雨連れる声

 ここしばらく天気が優れない。もう卯月にもなるというのに風は冷たく、桜の蕾も寒さに開花するのを躊躇しているようだ。そして天気が優れないのと同じ様に私の気分もここ最近あまり優れない。


『────』


 それは雨の降る日にしか聞こえない。とても小さな声。分かるのは、どうやら幼い子供の声であるということだけだった。声の主が少女なのか少年なのかもわからない。始めの内は近所に住む子たちの遊ぶ声だと思っていたのだが、呼ぶ声が遊ぶにしては物悲しく響いているので、周りの人に聞いてみたところ、私だけにしか聞こえないらしい。人の声ではないと分かった時点で出雲に相談したのだが、こちらはこちらで『放っておけ』の一言で片づけられ、こうして雨の日にしか聞こえない声に悩まされているのである。


『──ぅ、──ぃょ──』


 声はまだ聞こえる。相変わらず言っている内容までは聞こえない。耳を塞いでも意味がない。寝てしまおうか、とソファに横になる。今は両親も出かけており家には私しかいない。聞こえるのは雨の降る音と、幼い声。どうせ声だけなのだ。ならば出雲の言う通り、無視をするのが一番いいのかもしれない。延々に続く雨の音に微睡みかけたその時、


『もう、いい、よ』


 耳元で、はっきりと、そう言われた。飛び起きて辺りを見渡す。不意に肩を冷たい風がなぞったが部屋のどこの窓も開いてはいない。もしやと思い玄関に駆けると、鍵をかけたはずの扉が開かれており、春になりきらない冷たい風を室内に運んでいた。


『もう、いい、よ』


 誰もいない玄関の先から声が聞こえる。姿の見えない何かに私は呼ばれているらしい。「もういいよ」と私を遊びに誘う声が酷く寂しそうに聞こえて、私はほぼ無意識に玄関を潜り抜けていた。


 外は霧雨が降っている。気温は低いままで桜の蕾だってちっとも咲く様子は見せない。玄関から私を呼んだ声は相変わらず聞こえてはいるが、もうはっきりとは聞こえず、囁くようなものに戻ってしまった。それでも声が私を呼んでいるようか細い声を辿り続ける。道を一つ曲がり二つ曲がり、信号を幾つも越え、やがて薄暗い林の入り口に辿り着く。入り口には鉄錆てつさびて殆ど字の読めなくなった、立ち入り禁止の看板がかけられ、丈夫そうな紐で人の侵入を防いでいる。声はこの先から聞こえてくるが、流石さすがに立ち入り禁止の看板を越えていくのは気が引けて、気の毒だが諦めようと踵を返すと ぶつり と何かが切れる音がした。振り返り林を見れば、入り口を塞いでいた糸が切られており、まるで私が入るのを待っているかのように薄暗い道がぽっかりと奥に続いていた。


『もう、いい、よ』


 何度目かになる囁きが林の奥から私を呼ぶ。見えない手で手招きをされているような気分だ。どうせここで引き返しても無理に連れてこられるのだろう。なら、自分から向かっていった方が幾分ましだ。靴紐をきつく締めなおして私は林の中に足を踏み入れた。


 林の中は雨という天気も手伝って、まだ昼の二時だというのに夜のように暗い。木々は滴を落とし、下の枯葉を湿らせる。土の濡れた匂いはアスファルトに慣れ親しんだ鼻によく着いた。立ち入り禁止の看板の劣化具合が示す通り、ここはもう随分と人の手が付けられていないらしく、道があったらしいところはほとんど葉で覆われてしまっている。葉の隙間から僅かに覗く道と、囁き続ける声を頼りに私は歩き続けた。


