うさぎの章

01

「なにかと物入りだろ、安くしとくよ」

 威勢よくかけられた声に足を止め、私は色とりどりの生地の山に目を向けた。

 やさしい色あいの綿や毛織を、手に取っては戻し、戻しては取って迷っていると、もうじき産月だろ、何人だい、とふくらんだ腹を指差された。

「ふたりみたいです」

 そう答えると、そうかそうかと目許の皺を深くした店番が、半額にまけといてやろう、と親切を云った。

 これまで地道に蓄えてきた懐にはまだゆとりがあったけれど、この先しばらくは働くことができなくなる。

 私は素直に厚意に甘えることにして、選んだ生地を包んでもらった。


 生地のほかにも食品や生活雑貨を山と抱え、私はゆっくりと市場から離れていく。少しずつ遠ざかる喧騒を背中に聴きながら、入り組んだ路地を進み、やがてちいさな一軒家へとたどり着いた。

 白い壁に赤茶の屋根のその家は、これからふたりのこどもの母親になる私の、新しい住まいだった。


 荷物を下ろし、大きく息を吐いて、ゆっくりと腹をさする。

 産月が迫っているせいか、こどもたちの動きはそれほどでもないが、元気よく蹴ってくることが多く、なかなかに賑やかだ。

 いまも、今日はもうだいぶ暑いね、と話しかけてやれば、ぽこぽことまるで返事代わりのように腹が蹴られた。


 さあ、明るいうちにカーテンをかけてしまおう、と私は腰を下ろす暇もなく窓辺に歩み寄り、置きっ放しにしておいた布を手にして椅子の上によじ登った。

 窓の上に設えられた棒に、布に縫いつけられている輪をくぐらせれば、夏にふさわしい軽い質感のカーテンが完成する。

 爪先立ちになり、精一杯に腕を伸ばして、カーテンを取り付けていく。

 重たい布を抱え、ふらふらとする脚をそのたびに踏ん張りながら、大きな窓は素敵だけど、こういうときは大変ね、などとひとりごちたそのときだった。


 玄関の扉が強く叩かれ、しまった、鍵、と思う間もなくそのまま開かれる。


 低く唸るような声に名を呼ばれ、私は身を竦めた。

 大股に歩み寄ってくるのだろう男からせめて隠れようと、長い耳を伏せて布のなかに顔を埋める。

 男は何度も私の名を呼びながら、とうとうすぐそばまでやってきた。両腕を伸ばせば、私の腰をつかめるほどの距離だ。


「探した」


 いつもまっすぐに伸びていたはずの灰茶の耳はすこしだけ萎れ、薄いシャツ生地に包まれた逞しい胸と肩は荒々しく上下している。浅黒い肌は軽く汗ばみ、なにかに追われてでもいるのかと問い質したくなるほどだ。

「なんでこんな」

 彼は両腕を私の腰に巻きつけ、まるで懇願するように云った。


 愛しいぬくもり、もう二度と抱かれることなどないと思っていたぬくもりに触れ、張り詰めていたものが緩んだのか、私はふらりと足元を崩した。

 慌てる素振りもなく私の身体を支えた彼が、そのままゆっくりとしゃがみこむ。

 気づけば私は、布を抱きしめた状態で椅子の上に下ろされていた。


 漆黒の瞳がじっと私の双眸を覗き込んでくる。

 居心地の悪さに目を逸らそうとするたび、強く名を呼ばれた。


「いつだ」

「来月」

「何人」

「ふたり」

「いつから」

「一昨日から」


 短い問いと答えの応酬は、長くは続かなかった。

 本当に尋ねたいこと、伝えるべきことを避けているのだからあたりまえだ。


 彼は腹の子の父親だ。

 だが、自分が父親であることは知らない。


 男女ともに多情で知られる私たち兎族は、他族のように定まった家族を持つことは珍しい。

 こどもたちは生まれてからしばらくのあいだを除き、すぐに独りで暮らすようになる。やがて誰かと番って子をなすが、その子は母親がひとりで育てる。

 最近は他族の影響を受け、ひとりと永く番う者たちも増えてきたが、そうではない者たちもまだまだ多い。

 ひとりで子を産む母親はごく一般的であるから、市場のおばあがそうだったように、妊婦にはみな親切で、しかし甘やかしたりしない。女の仕事は山ほどあって、暮らしに困ることもない。


