虎の章

01

 ひと足ふた足進むごとに、賑やかな楽の音が少しずつ遠ざかっていく。


 ようやっとここまで来ることができたかと、おれはひそかな胸の高鳴りを覚えていた。

 自然と高くなる足音を、なけなしの理性で抑え込む。だが、いまだ髪の色すら知らぬ許嫁に、ようやく目通りが叶うとあっては、高揚するなと云うほうが無理だ。


 女の父の許しを得て屋敷に通うようになって早三月。

 おれはまだ、ただの一度も娘にまみえることができていなかった。


 互いに望んでの婚儀ではない。

 おれは権威のため、娘は生存のため、しかし互いに初めての契り。強いられての夫婦とはいえ、わずかな希望はあるはずだ。

 そんなふうに気楽に考えていたのは、どうやらおれだけであったようで、父親はあれこれ取り繕うも、娘はおれを拒みたくて仕方ないらしかった。

 宴に舞、唄に芝居。

 父親が娘の説得にかけた時間、あるいはそうと見せかけておれに娘を諦めさせるための時間は、つまらない遊興に費やされることとなった。


 この地の王に対するあまりの不遜に、もういいでしょうよ、喰っちまいましょうよ、と一族は牙を剥いたが、おれはその気にならなかった。

 喰らうことは簡単だ。

 滅することはいつでもできる。

 獣に娘を差し出したくない父親のあえかな抵抗を踏み躙り、彼の宝を力づくでもぎ取ることも。


 でも、おれはそうはしなかった。


 やつらにおもねったわけでも、情けをかけたわけでもない。納得するまで抗えばいいと思っただけだ。

 いずれ果実は熟して落ちる。

 そう思ってただ待つおれの前で、やつらは抗い、抗うことに疲れ、疲れて諦め、諦めて跪く道を選んだ。


 いまや果実はおれの掌の上で、みじめに震え、無様にうろたえて、食い尽くされるのを待っている。


 こちらへ、こちらへと導いていた侍女が足を止めた。

 婿を迎える部屋は、ぼんやりとした灯に照らされ、しんと静まり返っている。

 侍女が、りん、と鈴を鳴らすと、部屋の戸がするすると開いた。

 なかは暗く、様子をうかがうことはできない。

 おれは迷うことなく足を踏み入れた。


 月明かりを背に座す娘は、軽く目蓋を伏せ、驚くべきことに、薄い笑みを浮かべていた。

 すっかり蒼ざめ、泣き伏していてもおかしくないと思っていたおれは思わず目を見張った。

 おれが部屋の戸を閉ざし、完全にふたりきりになると、娘は張りつめた糸を爪弾くような声で云った。


「本当に、なんと面倒な殿方でしょう。三月ものあいだ、連夜にわたってお通いになれば、わたくしにその気のないことなど、とうにおわかりでいらしたはずなのに」


 ああ、知っていたとも。

 知っていても、やめられなかったのだ。


 なかばは期待で。

 なかばは意地で。

 いつかは会ってくれるやもと、いつかは無理矢理にでも開いてやろうと。


 しかし、無体は好かぬと見栄を張り、いずれは落とすと強がって、とうとう会えると素直に喜んだ己を恥じるおれの前で、娘は艶然と微笑んだ。


「なんという愚かな」


 酒と舞に溺れていればよかったものを。

 唄と芝居の幕とともに退いていればよかったものを。


 言葉にならぬ嘲弄を浴びせかけられ、ぼうと立ち尽くすしかないおれの前で、娘はすっくと立ち上がる。

「互いにいらぬ恥をかくことになりますな。そなたは嫁に逃げられたと、わたくしは婿を捨てたと。けれど仕方ありますまい。すべては諦めの悪い、わたくしたちふたりの咎なのですから」

 おれはようやく言葉をみつけた。

「諦めの悪い?」

 意味がわからぬ。おれだけではなく、娘もまた叶わぬ望みを胸に秘めていたというのか。

 娘はおれをまっすぐにみつめた。


 胸の底に大きな穴が開いたような心持ちがした。

 己のなか、わずかに息づいていたやわらかな想いが、その虚ろにすべて飲み込まれ、失われていく。

 おれの喉が低く湿った音を立てた。


「わたくしはここを去る。ずっと叶えたくて、ずっと叶えられなかった、幼いころからの夢でございます」


 獰猛な本性が姿を現わす。

 娘の悲鳴が最後の鎖を引きちぎり、おれはただの獣となった。


        ――フェロモンたっぷりな虎の獣人で通い婚する話を書きます。

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