けものの国の

三角くるみ

雪豹の章

01

「残るは、もうおまえひとりよ」


 主人あるじの娘はうつくしくほほえんだ。片手に重たい革袋を下げ、残る手を俺の首に軽く添えて。

 俺はゆっくりと瞬きをしながら、首を横に振った。

 娘は宥めるようになおも笑み、静かな声でひそやかに告げる。

「これが最後の命令」

 娘の指が、俺の首に嵌められた隷属の銀環を探る。長いこと俺を苦しめてきたそれが、刹那、仄かな熱を帯びた。

 娘は呪いに触れながら、主人たる者だけが口にすることのできる解呪の言葉をしずかに唱えた。

 銀環は砂よりも細かい塵となり、風に流れて消えていった。


 さあ、と娘はもう一度ほほえむ。

「これを持って、自由に生きるのよ」

 紐を解いて中を見ずとも、俺は革袋の中身を知っている。金と宝玉、奴隷の身分からの解放を約定する証文。

「さあ、もう行って」


 ほっそりとした指先が、俺の淡灰色と暗褐色のまだらの耳をやさしくなでていく感触に、ふるい記憶がぶわりと蘇る。

 まだ無邪気な幼子であった娘が、俺の胸元の白い被毛につやつやとした頬を埋めたこと。

 長く太い尾にさんざんじゃれつき、挙句、きゅうと抱きついたまま眠ってしまったこと。

 両肩に広がるまだらを数え、まるで星のようだと笑ったこと。


 俺は娘を見つめた。

 娘はほほに笑みを浮かべたまま、なおも革袋を差し出し続ける。

「自由か」

 俺は尋ねた。

「もう金輪際、だれのものにもならなくてよいのか」

 もちろんよ、と娘は答えた。

「好きなところへ行き、好きなように生きて。そして、できるならば好きな人と幸せになって」

 そうか、と俺は頷いた。差し出された革袋を受け取り、じっと見下ろす。

 恨みも憎しみも色褪せるほどに長かった隷属の時は、ありとあらゆるものを俺から奪った。


 首環に縛られ、家族を失った。

 石に囚われ、友を殺された。

 鉄に穿たれ、誇りも心も奪われた。


 最後に残ったのは、おのれのものには決してなりえない、あたたかく、ちいさなぬくもり。


 俺の手を離れた革袋が、ごとりと重たい音を立てた。娘が俺にくれた想いの音色だ。

 娘は怒りにも似た驚きをみせた。

「いったいなにをするの。それはあなたのもの、あなたが受け取るべきもの。持ってゆきなさい」

 全然足りない、と俺は唸った。

「俺の心、俺の誇り、俺の友、俺の家族。すべてを贖うには全然足りない」

「そうね、そうよね」

 娘は弱々しく笑った。

「でもね、ごめんなさい。お金は全部あなたたちに渡してしまった。私にはもうなにも残っていないの。それで、本当にすべてなの」

 家を継ぐため、父を殺し、兄を廃した娘の言葉に嘘はない。

 人に隷属を強いる呪いは、家督を預かる者にしか発現できない。娘は俺たちを、俺を解き放つために、文字どおり、なにもかもをなげうったのだ。


「俺は自由か」

 俺はもう一度尋ねた。

「もちろんよ」

 娘はふたたび答えた。

「ならば俺はどこへでも行けるのだな。どこまでも行けるのだな」

 娘の目蓋が震えながら伏せられる。

 俺は娘に向かい、手を伸ばした。これまでならば、けっして許されることのなかった想いをのせて。


 俺は自由だ。

 どこへでも行ける、どこまでも行ける。

 あなたとともに、この先ずっと。


         ――奴隷な絶滅危惧種の獣人がモフモフされる話を書きます。

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