泣かぬ赤鬼 其の一
一
俺が住んでいたのは人里近い山の奥深くだった。山の頂上にある背の高い木に登り、眼下に広がる里を眺めるが好きだった。季節ごとに変わる畑の色、夏に良く熟れた瓜を畑から盗み、親に追いかけられる子らの声、年の暮れに静穏に響く除夜の鐘の音、全てが全て、人でない俺にとっては眩しいものだった。つまりは人に憧れていたのだ。多くの関わりを持ち、助け合いながら生きていくという様は、孤高であることを良しとし、己の力だけで生きてゆくことが美学とされる鬼にとっては到底理解し難く、また興味深く感じた。
一度興味が沸けば、何処までも知りたいと思うのは自身の昔からの性らしく、気が付けば、ほぼ一日中木の上で人里を眺め続ける日々を過ごすということもままあった。
『おおい、緋桐。また人を見てんのか』
その日もいつものように里を眺めていると、ふいに名を呼ばれた。視線を里から木の下に移せば、よく知った青い髪が風に揺られているのが見えた。声の主は呆れたような感心したような表情でこちらを眺めている。木から降りれば、葉や枝に隠れてよく見えなかった形の良い角が見えた。
『まあよく飽きもせずに人間観察が続くもんだ』
『菖蒲、お前も見れば分かる。人は面白い』
『そう言われて何度も見せられたが、 やっぱり俺には理解できん。力もなければ暑さにも寒さにも弱い、おまけに中には仲間同士で騙しあって殺しちまうって話だぜ、俺にはそんな奴らの何処がそんなにいいのかさっぱりだ』
『そういう奴ばかりではないさ』
『変りもんだな』
『そんな俺に付き合うお前も中々変わり者だな』
『はは、それもそうだ。それなら変わり者同士仲良くしようや』
『それがいい』
いい鮎が捕れたんだ、一緒に食おう。そう誘われて、俺は菖蒲と山の奥にある家へと向かった。新芽の香りに雨の匂いが混ざる、梅雨も間近に迫った時期だった。
茅葺き屋根の簡素な家が見える。屋根のあちらこちらから雑草が生え、手入れは最低限にしかされていない。もともと打ち捨てられていた家をこれ幸いと使っているだけの、ただの古い家だ。きちんと直そうにも、俺は直し方を知らない。
中に上がり菖蒲から鮎を受け取る。新鮮らしく、肌は艶々と輝き腹はぷっくりと膨れている。火の準備をしようかと鮎を床に置けば、何処に隠し持っていたのか、したり顔で筍を差し出された。
『それにしても勿体ない、昔はあんなに綺麗な赤色をしていたのに』
鮎を焼く支度をしている最中、唐突に話しかけられ、手を止めて振り返る。菖蒲の視線は俺の髪に向けられていた。元々種族を表す赤色をしていた髪は、随分と昔に人のように黒くならないかと、木の実や草の葉の汁で染めた。染めたはいいものの、黒に染まることはなく、黒というよりかは焼けた栗皮のような色になっていた。
『これは失敗した。そのうち元の髪色に戻るさ』
しげしげと栗皮色に染まった俺の髪を眺めていた菖蒲だったが、不意に鋭い目つきになり髪から俺の瞳へと視線を滑らした。心の深くを覗かれたような、冷たい感触を胸の辺りに感じた。
『なあ、緋桐。お前が人に憧れるのは良くわかる。俺やお前のように色のついた鬼は人の感情から生まれるからな。だがな、自分の本質を忘れてはいけない。お前は赤鬼だ。人の怒りが形になったものだ。お前がいくら月を心に宿しても、それは所詮湖面に浮かんだ月でしかなく、風が吹けばいとも容易く揺れてしまう。俺には見えるぞ。お前の瞳の奥で紅い怒りの炎が揺れているのが。……自身の本質が怒りであること努々忘れるなよ』
合わせられた菖蒲の視線から逃げるように顔を背けた。菖蒲の指摘は事実であるし正しい。正しすぎるほどに。自分がしていることは下手をすれば大きな間違いを起こしかねないものであるとは十分に理解していた。だからこそ、菖蒲の言葉から逃げたのだ。それはすっかり人間に肩入れをしている自分にとっては、痛い忠告でしかなかった。
『分かっている、人と実際に会って話そうなんて思っていないさ』
『そうか、それならいい』
