02

 いまの僕はとても追い詰められている。

 広い寝台の上、八重の櫛を手にじりじりと僕に迫るお館様をどうにかして躱そうと、尾を丸め、耳と目を伏せ、しかし気配だけは読み違えないよう、神経を張り詰めている。


「どうした、なぜ厭がる?」

 お館様のお声は不満げで寂しげで、それ以上に不安そうだ。


 これまでの春と秋、僕は自分の耳と尾の手入れをお館様に預けてきた。

 被毛の生え変わる季節の変わりめ、きちんと櫛をいれてやらなければ、耳と尾は目も当てられないひどいありさまになる。


 でも、この前の秋から、僕は彼女の手を拒むようになった。

 お館様はずいぶんとしつこくごねられたけれど、僕があまりにもかたく拒むものだから、仕方なく諦めてくださっていた。

 いまはそういう気分ではないのだねと、どことなくせつないお顔をされながら。


 冬のあいだに、僕の態度は秋よりももっと頑なになった。

 ずっと同じ寝台で寝んでいたのも、ときおりは湯浴みをともにしていたのもすべて別々にしてしまった。

 ――病でも得たのか。

 ――そうでなくとも、どこか具合でも悪いのか。

 お館様はたいそう心配くださり、僕のもとへは幾人もの薬師が遣わされた。

 ――僕はどこも悪くない。あなたがたに用はない。

 僕がそう云うと薬師たちははじめこそ困ったようにしていたが、お館様には内緒の秘密を明かすと、誰もがみな、なるほどと納得して帰っていった。

 ――心配なさることはございません。

 ――時が解決することでございます。

 薬師たちのそんな言葉に、お館様はひどく不満そうだった。


 そして春。

 お館様はいよいよ不機嫌をあらわにされ、櫛を持って僕の寝台へと乗り込んでいらした。


 私はそなたの妻ではないか、とお館様は正論をおっしゃった。

「なにをそんなに厭がるのだ? 本当にどこか悪いのではないか? この屋敷になにか不満があるのか?」


 そして、とうとうこんなことまで口になさった。


「それとも、私のことが厭になったか?」


「違う! 違います!!」


 僕は慌てて叫んだ。

 うしろめたくて申し訳なくて恥ずかしくて、ここしばらくしっかりとらえることもできなかったお館様の眼差しをまっすぐに受け止めながら。


「そんなことはありません。お館様は悪くありません。お館様のせいじゃないんです。違うんです。全部、全部僕のせいなんです」


 お館様は思わず櫛を取り落とされるほど動揺なさった。

「そなた、なにを云っているのだ? やはりなにか思うところでもあるのか?」

 そのやさしく僕を気遣う声に、僕はどんどんいたたまれなくなり、またもとのように俯いてしまった。


「黙っていないで、なんとか言っておくれ」


 僕はますます追い詰められた。身の置き所がないとはこのことだ。

 でも、このまま黙っていては、お館様を煩わせるばかりだ。

 それくらいのこと、云われなくてもわかる。

 ああ、そうだ。お館様の戸惑いを思えば、僕の恥ずかしさなどいかほどのものか。


 僕は覚悟を決めた。


 何度も喉を鳴らし、なにごとかを告げようとする僕をお館様は辛抱強く見守ってくださる。


「僕は最近おかしいのです」


 最初のひとことで弾みをつけて、僕はもう無我夢中で云い募った。


「寝台でも、お湯殿でも、お館様とご一緒すると、胸が苦しくなって身体が熱くなって、もういてもたってもいられなくて、大声を上げながらそこらじゅうを走り回りたくなるんです。でも、そんなことできない。眠ることも、湯浴みをすることも、貴女にとってはかけがえのない安らぎのときなのですから。僕は、だれよりもよく、そのことを知っているのですから」


 ぎゅうと目をつぶり、下を向いて、そこで言葉を途切れさせた僕の前で、お館様はすっかり黙り込んでしまわれた。

 ずいぶん長いことうんともすんともおっしゃられず、僕はだんだん不安になってきた。

 そうっと目を開け、上目で様子をうかがえば、お館様は形のよい瞳をみはり、唇をぽかんと開けて、僕をみつめていらっしゃる。


「ごめんなさい」


 僕は慌てて小さくなった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。僕がお館様といて落ち着かないのは、僕が、僕がその……」


 本当は僕には全部わかっている。

 僕がお館様といて落ち着かない気持ちになったり、身体の芯が熱くなったりするのは、僕が大人になった証なのだ。

 お館様と本当の意味で夫婦となり、まことの意味での契りを結びたいと願うようになったからなのだ。


 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す僕のうなじに、つとお館様のお手が触れた。

 どこかひんやりと、けれど、とてもやわらかくやさしい指先が、僕の髪を撫でてゆく。

 やがて、くつくつ、と低い笑い声が聞こえてきた。


 「まったくそなたは、なんと可愛らしいことか」


 そしてまた、くつくつ、と笑う。


「私とそなたは夫婦であろう?」


 お館様のお声が耳元で響く。

 僕はぱっと顔を上げ、そしてまともに彼女の目を見つめてしまった。


「なにを謝ることがある。いま、私はとても嬉しい」


 漆黒の奥にひそむ艶、はじめて目にする、愛する人の色香に、僕は目を奪われる。

 お館様はふと笑みを消された。


「そなたは私の夫。わが唯一に求められることは、わが幸い。私もそなたを求めている。それがわからぬそなたではあるまい」


 僕は痛いほどに胸を締めつけられた。

 応える言葉などない。


 高鳴る胸に急かされるように、僕は、いつのまにか華奢に感じられるようになった愛しい背中を、強く強く抱きしめていた。


         ――換羽期(換毛期)な犬の獣人で毛づくろいする話を書きます。

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