03

 夜の森をひたすらに走った。


 折れた枝が腕を刺し、跳ねた石が脛を打ったが、立ち止まることはしなかった。

 不吉にあかるい月の光が、険しい行手と、赤黒く汚れた俺の白銀の毛並を照らしつける。


 自分でもぞっとするようなうなり声がこぼれた。

 それは、この世と己とをつなぐたったひとつの縁を奪われたにしては、ひどく情けないものだった。

 牙と爪とを折られたいま、すべてを諦める悲しみの声と思われても仕方のないほどに。


 娘と俺が暮らしていた粗末な庵に、荒くれ者どもが踏み込んできたのは、けさ早くのことだった。

「ははあ、あるじ様のおおせのとおりだ」

 やつらのひとりが云った。

「本当にケモノと暮らしてやがる」


「主様ですって」


 みるみるうちに蒼白になった娘の肩をひっつかみ、俺はなにかを考えるひまもなくやつらを薙ぎ払って庵を出た。

 まさか俺がいきなりの逃走を図るとは思っていなかったのだろう、七、八人からなる荒くれ者どもとの距離はあっというまに大きくひらいた。


 娘を肩に担ぎ、肺腑と脚の限り、駆けに駆け、森の入口にたどり着く。


 俺の名を呼びながら、ひどく混乱していたらしい娘は、そこでようやくすこしばかり強い声を出した。

「離しなさい。すぐに私を下ろすのです」

 娘はきつい眼差しで俺を睨めつけ、いつかと同じように静かに命じた。

「これを持って、すぐに逃げなさい。十分に離れた土地で売り払い、金を作ったら、船を雇って海を渡るのです」

 ほっそりとした首から外されたのは、娘が母の形見として大事に大事にしていた飾りだった。

「あの者たちはきっと伯父の差し金です。すぐに彼自身が兵を率いてやってくるでしょう。伯父の狙いは私。おまえまで巻き添えになることはありません」

 娘が差し出す飾りを、俺は受け取らなかった。

 いやだ、と絞り出した声は、心の怯えを表すように震えていた。

「永久に傍にと誓ったではないか」


 娘の瞳は揺らがなかった。

「私とおまえは永遠です。ただ、少しのあいだ離れて、またいつか必ず――」


「戯言だ」

 俺は吼えた。

「あなたは俺を置いてここを去り、そしてひとり死ぬ気でいるのだろう」


 娘の頬に笑みが浮かんだ。

「だとすればどうなのです。私はおまえとの誓いをやぶろうとしている。そんな私を、おまえは――」


 誓いをやぶらせはしない。身を縛める呪いは解けたが、心を繋ぐ祝いは消えない。

 俺の思いは、けれど、言葉にはならなかった。


 蹄と剣と法螺の音にかき消されてしまったからだ。


 伯父上、と娘が呟く声に応えるように、探したぞ、と破れ鐘のような声が響いた。

 娘が弑した娘の父の兄、娘にとって唯一の血縁がそこにいた。

 弟と弟の息子を殺めた罪深き姪を捕らえるため、彼は自ら兵を率いて俺たちを追ってきたのだ。


 弟に家督を譲り、軍の高位にあったその男のことを俺はあまりよく知らない。だれに対しても、つねに厳しく、冷たく、気高くある、ということ以外には、ほとんどなにひとつ。


「この者に罪はありません」

 娘が俺を示した。

「だれも傷つけていないし、なにも奪っていない」


「家を傷つけ、おまえを奪った」

 男は冷たく断じた。話をする気はないように思えた。


 娘はじりじりと俺を庇うように動き、男の糾弾を遮ろうとする。

 俺は牙をむき、爪をとがらせた。兵どもがそれぞれに得物を構える。


 男の合図は的確におこなわれた。

 俺が娘の動きに気を取られた隙をつき、兵どもを進ませた。


 襲いくる刃を砕き、躱し、また砕き。

 気づけば娘の背は遠く離れていた。

 しまった、とわれに返ったときにはもう遅い。

 弟の仇、と姪を憎む伯父なる男の手に、娘は落ちてしまっていた。


 俺は猛り狂い、吼え狂った。


 立ちふさがる者どもの四肢を裂き、腸をひきちぎり、血の雨を降らせた。

 白銀の毛から紅がしたたる。


 男は青白い顔を醜く歪ませた。

 ケダモノが、と吐き捨てる声には、侮蔑にさえならぬ冷ややかさがあった。


「娘はおまえに狂わされたのだ」


 殺しても殺しても、兵は次々襲いくる。


 牙は鈍り、爪は折れた。

 俺は少しずつ森の奥へと追われていった。


 男に捕らえられた娘の姿が、――ああ、もう、あんなにも遠い。


 娘の目は伏せられていた。

 なにもかもを覚悟するように、静かな顔をしている。


 俺だけが、ただ俺だけが激昂を抑えきれない。


 ついに娘の姿が樹々の向こうへと消えた。

 俺もとうとう娘に背を向けた。

 背にも腹にも深傷を負って、牙も爪も役には立たぬ。

 疲れた脚に鞭打って、俺は兵を置いて駆け出した。


 なぜだ、なぜだ、と胸のうちにおのれの声がこだまする。


 俺を解き放ち、俺を縛り、俺を言祝ぎ、俺を呪った、最愛の娘。


 なぜ、自ら捕らわれた。

 なぜ、つないだ手を離した。

 なぜ、最後まで俺を――。


 心臓が破裂せんばかりに鼓動し、肺腑が焼けるように痛む。

 追っ手の姿はとうに失せていた。


 ふいに目の前に銀色がひらける。

 満ちた月に照らされた狭い草地だ。

 膝と額をついて、慟哭の声を噛む。


 泣いてはならぬ。

 嘆いてもならぬ。


 呪いも祝いも、結局のところでは信じていなかった娘。

 俺の愛した娘はそういう娘だった。


 告げた愛はいつか終えるもの。

 誓った永遠はいつか失われるもの。


 彼女は自らの言葉を、なにひとつ信じてはいなかったのだ。

 愛も永遠も、信じたのは俺だけだった。


 ああ、それでも――。

 ならば、それでもよい。

 今度は俺が解き放ち、呪う番だ。

 娘を見つけ、取り戻し、彼女の心に刻み込んでやる。

 終えることのない心を、失われることのない絆を、刻み込んでやる。


 そうして俺は、堪えきれずに腹の底の慟哭を野に放った。


   ――縄張り争いに負けた絶滅危惧種の獣人で満月に猛り狂う話を書きます。

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