安堵の表情を浮かべた菖蒲を目の端にやり、今日も思ってもいないことを口にする。いつからか俺は嘘をつくのが上手くなっていた。
二
それからの俺の日々は何も変わることはなかった。日の出と共に起き、川の水で顔を洗い、山菜を摘み、肉が欲しければ猪や熊を狩り、魚が欲しければ釣りをする。一通り必要なことが終われば、後は日がな一日中木の上で里を眺める。それで十分だと思っていた。
その日も一日、一通りの仕事を終え、木の上で里を眺めていた。里は先日降った雨の所為で地面がぬかるみ、大小様々な足跡で覆われている。その足跡を付ける足は、歩く度に跳ねた泥が付き、点々と汚れている。
(湖面の月か)
里を見下ろしながら、菖蒲の言葉を復唱する。人と妖、侵してはならない領域がある。例え手を伸ばした先に触れられる世界であったとしても、火傷をしては意味がない。いくら爪を短くしても、この指には人を傷つける鋭い爪しか生えない。こめかみから生える二本の角を折っても本質は変わらない。菖蒲の言っていた通り、このまま遠くから眺め続けるのが一番良いのかもしれない。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
山の木で休んでいた鳥たちが、一斉に飛び立っていくほどの悲鳴が聞こえた。人の子の声だ。慌てて視線を西へ東へと動かせば、山の渓流に小さい影を見つける。親はどうしたと周囲を見渡しても、子供の親らしい人物は見られない。それどころか、今この山に人はあの子供以外一人もいないらしかった。
『くそっ』
里から人を呼ぼうか。いや、人の足では間に合うまい。俺が行くしかないのか。菖蒲に警告されたばかりではあったが、それは見捨てていい理由にはならないだろう。幸い爪は切ったばかりだ、角も隠せば何とかなろう。何で隠す?家に帰る時間はない、そこで自分が籠を背負っていることに気が付いた。空にさえすれば十分に頭を覆い隠しそうな大きさである。中には釣った魚や採取した山菜が入っていたが、迷わずひっくり返し、それらを捨てて空にする。早くせねば子供が危ない。一目散に渓流へと走り出した。
渓流に着くと、激しく水面を叩く音が聞こえた。木の影から様子を見れば、子供が溺れている。先日の雨の所為で川の水量が増え流れも速い。これでは幾ら鬼でも危険だろう。例え上手く辿り着いたとしても、命の危機に晒された人の力は、子供であっても強いと聞く。下手をすれば此方がやられてしまうかもしれない。
(何かいいものはないだろうか)
こうしている間にも子供はさらに川下へと流れて行く。心なしか、先程よりも水を打つ腕の力も弱まった気がした。
ふと自分が身を隠している木に、丈夫そうな蔦が巻き付いているのに気が付く。強く引いても千切れそうな様子はない。子供一人なら十分に耐えてくれそうであった。蔦を引き抜き手繰り寄せる。籠を被り、川を流れる子供よりも少し先で待機し、目の前子供が通過する直前で蔦を放った。
『おい子供!掴まれ!』
籠の所為で声がくぐもったが、何とか聞こえたようで、放たれた蔦に気が付いた子供が腕を伸ばす。運よく流れ着いた蔦がしっかり握られたことを確認して引き上げる。多少川の流れの所為で苦労はしたが、ほどなくして子供は岸に辿り着いた。
岸に辿り着いたはいいが、少年は岸にあがった瞬間、力尽きたようで倒れてしまった。そのまま寝てしまい全く起きる気配がない。呼吸はしているし、体温も特別高くも低くもない。
(さて、如何するか)
このまま置いていってもいいが、こんな山奥いつ人が来るかわからない。下手に人と遭遇し、怪しやつだと言及されては面倒だ。人が来る前に狼や熊がやって来るという可能性も無くはない。かといって、このまま起きるまでここにいるとしても、偶然通りかかった人に見つかって面倒なことになるかもしれない。仕方がない。俺は子供を担いで茅葺屋根の家に戻ることにした。
三
