがねぇ。ふふふ」
※
悪魔の残忍さとは、命を奪うだけでは飽き足らない。
罠にはその次の扉があった。
果たして、猫と入れ替わった刹那、男は若返っていたのだった。幼さの残る少年の姿に。
この先、どんな残酷な出来事が起こりうるのか。いやもう起こってしまったものなのか。
それは誰にもわからない。ボンベイの表情にもなにも浮かんではいない。
だが、400年も経てば、悪魔の呪いもとけるものだ。
そのときに聞けばいい。人々が言う不吉な存在なのか、そうではないのか?
意思を持って彫像に接吻した、この黒猫に。
大丈夫。それまでは大切に保管されることでありましょう。
恐ろしがられても嫌われようとも、彫像はこれほどまでに美しいのですから……
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