04(完)

 腱を切られた脚。声を潰された喉。


 あわれな娘のその姿を見たとき、俺の中に生まれたのは、愛しくてたまらない、という思いだった。

 彼女に苦痛を与えた輩に対する瞋恚も、彼女の運命を捻じ曲げた己に対する嫌悪も、なにもかも凌駕して、俺は娘を愛しく思った。


 歩む道を自らの足で進むことさえできなくなった娘を、腕に抱えあげる。

 不安定な姿勢に耐えかねて、彼女の指が俺のうなじの被毛をつかんだ。


 首すじから肩、胸もとに広がる銀のまだらの散る白は、俺の劣等感でもあり誇りでもある。

 この世界でただひとり、俺の魂に触れることのできる女を抱いて、俺は屋敷の外へと駆け出した。


 火をかけられた館、暴力による支配と搾取、その象徴であった石と鉄の檻は、いままさに焼け落ちようとしている。


 娘は涙ひとつ見せることなく、生まれた家が滅ぶのを見守っていた。

 もっとも泣き声をあげようにも、無残にも潰された喉では、かすれ声すら発することはできないのに違いない。


「そろそろ行くか」

 すべてが燃え尽きる前に踵を返そうとした俺を、指先ひとつで娘は引き止める。

 滅びゆく一族を、決して見忘れまいとばかりに、まばたきもせずに焔を見つめている。


 娘を館に閉じこめていた男、彼女にとって唯一の血縁であった伯父は俺が殺めた。

 爪で引き裂き、牙で噛み裂き、松明の火ではらわたを焼いた。

 屋敷を燃やす焔は、彼の身体から広がったそれだ。


 それでもなお、俺の怒りは治まらない。

 俺を追い詰め、娘を傷つけ、俺と娘を引き離した罪は、どれほどみじめな死をもってしても贖うことはかなわない。


 頬にふと、やわらかくぬるいなにかがふれた。

 娘の掌だった。


 わずかずつではあるが、たしかに、ゆっくりと心が凪いでいく。

 嫌悪も瞋恚も、少しずつ消えていく。

 残ったのは、痛み。

 悲しみを含んだそれは、娘の心に宿るそれと同じなのだと俺にはわかった。


 娘の腕が俺の首にまわされる。


 連れていって、と声が聞こえた。


 ああ、と俺は悟った。

 言霊を繰る一族の、その長にのみ許される力を、娘はいまだその身に宿している。

 声を奪われた娘には、もう使うことのできない祝いと呪いの力は、しかし、なお彼女の身に残されている。


 彼女の伯父はなにを考え、娘にその力を残したのか――。


 その答えを、俺は唐突に悟った。


 男は姪を愛していたのだろう。

 兄と甥を廃した、罪深い娘を憎むのと同じくらい強く。


 娘の脚を傷つけ、妙なる声を潰し、か弱き身を繋ぎ、それでも彼は願っていた。


 いつか、ここを出てゆく日がくるように、と。

 いつか、すべてから自由になる日がくるように、と。


 娘が、自分の人生を豊かなものにしたいと、ふたたび願う日がくるように、と。


 言霊を繰る力は、それだけではなににもならない。

 だが、力があれば叶う望みもあるかもしれない。生きる希望もあるかもしれない。


 男にはもうひとつわかっていたことがある。


 俺のことだ。


 娘に心をとらえられた獣。

 娘の心をとらえた獣。


 己が一族がとらえ、長く虐げた、白銀の毛皮を持つけだものが、いつか娘を取り戻しに来ると、男にはわかっていた。

 そして、そのときが己の最期のときであると、そのこともまたわかっていたはずだ。


 男にとっての娘は、兄と甥の敵。命をもって償わせるにも、まだぬるい。

 その娘は、しかし、同時に姪でもある。ほかに血縁のない身にしてみれば、どうにかして幸いを与えてやりたい。


 相反する思いに、男はさぞ煩悶したことだろう。


 心とはそれほどに複雑で、ややこしく、わかりづらい。


 俺が、俺の身を覆う白銀を誇りに思いながらも、だれにでも見せたいと思うわけではないように。

 娘が血族を疎んじながらも、切り捨てることができなかったように。

 彼もまた、相反するふたつの思いを抱き、そのはざまで苦しんでいた。


 娘の身体を強く抱きしめ、俺は囁く。

「ようやく会えたな」

 娘はなおも俺にしがみつき、何度も何度もうなずいた。


 嫌悪に震え、瞋恚に燃え、愛憎に引き裂かれようとも、俺のうちにはただひとつ決してゆがまぬ思いがある。

 まっすぐで、わかりやすく、だからこそ、とても強い思いだ。


 今度こそ、と俺は云った。


「永遠にともに」

 ええ、永遠に。

「二度と離さぬ」

 ええ、二度と。


 同じ思いを分けあう娘の唇から、かそけき声が紡がれたような気がした。


          ――人間嫌いな絶滅危惧種の獣人で溺愛する話を書きます。

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