子供を連れて帰り、中に降ろす。濡れた服が気がかりだったが、家に戻る最中に日で大方乾いた。子供の呼吸は安定しており、体温も安定しているこの様子なら日が沈む前には目を覚ますだろう。しかしいくら体温が安定しているとはいっても初夏の川に全身浸かったのだ。起きたときに寒さを感じるかもしれない。火ぐらいは起こしておいてやったほうがいいだろう、囲炉裏に火を起こす準備を始める。いつ目を覚ますかわからない。頭の籠はそのままにしておいた。
囲炉裏に火が付きぱちぱちと木の焼ける音がし始めた頃、子供が目を覚ました。寝起きで意識がはっきりしないのか、開き切らない眼のまま自分が寝かされている床、所々崩れた壁、火のついた囲炉裏の順で部屋を見渡し、ようやく俺の存在に気が付くと、それまでの倍ほど眼を開いて俺の顔を見つめた。一向口を開く様子がないので、仕方なしに子供が感じているらしい疑問に対して返答する。
『籠については触れてくれるな、見せられない訳がある』
自分の考えが読まれたことが恥ずかしいのかそれとも申し訳ないと思ったのか、子供は眉を下げて謝罪をした。そうしてまた口を閉じ、囲炉裏の中で弾ける火に視線を落とした。さて、この子供、川に落ちていた時はまだ七、八ばかりの齢に見えたがこうして見てみると細くはあるが均衡のとれた体、手の節、先程の声の高さからして十は達しているらしい。黒い髪は首の辺りでそろえられており、よく焼けた肌と相まって健康そうに見える。
「なあ、あんた助けてくれたんだろう。ありがとう」
唐突に礼を述べられる。危うく聞き逃してしまうところだったが、なんとか声を拾い少年を見やる。視線は囲炉裏に向けられたまま交わることはない。折った膝を抱える手の指が、とんとんと不規則に膝の頭を叩いている。
『礼はいいが、何故一人で山に、それもこんな日にいたんだ。雨上がりの山は普段以上に危険なのは知っているだろう』
「……筍を探してたんだ」
『筍?』
「あぁ、久しぶりに町から兄ちゃんが帰ってくるから食べさせたくて、筍は兄ちゃんの好物だから」
『だとしても親なり他の大人なり連れてこようとは思わなかったのか』
「親は体弱いし、これ仕事さぼってきたから他の大人なんて連れてこれない。まあ道具も全部流されちまったからもう諦めるしかないけどな」
なるほど、先程から口数が少ないのは筍が探せなくなり不貞腐れていたかららしい。仕事をさぼり、危険を冒してまで一人で山に入ったはいいが、川に落ち何の収穫も無し、というのは同情せざるを得ない。自分も今日、山菜は筍も含め採ったが、先程の騒動の時に全て捨ててきてしまった。今頃はどこかの獣の腹の中にでも入っているだろう。如何したものかと籠の下から顎に指をあてて考える。そして先日菖蒲からもらった筍がまだ大量に余っているのを思い出した。どうせ食べきれないのなら、この子供に貰っていってもらおう。その方が筍にも自身にもいい。持ってきた菖蒲も棄てられるぐらいなら食べる奴が貰った方がいいと言うだろう。
『少し待ってろ』
席を立ち家の裏に回る。気になったらしい子供が後から着いてくる。手入れのされていないせいで、背の高い雑草が蔓延り歩きづらそうに足を上げていた。自分より少し置く遅れて家の裏に着くと、乱雑に置かれた筍を見て、小さく声を漏らし此方をうかがうように見上げてきた。
『好きに持っていけ、俺一人じゃ食べきれんからな』
「ほんとに?!」
それまでの気の落ちようが嘘のように表情を明るくし、目の前に置かれた筍を見下ろす。許可を得ると弾かれたようにしゃがみ込み大きいものをいくつか抱えて立ち上がった。
「ありがとう!これならきっと喜ぶよ」
先程礼を述べたときよりもずっと明るい顔で腕いっぱいに筍を抱える。それだけ持って帰れば二、三日は持とう。そう話せば子供は嬉々とした顔で何度も頷いた。
『そろそろ帰れ、日が沈む』
「そうだな。あんた、色々とありがとうな」
『川のことは偶然だ、筍に至ってはこちらが礼を言いたいくらいだ。……それと、俺がここにいることは誰にも話さないで欲しい』
「あ、あぁ、それはいいけどなんでだ?」
『事情があるんだ』
「よくわかんないけど、あんたがそう言うなら誰にも言わないって約束する」
『頼んだ』