 そういえば、ここは随分と昔に幼い子供が事故で井戸に落ちて亡くなったところであるらしいことを思い出す。私が生まれるずっと昔の話だが、確かまだ五、六歳にも満たない男の子だったような気がする。かくれんぼをしている最中の不慮の事故だったのだそうだ。「もういいよ」と呼ぶ声がもしもその男の子だとしたら、何十年も暗い井戸の底で見つけてもらうのを待っていたのだろうか、ぽっかりと広がるまあるい井戸の穴を見上げ、ひたすらに過ぎてゆく日と月を見つめ、自分だけを置いて過ぎ去ってゆく季節や自由に空を飛ぶ鳥たちを眺め続けたのだろうか。大空を飛び回る鳥に手を伸ばしても触れることすらできず、狭くてじめじめとした穴の中に閉じ込められるのはどんな気分なんだろう。自分の声がもう誰にも届かないと気が付いたとき、どのくらいの恐怖と絶望が胸を覆ったことだろう。果たして、それは幼い男の子に耐えられるものだろか、私だったら到底耐えられない。


 道なき道を歩き続けどのくらい立ったのだろう。ひと際大きな声で呼ぶ声が聞こえ、顔を上げるとそこには苔で覆われた井戸があった。


『もう、いい、よ』


 ついに私は声の元に辿り着いた。


 井戸の底から声がする。寒々しい声がする。雨になる度、体を打つ雨が冷たくて、暗い井戸の底が寂しくて、いつか見つけてもらうのをその日を待っている。井戸に落ちて死んでしまい、そこに縛られた。縛られてしまった、その理由を私は知る由もないけれど。求めているなら、求められているのなら、手を差し出すことは無駄ではないと思う。差し出すその手が空を切るかどうかは、差し出してみないとわからないのだから。


『もう、いい、よ』

「もう大丈夫」


 こんな寂しいかくれんぼはもう終わりにしようよ。


 井戸の中に手を伸ばすと、必然的に井戸を覗き込む体制になる。鼻を何かが腐ったようなつんとした刺激臭を掠めるが、それを振り払うように思い切って手を伸ばす。一層強くなった刺激臭とともに暗闇の中から何かがこちらに伸びてくる。影はまっすぐ私の伸ばした腕に向かい伸びていき、やがて土気色をした腕が私に掌を掴んだ。


「みいつけた」


 私はその手を取って力一杯引っ張った。引いた体は予想していたよりもずっと軽く、勢い余って後ろに揃って倒れこむ。お腹にかかる重さをしっかりと受け止め、大丈夫か問えば、可愛らしい声で大丈夫だと返された。ああ、この声は確かに私を呼んでいたあの声だ。明るい所で見る彼の顔は腕と同じ様に土気色をしていて幼い見た目の割に酷く浮腫んでいる。頭からは到底生きていられないだろう量の血を流し、足はあらぬ方向を向いている。それでも、私は彼が今、ここにいることが、彼の手を掴めたことが嬉しかった。少年は状況を飲み込めていないのか、ぽかんとした表情でこちらを見つめるばかりだ。私はもう一度少年に声をかける。


「みいつけた」


そこでようやく状況を飲み込めたのか、少年のどんぐりのような目がみるみる細くなり、口角が上がっていく。心底嬉しそうな表情をすると、ゆっくりと空を見上げ、


『見つかっちゃたあ。……ここは空が近いねえ』


 と呟いた。口ぶりこそ残念そうだが、それ以上に安堵の表情を浮かべて彼はゆっくりと消えていった。

 穴の中では眺めるばかりだった空に、今ならきっと手が届くだろう。今度はもう、流れる季節は君を置いていかない。



『おかえり、よく帰ってこれたな』


 林を抜けると出雲が番傘を差して待っていた。雨はまだ降り続け、とつりとつり、と傘の端から滴が伝い、彼の足元で跳ねている。


「ほんとは全部知ってた? 」

『いいや、私は何も。ま、お疲れさん』


 空を覆っていた厚い雲は少し薄まり、灰色の奥に薄い青が覗いている。雲というより霧のようになった雲からは、細く柔らかい絹の雨が舞うように降っていて、アスファルトの歩道を濡らしている。もう土が濡れた匂いはしなくなったが、それでもまだ濡れた葉を踏みしめる感触と、葉を打つ雨の音はしっかりと覚えている。歩道の水たまりを揺らす風は暖かく、もうすぐ到来する春の予感を町に残していった。

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