02

 父さまの大きな手が、シマシマフワフワのあたしの頭をやさしくなでてくださる。

 丸い耳をやわらかく掻いて、背骨を数えるように、尻尾を確かめるように、丁寧に触れてくださる。

 たくましい腕に抱き上げて、頬ずりをなさる。

 ふふ、とあたしは笑う。

「くすぐったいわ、父さま」

 父さまはあたしと同じ黄金色の瞳をやさしくすがめ、低く喉を鳴らされた。

 そして、短くひとこと、こうおっしゃる。


「すまない」


 あたしの身体を板の間に降ろし、哀しみに満ちた声で続けられた。

「おまえだけなのだ。わが妻を慰めることができるのは。われの毒に侵されたあれの心を癒すことができるのは」


 父さまのうしろに控えていたあにさまが、そろそろ刻が満ちまする、と静かな声を上げられた。

 それを合図に、あたしは四つ脚を床に踏ん張り、身を震わせて獣化を解いた。


 琥珀の髪に黄金の瞳。

 象牙の肌に貝殻の爪。


 被毛を失い頼りない姿を晒すあたしに向かって、あにさまが慌てたように駆け寄ってくる。

 衣を着せかけてくださるあにさまに拙くもお礼を申し上げれば、たくましく太い指先がわずかに震えた。


「大丈夫ですわ」

 あたしは笑う。

「母さまはいつもやさしくしてくださいますもの」

 そうか、とあにさまはひどく寂しく微笑まれた。

「そうか、母さまはおまえにはやさしくあられるのか。そうなのか」


 獣の王である父さまと人の長の娘である母さまのあいだに、時を同じくして生まれた、あにさまとあたし。

 あにさまは父さまの血をたいそう強く受け継がれ、完全には人の姿を取ることができない。

 誇り高き獣の血が、己を偽ることを許さないのだ。


 でも、あたしは違う。

 あたしは耳も尻尾も隠すことができる。


 いつもは四つ脚の姿でいることがほとんどだけれど、母さまと同じ人の姿になることもできる。

 いちはやく大人の姿におなりになったあにさまとは違い、まだ年端もゆかぬ幼い姿しかとれぬうえに、ほんの短い時間のことではあるけれど。


 父さまと契りを交わされ、身のうちであにさまとあたしを育まれた母さまは、けれど、生まれてきたわが子らのおそろしい姿に正気を失ってしまわれた。


 母さまのお部屋へと向かうあたしに、父さまはいつも同じことをおっしゃる。


 妻はおれのことを厭うておる。

 おれの血を濃く受け継いだおまえの兄のことも疎ましく思っておる。

 だが、おまえは違う。

 おまえだけが、あれを狂気の縁から連れ戻すことができる。

 たとえ、ほんのひとときであってもな。


 あにさまに帯を結っていただきながら、あたしはこっくりと頷いた。


 あにさまの寂しげなお顔、父さまの悲しげなお顔をまっすぐ見上げる勇気はないけれど、ふたりの心だけはこぼさぬように受け止めなくてはならない。

 受け止め、そして、母さまに届けなくてはならない。


 父さまにもあにさまにもできない、それがあたしの役割なのだ。


 あたしはつと歩き出す。

 あにさまの手が離れ、父さまの声が遠ざかる。


 母さまの住まう座敷には、あたしのほかにはだれも近づこうとはしない。

 一日の大半を狂気に過ごし、獣をおそれ、夫を厭い、息子に怯える王の正室に、一族の者はみな冷淡だ。


 世話をする者の数もごく少なく、あたしのほかには訪う者もいないお部屋の前。


「母さま」


 呼びかけれど応えはない。

 襖をそっと引き、あたしはもう一度母さまを呼んだ。


 ひんやりとした部屋の奥、陽の射し込まぬ薄闇に蹲るちいさな影がある。


 あたしは静かに近づいて、母さま母さま、と幾度も呼びかけた。


 やがて薄闇に浮かぶような白い顔がこちらを向き、長い髪に隠れた、虚ろな瞳があたしの頬をなでてゆく。

 しばらくのち、ああ、と母さまはごくうっすらとした笑みを浮かべた。


「そなた、おなかは空きませぬか」

「いいえ、母さま」

「そなた、寒くはありませぬか」

「いいえ、母さま」

「そなた、母御が恋しゅうはありませぬか」

「いいえ、母さま。あたしの母さまは、あたしのすぐそばにおられますもの」

「そうかそうか、それは重畳」


 母さまはふと笑みを消された。


「あの方は息災か」

「はい、母さま」

「あの子は変わりなく過ごしておるか」

「はい、母さま」

「国はいまだ豊かであるか」

「はい、母さま。母さまがおられるからこそ、獣と人とが手を取りあい、平らかに和やかに栄えております」


 そうかそうか、と母さまはおっしゃらなかった。


 あたしは母さまのお心を知っている。

 国も婚家も生家も、母さまにとってはどうでもよいこと。

 母さまがわずかに残ったやわらかな人の心を傾けておいでなのは、ただあたしたち家族のみ。


 硬いお顔を緩ませることなく、けれど瞳ばかりはいろどり豊かに、母さまはあたしをじっと見据えられる。


 あの方は、おまえを慈しんでくださるか。

 あの子は、おまえにやさしくあるか。


 その問いにはふたつの意味が込められている。


 おまえは、父さまを敬っているか。

 おまえは、あにさまを支えてやれるか。


「はい。母さま」


 幾度も幾度も頷くあたしに、母さまは満ち足りた笑みを向けられた。


「そうかそうか。ならばよい」


 夫を厭い、息子を疎むお心は偽りではない。

 微笑みも涙も彼らのためには、決して浮かべられない。

 身を預けられることも、腕を伸ばされることもない。


 それでも。


 それでも、母さまは父さまを想っている。

 あにさまを慈しんでいる。

 あたしを愛してくださるように、ふたりのことも愛しておられる。


 父さまとあにさまから母さまへの、言葉にならぬ想い。

 母さまから父さまとあにさまへの、形にならぬ想い。


 すべてを受け止め、伝えるために、あたしは母さまの痩せた身体を、そうっとそうっと抱きしめた。


               ――ロリな虎の獣人で溺愛される話を書きます。

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