 あー、つまりなにが云いたいかといえば、私は長い耳を持つ一族にとってごくごくあたりまえの暮らしをしようとしていただけで、こんなふうにギラギラした目をした男に跪いてほしかったわけではないということだ。

 どこへも行くなとばかりに、強く捕まえられたかったわけではないということだ。


 俺が父親なんだろ、と彼は云った。

「ほかにいるはずない」

 私は抱えた布を強く抱きしめた。

 違う、と云いたかったが、生憎と彼は私の保護者だ。彼が私の初めての、そして唯一の相手であることくらい、当然に把握されている。

「なんで」

 彼は声を潤ませた。


「なんで黙ってた? なんで出て行ったりした?」


 なんでか、なんて決まっているではないか。

 彼のことが好きだからだ。


 彼はもともとただの隣人だった。否、親切な隣人だった。

 独り立ちするにはまだ幼すぎる時分に母を失い、途方に暮れていた私をなにくれとなく助けてくれたやさしい男に、私はいつのまにか、あたりまえのように心を寄せていた。

 兎族の習いとして、あちらこちらで情を散らしていたのであろう彼に、ほかの女と同じように迫ったはずなのに、私はまるで相手にされなかった。

 悲しくて悔しくて、それでも離れられず、ほかの誰かを相手にする気にもなれず、ある夜、私はとうとう彼を襲った。

 馴染みの八百屋からこっそり分けてもらったレタスを食事に混ぜ、彼に食べさせたのだ。

 目論見どおり深く眠り込んだ彼を、私は貪り、愛しみ、受け入れた。

 途中で目を覚ました彼はひどく狼狽えていたようだったけれど、そこは本能に弱い兎族の男だ。いつしか自ら私を捕らえ、穿ち、翻弄した。

 私は満足だった。

 その一夜で子を授かったことはわかったし、それだけで十分だったのだ。

 逞しく賢い彼を求める女は大勢いる。

 ただ隣に住んでいただけの縁で子まで与えてもらえて、私は幸せだ。

 だから、腹が大きくなる前に彼の前から姿を消した。

 やさしい彼が責任を感じたりしないようにと。


「なんでそんな」

 彼は首を振りたくった。

 長い耳がふるふると揺れて、まるで怯えているみたいだった。

 私は可笑しくなって、思わず手を伸ばした。

 絡みついていたカーテン布を退け、私の腰を抱いて腹に顔を埋めた彼は、恨みがましい眼差しを私に向ける。

「笑うな」

 逃げるな、と続けて云った彼の耳はさらに萎れ、私の身体を包むようにくたりと落ちる。


 そんな、と私は途方に暮れた。

「大丈夫です、私はもう小さなこどもじゃない。司書の仕事もあるし、ひとりでなんでもできるんです。あなたのお荷物になったりしないから、安心してください」

 そこで彼が顔を上げた。

「なにを云ってるんだ」

 その瞳はまた強い光を湛えている。

「だって本当に」

「違う」

 きつい調子で遮られて、私は言葉を失った。


「こどもかどうかなんて関係ない。俺はおまえが愛しい」


 叱られるような告白に息を飲めば、どこへも行くな、傍にいろ、と腕の力が強くなる。

 そんなの、じゃあなんで、と意味不明の言葉を並べるうち、泣き出しそうになった私は、唇を噛んで彼を見下ろした。

「バカだなあ」

 私のことなどすべてお見通しの私の男は、そう云いながら長い腕を伸ばして頬をなでてくれる。

「おまえは俺をやさしいやさしいって云うけどさ、ただやさしいだけで好きでもない子の面倒をずっとみたりしないよ」

 向けられるやわらかい笑みに、堪えきれず涙がこぼれた。


              ――老成した兎の獣人で巣作りする話を書きます。

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