狼の章

01

 五日前の真夜中から同居人となった軍人は、昨日の朝になって、ようやくちゃんと目を覚ました。

 それまでは、うなり声を上げながら眠り、ときどき目を開け、僕が差し出した、縁の欠けた器からぐびぐびと水を飲んではまた眠る、ということを繰り返すばかりだったのだ。


 同居人は控えめに言ってボロボロだった。


 凝った意匠に丁寧な縫製で仕立てられた立派なはずの軍服は、あちこちが裂けたり焦げたりしていたし、もともとは美しい色をしているのであろう肌も髪も、いまは垢じみていた。

 なんとなく嫌な臭いまで漂わせている彼女は、鼻のいい僕にとっては、少々不愉快な同居人だ。


 とはいえ、石と鉄でできた牢にひとりで閉じ込められているよりはずっといい。


 僕はどうにかして、彼女と近づきたいと思った。

 軍属の、しかもいでたちからして高位にありそうな彼女ならば、きっと並以上の魔力を備えている。

 まだ仔狼と言ってもいいくらいに幼い僕では、ひとりでここから逃げ出すことは難しい。

 胸元に焼きつけられてしまったいまいましい奴隷印が定着する前に、どうにかここから逃げ出して仲間のところへ戻りたいたのだけど、そのためには彼女の力が必要だった。


 囚われの身の上同士、手に手を取って逃げ出そうと言えば、きっと頷いてくれるはずだ。


 でも、彼女は眠ってばかりで、ろくに話もできない。


 コツコツと硬い足音が近づいてきて、安っぽい金属音とともに、その日の食事が床に置かれた。

 冷えて油の浮いたスープにガチガチに硬くなったパン。ひどいものだ。

 でも、ないよりはマシだ。

 食べていれば死ぬことはないし、なにより、僕らを捕らえている者の意図が見える。うまい引き取り手が見つかるまでは生かしておこう、という意地汚い意図が。


 僕は食事に駆け寄った。


 パンをスープにひたし、ガツガツと貪る。

 空腹はなによりのスパイスで、腐りかけの野菜と肉を煮ただけの食事でも、不味いなどとは思わない。

 パンが残りふた口にまで減ったところで、同居人がうめき声を上げた。


 どうやら本格的に目が覚めたらしい。


 僕は口にパンを頬張り、スープの器を持って彼女のもとへと戻る。

 薄明かりのなか、淡い色をした瞳が僕を見つめていた。


「食べなよ」


 僕はスープを彼女の傍に置いた。

 カシャンと音を立てた器から汁が飛ぶ。


 おまえは誰だ、と彼女は言った。


「人狼か」


 頭のうえでピクピクしている三角耳と、長い上衣の裾からのぞくモフモフした尻尾を見れば、問うまでもないことだ。

 僕は答えずに、食べなよ、と同じ言葉を繰り返した。

 軍人らしい猜疑心に満ちた眼差しで僕とスープを見遣ったあと、彼女は弱々しい息をついた。


「いらない」


 そして、また眠ろうとする。

 僕は咄嗟に彼女に飛びかかり、そのぽってりと柔らかい唇をこじ開けると、スープを掬った匙を突っ込んだ。

 ゲフッという派手な音とともに僕の顔にスープが飛び散る。


「なにをするか!」


 彼女は怒鳴った。

 喘鳴の混じる情けない声だったが、さっきの吐息よりはずっといい。


「食べなよ。じゃなきゃ死んじゃうよ」


 僕は懲りずに匙を突き出した。

 なかば以上こぼれてしまったスープの残りを見つめ、彼女はほとんど眼差しだけで拒否の意を示した。


「囚われの身となり恥を生きるくらいならば、ここで朽ちるが本望だ」


 はあ、なに血迷ったこと言ってるんだよ、と僕は匙を器に戻し、今度こそ彼女につかみかかる。


「冗談じゃないよ、僕の命綱。こんなところで死ぬのがあんたの望みか」

「命綱」


 彼女は薄く目を開けた。


「なんだ、それは」


 僕は精一杯に声をひそめた。


「あんた、軍人だろ? 魔法、使えるんだろ?」


 彼女は肯定も否定もしなかった。

 僕は勢い込んで続ける。


「一緒に逃げよう」


 彼女は思いきり顔をしかめた。

 もしかしたら、苦笑いをしたのかもしれない。


「この牢には魔封じの呪がかけられている。私の力でも、ここから脱出することは不可能だよ」


 その言い方になぜか僕はひどい苛立ちを覚えた。


「でも」


 僕は声を強め、彼女に据えていた視線を牢番のいるほうへと流した。


「よく見てよ。あいつらも獣だよ。どっちも人じゃない。ここの呪が解けても、あいつらにはわからないんだ」


 獣の血を汲む者は魔力とは無縁だ。

 呪の影響をいっさい受けないため、魔力を頼る人からはおそれられているが、自らが呪を用いることもないので、やり方を変えれば操りやすくもある。


 彼女の瞳に深い叡智の色が宿った。

 なるほど、と笑う声にはさっきよりも張りがある。


「逃げる気になった?」


 僕は彼女の膝のうえに乗ったまま尋ねる。

 彼女はクツクツと笑い、ああ、と頷いた。


「まだチビのくせになかなかの策士なんだな、おまえは。どうせ死ぬなら、おまえを群に帰してやってからでも遅くはないな」

「死なないよ」


 僕は言った。

「一緒に逃げるんだ。だから死なない」


 彼女は大声で笑いたいのを堪えるような表情になった。


「そうだな、そういうことにしておこうか」


 そう呟くゆがんだ唇が、どうしてか僕はたいそう気に入らなかった。

 死なない、死なないったら、とその豊かな髪を引っ掴んでがくがくと揺さぶってやりたいような気持ちになった。


 でも。

 でも、とりあえずいまは少し元気になったように見える彼女にスープを飲ませることのほうが大事だ。


「ほら、飲んで」


 そう言って僕が匙を口元に突きつけると、彼女は目を丸くして、ああ、と笑う。

 そして、薄く唇を開き、匙の先っぽをぺろりと舐めてくれた。


                ――奴隷な狼の獣人で給餌する話を書きます。

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けものの国の 三角くるみ @kurumi_misumi

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