猫の章

01

 履き慣れない、まだ硬い靴が高い音を立てる。

 剥き出しの石造りの通路には季節を問わず冷たい風が吹き、そのくせ湿っぽい黴臭さが抜けていくことはない。

 木の器と匙を載せた木の盆を抱え、俺は陰気な隘路を地下牢へと進んでいった。


 いくらも行かないうちに、視界の隅を煌めく光が掠めていく。

 夜目の利く俺には必要のない、つくりものの灯りのことではない。


 うつくしい銀色の耳を立てた、うつくしい公女のことだ。


 粗末な麻の衣を身につけただけの隣国の公女は、鉄紺色の双眸をわずかに伏せ、背筋をまっすぐに伸ばして、彼女を捕らえる格子越しにこちらを向いて座っていた。

 俺は彼女の真向かいにしゃがみこみ、木の盆を床に滑らせる。

 差し込まれた木の盆に一瞥をくれることもなければ、呼吸ひとつ乱すこともない公女に向かって、俺は、なあ、といつもの呼びかけを口にした。


「なあ、聞こえてるんだろ。メシ持ってきたから、食えよ」


 滅亡の憂目に遭ったとはいえ、もとは一国の公主の娘だ。

 お食事でございますよ、などと気取った物云いをすべきなのかもしれないが、俺には俺の心持ちってものがある。

 ぴかぴかの鎧に身を包み、戦場を勇ましく駆ける予定が捕虜の世話とは、というこどもっぽい意趣返しが、それだ。

 けれど、あんな粗野な兵士は遠ざけてくれと、我儘のひとつでも云ってくれはしないかという俺の淡い期待は、いまのところ叶えられそうになかった。

 公女は、まるで自分も石になってしまったかのように、囚われてからずっと口をきかない。


 なあ、と俺はもう一度呼びかけた。

「汁物だけ、ひと口だけでかまわないから、食ってくれねえか」


 ここに囚われてからもう三日。

 公女は牢に湧く地下水以外、なにも口にしていなかった。おまけに、ほとんど身じろぎもしない。

 秋から冬へと移り変わるこの季節、俺たち猫種は換毛期を迎える。

 短毛種と長毛種の違いこそあれ、公女もまたうなじや耳にふわふわとした被毛をたたえていた。

 短毛種の俺たちですら、この季節には被毛の手入れが欠かせない。

 体質によって、手の甲に毛の生えているやつなど、気を抜けば人前でも指先で毛づくろいをしているような有様だ。

 ましてや、うつくしく豊かな被毛を誇る長毛種の公女ともなれば、どれだけ手をかけてもかけすぎるということはないだろうに。

 現に彼女のうつくしい銀色はやわやわともつれ、ところどころ灰色じみてきてしまっている。

 そのことが、俺はなぜだか気にかかって仕方がない。


 理解できぬはずのない言葉にもまるで反応を示さぬ公女の前で、俺はため息をついた。

 同じ習慣を持ち、同じ言葉を話し、なにより同じ種である俺たちが、鉄の柵越し、兵士と虜囚として向きわねばならない理不尽に、悲しみを通り越した怒りを覚える。


 鋼よりも硬いとされる奇跡の鉱石をめぐり、公女の故国と周辺国が戦になったのはわずか半年ほど前のことだ。

 採掘や加工の技術に優れ、ほぼ市場を独占していた公国は、しかし軍事力では他国のいずれにも劣る平和な国家だった。豊かな国であったゆえ、争いとは無縁であったためだ。


 戦はじつにあっけなく決着した。


 公主とその一族は捕らえられ、ひとりずつ引き離されて各国へと囚われた。

 わが国は、国王の何番目かの愛人として、うつくしき公女を手に入れた。


 俺は王に仕える兵のひとりとして、牢に暮らす公女の世話をする役目を仰せつかった。

 こんな役目望んじゃいなかった、と俺は、しゃがみこんでいた足を崩して公女の前に胡座をかいた。無駄と知りつつもなおも、なあ、と声を上げる。

「悔しいよな。なんも悪いことしてねえのに、こんなふうに閉じ込められて、あげく好きでもない男のところへ送られる」

 でもなあ、と縋るように見上げれば、公女は先ほどと同じ姿勢で俺の去るのを待っている。


「悔しいなら食えよ。食って、寝て、再起のときを待てばいい」


 公女はぎょっとしたような顔で俺を見た。

 俺も思わず口許を手で覆った。

 やばい。こんなこと云うつもりじゃなかったのに。

 けれど、口にしてしまえば、それよりほかに、公女に伝えたいことなどないような気がした。

 だから俺はしぴしぴと耳を動かし、しかつめらしく頷いてみせた。

「食え。食って生きろ」

 公女は石のように固まったままだ。

「あんたの家族も国の民も、あんたがみすぼらしく窶れてるさまなんざ見たくないだろうさ。その耳もうなじもちゃんと梳いて、みっともねえ毛玉のねえようにしとけよ」


 公女がせわしなくまばたきを繰り返す。

 その鉄紺の瞳に諦め以外の色が滲んだことを、俺は意外なほど嬉しく思った。

 たとえそれが怒りや恨みだとしても、死を望むよりはずっといい。


 俺はずいと手を伸ばし、皿を載せた盆を公女に捧げるようにして押し出した。


        ――換羽期(換毛期)な猫の獣人で餌付けをする話を書きます。

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