仔犬の章

01

 お館様。


 両手にいっぱいの白詰草を揺らしながら、僕は走った。


 早く。早く。

 すこしでも早く、この可愛らしい花をお館様に見せてさしあげたい。


 どっしりとした構えの門に立つ衛士は、僕の姿を見るとなにも云わずに重たい扉を開けてくれた。

 ぺこ、と頭を下げれば、彼の顔は一気に不機嫌になる。まるで、おまえに親切にしてやるのはおまえのためではない、勘違いするな、とでも云いたそうに。

 僕は彼の表情に気づかなかったふりをして、その場を駆け抜けた。


 お館様。

 お館様はどこにいらっしゃるだろう。


 屋敷のぐるりを囲む庭を走り、お館様のお部屋へと向かう。


 もうそろそろ日も暮れる。

 お仕事は終わられただろうか。


 庭からお部屋を見上げれば、半分開かれた窓の向こうに、ちょうどお館様のうつくしいお姿がある。

 僕はぽうっとなって彼女を見つめる。


 信じられない。

 あの綺麗な人が僕の妻だなんて、いまだに信じられない。


 古くからのしきたりによってめあせられた僕たちは、とても歳が離れている。

 ヒトよりも成長が早いとはいえまだまだ幼い僕と、女王としてこの地を治めるお館様。

 早く大きくなって彼女を支える男になりたいと思ってはいるけれど、時の流れを超えて走ることは誰にもできない。


「おや、旦那様」

 息を弾ませ、しかし妻である人の名さえ呼べずに立ち尽くしていた僕に気づいたのは、お館様の傍付を務められている臣のひとりだ。

 彼の皮肉に満ちた声にお顔を上げられたお館様は、筆を置いて立ち上がった。

 縁側まで出てきて腰をかがめ、やさしい声で僕を呼んでくださる。

 咎めるような傍付の声をなかったもののように、お館様は僕の頭を撫で、半折耳に戯れのように触れる。


「可愛いな」

 掌の心地よさにうっとりしてしまっていた僕は、お館様の声にはっとして顔を上げる。

「可愛らしい白詰草だ。まるでそなたのように」

 すっかり握りしめてしまっていたそれに目を遣り、僕は頬を熱くした。


 幼く、力のない、まるで役立たずの夫を揶揄からかうお言葉ではないとはわかっていても、可愛らしいと云われるのは悲しい。

 大変なお仕事をお手伝いしたい、ご苦労の多いお心をお慰めし、ときにはお支えしたい。

 そんな僕の願いが大それたものだと思い知らされるような気がするからだ。


 現に傍付の頬には僕を嘲笑うような、見下すような厭なゆがみがあって、いまにもお館様をお仕事に戻らせようとしている。

 彼は長らくお館様の側近を務めている。僕が屋敷へやって来る前は、寝所に上がることもあったのだという。

 僕が彼女と結婚したことで伽役から遠ざけられてはいるが、そのことに納得しているわけではない。まるであてつけるようにお館様の髪に触れたり、腰を抱いたりすることもある。

 主人に窘められても、右に左に言葉を流し、自分こそがお館様にふさわしいのだと誇示し続ける。


 厭だ。

 触るな。

 連れて行くな。

 お館様は僕のものだ。

 おまえなんかに絶対渡さない。


 厭な気持ちがぐるぐると渦巻く心に、お館様の声が響いた。


「そんなにきつく握りしめては可愛そうだろう?」

 ほころぶ花のような笑顔が、僕にだけ向けられている。

 慌てて両手を突き出せば、私にか、と笑みが深くなる。

 お館様は僕の耳を指先でやさしくなでながら、もう片方の手を伸ばされた。

 その先が白詰草に触れるか触れないかのところで、傍付が声を上げた。

「お館様、お戯れはそこまでに」

 僕の頭から、ふっと掌が離れていった。


 やさしいぬくもりに見放されたような気持ちになって、僕は深く俯いた。

「戯れもしよう。わが夫が花をくれるというのだ。浮かれるのも道理であろう。見よ、この可愛らしさを」

 お館様の深いお声に、傍付は冷たく答える。

「そのような野草、貴女様にはふさわしくございません」

 目の縁がじわりと熱くなり、僕は唇を噛み締めた。


 ふさわしくない。

 そうだ。彼女にはふさわしくない。

 野に咲く白詰草も。

 短い命しか持たない僕も。


 すでに萎れはじめてきた花を手に、じり、と僕は思わずあとずさった。


 いまは幼い僕の身体は、この先どんどん大きくなる。

 そして、同じ早さで年老いて、お館様よりも早くに死んでしまうのだ。

 賢い頭も持たず、強い体も持たないばかりか、長くともにあることもできない夫。


 傍付が僕を厭うのも無理のないことだ。

 役に立たないだけならばまだしも、おやさしいお館様のお心を煩わせ、悲しませるばかりなのだから。


 尾を垂れ、俯いたままの情けない僕の姿に気がついたお館様は、すぐにまたさっきと同じように腰をかがめ、今度は低い声で囁いてくださる。

「それはどこに咲いていた? 次は、私もともに参ろう。夫のいるところに妻が、妻のいるところに夫もある。夫婦とはそのようなもの」

 顔を上げた僕に、お館様はどこか寂しげなお顔を向けられる。

「そのようにだれかと睦まじく暮らすことが、私の永の願いだった。そなたが叶えてくれたのだ。これからも叶え続けてくれるであろう?」


 僕はまたもやはっとする。

 大事なことを忘れるところだった。


 そうだ。

 お館様は僕のもの。

 そして、僕もまた――。


「はい」


 僕は頷いた。

 迷うことなく、躊躇うことなく頷いた。


 貴女に向かって駆けるしかできないこの身体。

 貴女を想うしかできないこの心。

 貴女に寄り添うしかできないこの命。


 僕のすべては貴女のもの。


 一心に見つめる僕に応え、お館様は心から幸せそうに微笑んでくださった。


             ――ショタな犬の獣人で寿命差に悩む話を書きます。

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