02

 ただいま、の声が虚しく響くがらんとした家に、云いようもないさみしさを感じた。

 このあいだまではたしかにそこにいたはずの、あたたかくてやわらかいものたちが旅立ってしまったあとの、不安にも似たさみしさ。

 私はすっかり癖になってしまったちいさなため息をついて、ランプに灯をいれた。

 ほやり、と部屋のなかが明るくなる。


 胸の奥のさみしさまでが照らし出されてしまったような気がして、私は灯に背を向けた。

 目の奥が熱くなり、私は慌ててめがねをはずす。

 泣いてはだめ。

 泣いてはだめ。

 こらえようとすればするほど、肩先に垂れる耳の先がふるふると震えた。


「帰ったよ」

 声がかけられ、私は自分の我慢が足りなかったことに気づいた。涙をぬぐう私の様子に眉をひそめた彼が、大股で歩み寄ってきたからだ。


「泣いてたのか」


責める口調ではない。

けれど、私が咄嗟に口にしたのは、ごめんなさい、という言葉だった。

「あの子たちが出て行くこと、そんなにいやだったか?」

 彼は私の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「いいえ、違うの」

 私は急いで首を横に振る。


 朝も昼も夜も、ずっと面倒をみてきた愛しいこどもたちが親離れする時期を迎えたことは、たしかにさみしい。

 けれど、こどもたちの成長は私の誇りでもある。


「いやだなんて」

私は云った。

「それならなんで?」

 彼は私の両肩を掴む。たくましい掌はあたたかく、力強く、不覚にも私はまたもや涙を滲ませてしまった。

「なんだ、それならなんだよ? どうしたんだよ?」

 日頃はぴんとしている彼の灰茶の耳が不安そうに揺れる。

「なんでもないの。本当になんでもないのよ」

 すぐにごはんにするね、と取り繕うように重ねれば、そんなのいい、と彼は強く拒み、こっちへおいで、と私の腕を引いた。


 長椅子に私を腰掛けさせ、自分は私の脚を抱えるようにして床に座り込み、彼は私をじっと見上げる。

「云ってごらん。なにがそんなにさみしいの?」

 私はきゅうと唇を引き結んだ。


 云わない。

 云えない。

 このさみしさの理由を云うことはできない。


 そんな私をしばらく見つめていた彼は、ふいにがさごそと自分の服のポケットを探り、やわらかそうな紙にくるまれたなにかを私の膝の上に置いた。

「見てみて」

 訝りながらも開いてみれば、薄い布を幾重にも重ねるようにして丁寧につくられた花のブローチが現れた。

「きれい」

思わずこぼせば、彼はまさに花が咲くような笑みを浮かべた。

「そうだろう。おまえに似合うと思って。襟や鞄に飾るといい。髪につけてもいいらしいぞ」

 ありがとう、と私は云った。

「でも、なんで急に?」

「あのなあ」

 彼は深いため息をついた。

「自分の妻になにかを贈るのに、いちいち理由がいるか?」

 私は困惑して、一度は手にしたブローチを膝の上に戻してしまった。


 妻?

 本当に?

 まだ私のことをそう呼んでくれるの?

 こどもたちはもういないのに?


 思ったことが表情に出たのだろう。彼の顔色が変わった。

「わかったぞ」

 彼はきわめて不機嫌そうに目を細めた。

「おまえ、なにかろくでもないこと考えてるな?」

 さみしさの理由、本当のことを暴かれそうになり、私はおおいに慌てた。

「ろくでもないことじゃないわ」

「ろくでもないことだよ」

 彼は決めつける。そして、またため息をついた。

「まったくおまえは、どうしようもないな。仕事と育児にはガツガツしてるくせに、俺たちのこととなるとなんでそうなるんだか」


 私は唇を噛みしめる。

 だって、それは――、それは仕方のないことだ。


 私は自信がないのだ。

 ずっと好きだった彼を騙すみたいにして情けをもらって、こどもまで授かった。

 一緒に暮らしてもう大丈夫かと思ったけど、やっぱりだめだった。


 私は彼に負い目がある。

 レタスを食べさせ、寝込みを襲ったというのが、それだ。

 やさしい彼は卑怯な私を許してくれたけど、私は私を許せない。


 こどもたちがいたときはよかった。

 過ぎたことなど思い出せないくらい、毎日いろんなことがあったからだ。

 だけど、いまはふたりきり。

 いろんなことを思い出す。


 うしろめたさは私から自信を奪った。

 これから先も彼と一緒にいていいのか、こどもたちが去った日から、私はずっと悩んでいる。


 すっかりうなだれてしまった私に、彼はごくやさしい声で云った。

「ばかだなあ、おまえは。でも、ばかなところもかわいいから、ほんとのことを教えてあげようか」

 顔を上げると、彼が悪戯を白状するときのような笑みを見せる。

「あのとき、俺、おまえがなにをしたのか、ちゃんとわかってた。わかってて食べた。そうかレタスか、この手できたかって、わくわくしてた。どうせ、たいしたことはないだろうってタカくくってたら、すごく眠くなってな」


 彼は伸ばした指先で、私の耳の先をやさしく撫でた。


「気がついたら朝になってて、おまえは消えて、すごくすごく後悔した。死ぬほど後悔した。必死に探して、やっとみつけて、もう大丈夫かって思ってたけど、こうなるとやっぱり後悔するな」

 彼が口をつぐんでしまったので、私は仕方なく問いかける。

「なにをそんなに悔やむことがあるの?」

 間髪入れずに彼は答えた。

「好きだって云えばよかったって」

 私は目を瞬かせる。

「おまえを抱く前に、ちゃんと好きだって云えばよかった。そうすればおまえをこんなふうに泣かせたりしないですんだのにって」


 私はなおもまばたきを繰り返す。

 彼はやさしく続ける。


「おまえは俺のこと、いつまでたっても夫とは呼んでくれない。だんなさまとも呼んでくれない。好きでいてはくれるみたいだけど、なんでそんなに自信がないのかって、それってやっぱり俺のせいだろって。あのときに戻って、全部やり直せたらなって、そういう後悔」


 私の目に、さっきとは違う意味の涙が浮かぶ。とどめようもなく、あふれる。


「一緒にいてもいいの?」

 かろうじて尋ねれば、すぐに答えが返ってくる。

「一緒にいよう」


「ずっと?」

「ずっと」

「好きでいてもいいの?」

「俺も好きだよ」

「もっと好きになっていいの?」

「俺ももっと好きになるよ」

 彼の指が私の髪を梳き、私もまた彼の髪を撫でる。


 ばかみたいな問答は、私の呼吸が落ち着くまで続けられた。


 ぐすぐすと鼻を鳴らす私をあやしていた彼が、不意に、ねえ、と云った。

「おなかがすいたと思わない?」

「すぐになにか作るわ」

 私が答えると、そうじゃなくて、と彼は笑う。

「一緒に作ろうよ」

「一緒に?」


「あ、でも俺、ひとつだけ、おまえに作ってもらいたいものがある。食べたいものがあるんだ。いいかな?」

 なに、と私は首をかしげた。彼が食べたいというのなら、どんなに手の込んだものだって作ってあげる。


「あのときと同じレタス、また食べさせてくれないか。あの味が、どうしても忘れられないんだ」


 私は思わず目を見開いた。

 じわじわと頬が熱くなる。


 恥ずかしさに言葉をなくす私を抱きしめ、彼はやさしい指先をゆるく意地悪く動かした。


       ――大人の魅力にあふれた兎の獣人で毛繕いされる話を書きます。

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