豹の章

01

 ふと目を覚ました私は、首に絆の証が巻きついていることに気がついた。


 喉元で結ばれた絹の先が、寛げたシャツのなか、ささやかなふたつのふくらみのあいだに流れている。

 仮眠を取っていた長椅子のうえに身を起こし、私は幾度も頭を振った。

 こめかみを強く揉み、眉をきつく寄せ、昨夜のことを思い出そうと必死になる。


 深夜に及ぶ残業はいつものことだ。

 私はあまり要領がよくない。

 有能すぎる上司に与えられる仕事はいつも過剰で、四、五日に一度は、こうして執務室に泊まり込まねばならない。その際にはたいていの場合、上司が一緒で、下手をすれば同じ部屋で夜を明かすこともある。


 私はいつも上司に云っている。

 貴方が私につきあってくださる必要はないのです。仕事が終わりきらないのは私が悪いのですから。

 だが、上司が私の言葉を聞き入れてくれたためしはない。

 部下の指導は上役の務め。貴女が執務室に残るのなら、私もまた残るのが道理というもの。


 後方の仕事とはそういうものか、と私は思っていた。

 四月ほど前に異動を命じられるまで、前線で武器を取り、小なりといえど隊を率いていた身には、そのあたりの機微はよくわからない。

 刀剣や銃器の扱いや荒くれ者どもをまとめることには慣れていても、作戦を企図する上司の補佐となると、ほぼまったくの役立たずだ。


 前線へ戻してもらいたい、という要望は、このごく短いあいだに幾度となく申し入れた。

 上司はいつものらりくらりと云い逃れ、決して願いを聞き入れてはくれなかった。


 だから昨夜、私は意を決して、かつての上官に会いに行ったのだった。


「そいつはおまえ、無理ってもんだよ。あいつが許すはずがないない」

 元上官の云う、あいつ、とは、私の現在の上司のことだ。

「なんでですか」

 私は食ってかかった。丸い耳と太い尾、手の甲とうなじに残る被毛まで逆立て、精一杯に抗議した。

「適材適所という言葉を知らないのですか!」

「いや、おまえ」

 元上官はおろおろするばかりだった。あなた自身にどうにかしてくれとは云わない、せめて人事に話をつないでほしい、と食い下がったが、元上官は頷いてくれなかった。

 それどころか、当の上司を呼びつけて、彼に私の身柄を引き渡しさえしたのだ。


 いつになく荒い手つきで私の腕を掴み、なかば引きずるようにして歩く上司は、なにかにひどく腹を立てているようだった。

 それは、まあ、当然といえば当然かもしれない。部下が自分に断りもなく異動を願い出ていたとなれば、おもしろくはあるまい。

 知力はまるで及ばずとも、腕力でならば彼に勝る私だ。本気を出せばふりほどけないことはなかったが、これ以上彼の機嫌を損ねるのは得策ではないと、私は黙って彼についていった。


 連れて行かれた先は執務室だった。

 もとより、われわれにはほかに行くべき先もない。


 私の身体を放るようにして室内に押し込み、正面から向かい合った上官は、見たこともないほどの怒りの気配を纏っていた。

 剣呑な様子に本能からくる警戒心が呼び起こされ、私は尾を逆立てて上司を見据えた。


 私と上司の身の丈はそう変わらない。

 私たちは正面からまともに睨み合い、しかし、ひとことも口をきかなかった。


 しばしのち、上司は私の背後を指差した。

 つられるように振り返ると、書類に埋もれた私の執務机がある。隣には上司のそれ。

 自分に背を向けたままの私に、上司は云った。

「貴女は与えられた仕事を途中で投げ出すような、そんな無責任なひとだったのですか」

 私の中の負けん気に火がともる。

「違います」

「違わないでしょう」

「だから違います」


「違わないなら、なぜ大佐になど会いに行ったのですか!」


 思わず、といった調子で気を荒らげてしまったことを恥じるように、上司の声は低いものに変わった。

「終わっていない仕事が山とあるんですよ。明日の朝までにそれを片づけてください。もちろん私も手伝います」

 

