02
わずかに荒れた白い掌が、俺の被毛をやわやわと撫でている。
銀灰に散る暗褐のまだらをたどる指先は、ありもしない星座を探しているかのようにそのゆくえが定まらない。
「いったいどうした」
俺が唸るように尋ねると、娘は穏やかに笑みながら、ふかふかね、とこどものような答えを寄越した。
旅に暮らす日々にもかかわらず、娘の頬は相変わらず白く無垢に輝いている。掌と同じくかすかに荒れてはいるが、そのうつくしさは少しも損なわれていない。
娘がそのまま口をつぐんでしまうと、彼女と向かい合って話をすることにいまだに慣れない俺は、それ以上なにも云えなくなってしまう。
娘は傍らの旅嚢から、櫛目の粗いブラシを取り出した。黙ったまま俺の腕を取り、肩から続く被毛に丁寧に当てていく。
またか、と俺はなかばあきれて溜息をついた。
季節の変わり目を迎えたいま、俺の被毛は少しでも放っておけばあっというまにぼさぼさになってしまう。
だが、それにしても娘は手をかけすぎだと思う。ひまさえあれば、ブラシを手にしているような具合なのだ。
俺の被毛などどうでもいい、ほかにするべきことが、考えるべきことがあるだろう、と俺は気が気ではない。
旅の暮らしにゆとりはない。
父を殺し、兄を廃して家督を奪った娘は、稀代の悪人として官吏に追われる身の上だ。俺を解放するために彼女が犯した罪は、死をもって贖うにもまだ足りない。
手配書は国のいたるところに出回り、娘の安息はすっかり奪われてしまった。
頭巾と外套に隠れるようにして旅を続けているのは、ひとつところにとどまることができないからだ。
密告と捕縛を怖れてか、街に宿をとることさえ稀だ。
俺は別に構わない。
娘の生家に囚われるまで野に生きていた獣、夏にも氷の張るような冷たい地にあっても食うに困らぬ、雪豹と呼ばれる一族の末裔なのだ。
けれど、娘は違う。
真綿にくるむようにして育てられた、やわらかな肌と純粋な心を持つ、ただのヒトだ。
ヒトは弱い。
すぐに怪我をするし、すぐに病む。
速く走る脚も、鋭い爪も、獲物の肉を裂くための牙も持たない。
なにもできない。
このままこんな暮らしを続けていれば、早晩、娘の身は損なわれ、儚くなってしまうことだろう。
そんなことにはなってほしくない。絶対になってほしくない。
今夜こそきちんと伝えねば、と俺は娘の腰をぐっと掴んだ。
膝立ちになって俺の肩あたりにブラシを当てていた娘は、淡く笑んで首を傾げる。
「どうしたの」
「こんなことはしなくていい」
俺は娘を見つめながら言葉を続けた。
「それよりも先のことを考えよう。山を越えるか。国境を破るか。あるいはいっそ海を渡るか」
息継ぎさえ惜しむように急く俺に、娘はことさらにやわらかく聞こえるような口調で云う。
「そうしたいの」
続く言葉にも躊躇いはない。
「いいわよ、そうしましょう」
「違う、違う」
俺は急いで首を横に振る。
あなたの身の安全を、と云いかけた俺の唇を、娘の指先が押さえた。
かさつくその感触に、俺はいっそ悲しみさえ覚える。
ともにいることがこうして娘の身を削るならば、俺は、俺は――。
感極まって言葉を失った俺に、娘はごく冷たい眼差しを向けた。
「いやよ」
聞き慣れない硬い声が、言葉よりも雄弁に娘の拒絶を物語る。
「おまえは私に、おまえと離れて生きろと、そう云うの? おまえのためになにもかも捨てた私に、おまえまで失えと、そう云うの?」
問いかけながら、娘が俺の二の腕にきつく縋りついてきた。
やわいばかりのはずの爪が硬い皮膚にごく浅い傷をつける。
震えるほどに力の込められた指先を、俺は慌てて掬いあげる。
いけない、とその指先をちいさく吸い、いたわるようになでてやった。綺麗な爪が割れてしまう。
「ごめんなさい」
娘が深くうなだれた。
「好きに生きろと云ったでしょう」
彼女は囁くように言葉を続けた。
「どこへでも行ってと云ったでしょう。生きるべき場所をみつけたなら、進むべき道をみつけたなら、どうか幸せを探しに行ってと。あれは嘘じゃないの。だけど、ひとつ約束してほしいの」
約束、と首を傾げた俺のうなじを、娘の掌がするりとなでた。
「そのときにはどうか、おまえのこの牙で私を噛み裂いてね。おまえのこの爪で、私を引き裂いてね。そうでもしてもらわなければ、私、おまえから離れられそうにないの」
俺は息を飲み、食い入るように娘を見つめた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
するりと伸びた腕が俺の首に絡みついた。
執着そのもののようなその力強さ、その熱、その重みに、俺は自分でも驚くほどに深い充溢を覚える。
娘の傍らこそ、俺が生きるべき場所。
娘とともに歩む道こそ、俺が進むべき道。
ここにある幸いこそ、俺が求めるべきもの。
娘がそのことを理解していたと知り、俺はひどく満足していたのだ。
――換羽期(換毛期)な絶滅危惧種の獣人で執着される話を書きます。
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