人魚の章
01
はるか遠く、遠く遠くの海の果てから、悠久の唄が聴こえてくる。
長く響く声にあわせ、私は背中を反らせて深くへ潜り、力強く尾鰭をうねらせる。朱を刷くまなざしを遠くへ投げれば、どんな遠くを目指すつもりかという嘲りが追いかけてくる。
少しばかりの煩わしさに、私はつい顔をしかめた。
私はいま、囚われの身の上だ。
海のなかに下された、冷たい檻に閉じ込められている。
ここはとても窮屈で退屈だ。
こうなってしまったのは自分自身の落ち度なので、私は必要以上に落ち込んだりはしない。
鬱陶しくはあるが、いつかは自由になれるのだと、真実を悟っているから。
私を捕らえている彼らは、身も心も弱くて醜い。
鋭い牙も爪も持たず、どれだけ脚の早い者でも、泳ぐ私に追いつけない。発情の朱を刷いた眼差しにすらたじろぐような意気地のなさは、むしろ滑稽ですらある。
本能の獰猛さに怯えるなど、生命のなんたるかさえ、きっとわかっていないのだ。
私は、私を観察する彼らの目の前で、ひときわ優雅に腰を振り、あの子の唄に合わせて水を蹴った。
あの子の声は彼らの耳にも届いているらしい。
「52だ、52が歌っている」
「近くにいるのか」
きいきいと騒々しく言い立てるのにすっかり嫌気が差した私は、海中に仕掛けられている双方向マイクを、尾びれで叩き壊してやった。
ひかる鱗がすこしばかり剥げ落ちたが、つまらないことだ。
訪れた静謐に満足し、私はあの子の唄に身を委ねた。
海のうねりそのもののように途切れることなく続く唄は、この星の生命そのもののようだと私は思う。
仲間たちと交わることのない独特の周波数で唄うあの子を、愚か者たちは孤独だと哀れむ。
可哀想なクジラだなどと、知ったようなことを言う。
愚かだ。本当に愚かだ。
私にはわかる。あの子は孤独を謳歌している。
檻につながれて生きる私が、けれど、真に囚われてはいないように、ひとり大洋を巡るあの子は、けれど、真にひとりではないのだ。
いや、違う。
ひとりだ。孤独だ。
だが、あの子も私も、自分の孤独を愛している。
ああ、いつかここを出て、あの子に会いに行きたい。
会ったところで、私たちは交わしあう言葉を持たない。響きあわせる唄を持たない。
ともに生きるすべなど、もとよりあるはずもない。
目と目を見交わし、そっとすれ違うだけ。
孤独を楽しみ、愛する私たちにふさわしい邂逅。
きっと私はひとり歌うだろう。
あの子と同じ、生きるよろこびを。
長い長い時をわたる者にしか知りえぬ、生きることの意味を。
――婚姻色の出る人魚で監禁される話を書きます。
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