 自分の丸い耳がふるふると震えているのがわかった。

 これは怒りだ。まぎれもない怒り。


 豹種である私の適性は戦闘だ。

 私にとっての戦とは、地図と数値で見るものではなく、血と痛みで知るものだ。

「ですから」

 私は上司を振り返った。

「私を戦地へ戻してくださいと云っているんです。後方で書類を作るより、前線で塹壕を築くほうが、よほど私に向いている」

 そのときの上司の顔をなんと説明したらよいか。


 怒りと悲しみ、やるせなさと失望が入り混じった顔で、彼は私を見た。


 そして、もういいです、と小さく呟いた。

「席に戻り、仕事を続けなさい。私はすこし頭を冷やしてきます」

 それがいいです、と私は答えた。

「朝までには仕上げておきますから」


 上司は深いため息をついて執務室を出ていった。


 そして、話は先ほどへ戻る。


 脇目も振らずに仕事に没頭し、明け方、およそのめどがついた。

 眩暈がするほど疲労していたため、長椅子を借りて仮眠を取った。

 深く眠り込み、目を覚ましてみれば、首に絹のリボンが結ばれていた、というわけだ。


 私は首をかしげた。

 なんだこれは。誰の仕業だ。


 豹種にとって、首を飾ることは番いのあることを意味する。

 仰々しく貴金属で飾る者もいるし、拘束具と見まがうような革のそれを身につける者もいる。

 いずれにしても番いのない私には無縁のものであるはずだ。

 なんだこれは、と私は身に覚えのない絆の証を解こうとして、リボンの先をつまんだ。


 その瞬間、おはよう、と声をかけられ、私は飛び上がった。


 己の身に降りかかった異変に、思ったよりも緊張していたらしい。

 朝陽の差し込む窓を背に、上司がこちらを向いて立っていた。逆光でよくわからないが、どうやら微笑んでいるようだ。

 リボンの先をつまんだまま、私は惚ける。ぽかんと口を開け、上司を見た。


「ああ、それ」

 上司が一歩私に近づいた。

「その色、貴女に似合うんじゃないかなと思いましてね」

 私は上司から目をそらすことができない。

 ごく淡い檸檬は、たしかに私の短い髪や被毛の色をすこし薄めたような色あいで、似合うといえば似合うのかもしれない。

 だが、問題はそんなことではないのだ。

「貴方が、私にこれを?」

 おそるおそる尋ねる声は、われながらずいぶんと細いものだった。

「そうですよ。ほかにだれがいるというのです?」

 上司は晴れやかに笑む。

 いつのまにか歩を進めていた彼は、いまや長椅子の上にへたり込む私のすぐそばにいて、ほとんど真上から私を見下ろしてくる。そして、なにかにおおいに満足したように、ひとり頷いている。


「思ったとおりです。貴女のうつくしい髪やまだらの被毛によく似合う」


「な、なぜこれを、私の首に?」

 情けないことに声が震えた。

「いけませんでしたか?」

 対する上司は落ち着いたものだ。

「結うほど髪の長いわけでもなく、手首にあれば邪魔となるでしょう。ならば、首元に飾るしかありません」


 なんということだ、と私は愕然とした。


 上司は知らないのだ。

 豹種のしきたりを、首元を飾ることの意味を。


 私は迷わずリボンを解こうとした。でも、できなかった。

 上司の手が私の手をごくやんわりと抑えたからだ。


「なぜ解こうとするのです? そのままでいい。貴女にとてもよく似合っている」


 そう云ったときの彼の微笑みが、まんまと敵を陥れたときとまったく同じそれだということに、愚かな私はしばらくのあいだ気づくことができなかった。


           ――発情期な豹の獣人で首輪をつけられる話を書きます。

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