そうして腕に収まりきらないほど抱えた筍を抱えなおして、今日何度目かになる礼を述べると里に向かって歩き出す。数歩進んだ後、何かを思い出したように立ち止まりこちらを振り返った。
「なあ、あんた名前はなんて言うんだ」
『緋桐』
「俺は貫太郎っていうんだ」
『覚えておこう』
照れくさそうに鼻の頭を掻くと、「また来る」と一言残して、今度は振り返ることなく山を下りて行った。山の向こうに荷が落ち掛け、頭の上の空はもう薄紫に染まっている。冬よりも日が落ちるのが遅くなったことをしみじみと感じながら、俺は日が完全に山の向こう側に沈むまで里を見下ろしていた。
四
貫太郎という子供を見送ってからの生活は別段何も変化なく、やはり日の出と共に起き、川の水で顔を洗い、必要なことが終われば後は里を眺めるという日々の繰り返しが続いた。山はもうすっかり夏色に染まっていた。山を包むように香っていた新芽の匂いも和らぎ、今は少し湿度のある土の匂いが山を覆う。里は丁度田に水を引く時期のようで、里を囲うように広がる水田は風が凪ぐと、山と空を水面によく映した。水面を隔てて別の世界が広がっているように見える。その世界では人と妖が友好的に関わりあう世界が広がっているのだろうか。
下らない事を考えた。広がっていようが広がっていなかろうが、自分は此処に生まれてしまったのだからここで生きていくしかないだろう。山の奥に引きこもり、高い木の上から里を眺めるのがお似合いだろう。
がさり
昼餉でも食おうかと木から降りると、丁度向かいの林の影から何かがこちらにやって来る。林の奥は暗く生い茂る草の所為でよく見えない。熊か、猪か、狐か野兎か、よくよく見ようと目を凝らすと林から影が徐々に近づきやがて姿を見せた。
『お前っ……』
「鬼?!」
暗闇から出てきたのは数日前川に落ちた子供、貫太郎だった。生憎今日は角を隠してはいない。しっかりとこめかみから生える二本の角を凝視され、お互い微動だにせず立ち尽くす。しばしの無言の後、貫太郎は弾かれたように走り出した。
『おい、待て』
慌ててあとを追う。このまま里に戻られて自分の存在を吹聴されては面倒だ。あっという間に奥に消えそうになったのを腕を引いて引き留める。
「いてっ」
力加減を間違えた。貫太郎は勢いよく後ろに倒れこみ、そのまま起き上がることなくじっと地面の一点を見つめている。
「……あんた、前に俺を助けた奴だろ」
『だとしたらなんだ』
「鬼は人を襲うって話だ。あんたもそういう鬼なのか」
『そういう気質を持つ鬼の存在しか知られていないだけだろう。多くの鬼は人に何も興味を示さない』
そう言うと、貫太郎は何か重大な決心を考えるような難しい面持ちをして黙り込んでしまった。そのまま無言が過ぎてゆく、このうんともすんとも進まない状況で何とか口をついて出たのは、
『……怖いか、この角が、この鬼が』
という言葉だった。我ながら訳の分からないことを口にしたと思った。人を殺すものとして伝えられているのだから怖いに決まっている。現に逃げられた。それは、やはりこの額から生える角が恐ろしいからなのだろう。だがしかし、山の上から眺めるだけだっただけの存在と、こうして会話ができているという状況に、もしかしたらという淡い期待も確かにあったのだ。
貫太郎は一瞬目を合わせると、ううん、と低く唸りまた再び地面を凝視した。
「そりゃあ、驚いたけど、でもあんたが助けてくれたのは事実だろ。あんたは俺を助けて筍くれた優しい鬼だよ」
地面の一点を見つめていた目と自分の目があった。黒い瞳は二つ角の鬼と、その後ろの青空を丸ごと映している。途端、忌避され、怯えられ、分かり合えるはずも無しという諦めの感情が僅かに和らぎ、自分はあの青空のようにごくごく自然なものであると、ほんの一瞬だけそう感じた。
『そうか、そうなのか』
「そうだろ、今日はあん時の礼を言いに来たんだよ」
高くなり始めた空から雲雀の鳴く声が聞こえる。初めて人の友人ができた良く晴れた日のことだった。
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