月下に歩
一
闇というものにも種類があるのだろう。不自然に閉じ切られていない箪笥の隙間が感じさせるような恐怖を覚える闇、恐怖とまではいかないが、そこに居るだけで陰鬱な気分になるような闇、特にこんな雲の広がる重苦しい夜はよろしくない。新緑に色付き生命力に溢れた昼間との差が余計に物寂しさを助長させているようだ。今夜は風も穏やかで、自分の呼吸音すらよく聞こえる。規則正しく繰り返される呼吸が自分のものではないような不安を覚え、わざと乱してそれが自分のものであることを確かめたりなどする。やがてそれにも飽きてしまうと、とうとう本当の闇がくる。
私の寝ている箇所から右手に窓があり、いつもなら月が見える。どこかで聞いた話のように短い物語でも聞かせてくれれば少しはこの感情もまぎれるものだとは思うのだけれど、生憎こんな天気では姿どころか声だって届かないだろう。
語ってくれないのなら、せめて自分で見に行きたいものだ。小説の主人公のように不思議な冒険をしてみたい。
我ながら小学生のようなことを願うものだと、少し呆れながら今日も眠りについた。
二
外出した覚えはないが外にいた。
私は夢遊病でも患わっていたかしら、と過去を思い出してもそんなことはない。恰好は寝間着に素足で防寒具らしいものは何一つとして身に着けていなかったが、不思議と寒くはなかった。異様なほどに丁度いいのだ。頬を撫でる風も、素足の裏から伝わるコンクリートの冷たさもまだ夏になりきらない月のものであるとは思えない。朝、寝ぼけて素足で床に足を着けた時の方がよっぽど冷たい。
平衡感覚も怪しかった。平常歩いている時は、重力に引かれる体重を感じるが、今はそれもなく、足は地に着いているはずなのに浮遊しているような感覚。身に覚えのない外出と体の異常に不安を覚え、恐る恐る一歩踏み出してみる。
驚くほど体が軽い、まるで羽のようだとよくある比喩を思い出しながら一歩また一歩と足を踏み出す。そのうち最初に感じていた不安など忘れてしまい、裸足のまま駆けだしていた。今までで一番速く走れている。それどころかクラスの誰よりも、同学年の誰よりも早く走れているのではないのだろうか。あまり運動にいい記憶がない私には正に夢のような体験で──
あれ
今、何か重要なことを思ったような気がする。なんだろう、体が軽くてそれで今までにないくらい早く走れて、それで……。だめだ、思い出せない。もう少しで思い出せそうなのだが。
思い悩んで視線を上げると、そこに高い塀が見えた。日が出ている間なら、猫でも寝ていそうである。
──今ならあそこまで跳べる気がする。
ふとそんなことを思った、ちょっとした好奇心だ。本気でそう思っているわけではない。しかし、今の私はちょっとでもそんなことが出来てしまうかもしれないと思ってしまうほど楽しかったのである。それぐらい体が軽かった。
「それ」
とん、ひとつ軽く地面を蹴る。
「えっ」
軽く蹴ったつもりだったのだが思いのほか高く跳び、本当に塀の上に着地してしまった。まさか本当にできるだなんて思わなくて、決して広いとは言えない塀の幅に思わず足を踏み外しそうになったが、何とかバランスを整える。普段なら絶対に見ることのできない高い景色に、まるでアクション漫画のヒロインのようだと感心する。さて、これはいよいよ現実的ではなくなってきた。いくら何でも超人的な肉体能力を突然手に入れるわけがない。
──なるほど、そういうことかと理解した。
ようはこれは夢なのだ。だから体は羽のように軽いし、自分の身長の倍もある塀の上まで跳ぶことも出来る。明晰夢というのを聞いたことがある。夢であると理解できる夢のことだ。明晰夢ではある程度コツは必要なものの、夢の内容を自由に操作できるらしい。だから、今なら多分壁を通り抜けることも出来るのだろう。
せっかくだからもう少し遊んでいこうか。
そんなことを思い、私は塀の上から飛び降りた。
三
結論から言うとかなり楽しい。夢であるからか体力の減りを感じることもないし、現実ならありえないような超人的な動きだって出来る。しかしどんなものにも飽きというのはくるもので、思いつく限りのことをして、公園のベンチに腰掛け休憩する頃にはもう家に帰ろうという思考になっていた。それに、これに慣れてしまったら夢から覚めた時の落ち込みが怖い。
さあ、もう帰ろう。そう思い公園から出て帰路につこうとし、私の足は一歩も動かなくなった。もう少し正確に言うのならば「動けなかった」のだ。右を見ても左を見ても広がる風景は全く知らないものだったからである。しまった、調子に乗って遠くまで来すぎてしまったらしい。
景色自体はありふれた住宅街。家々が軒を連ね、新緑に染まった街路樹が道を彩る。これが日中見たものであったのならば、その色の鮮やかさに心を打たれたのだろうが、時刻は──正確なところは不明だが──深夜である。つい先ほどまで忘れていたはずの恐怖が再びやってくる。帰路がわからないという不安も手伝い余計に怖い。夜に浮かぶ若葉の緑よりも風に吹かれて鳴る葉音の方が気になってしまう。こちらの様子を伺うかの如く、ひそひそと囁かれているような心地がして思わず後ろを振り向くが、勿論誰もいない。そこには夜の闇が広がっているだけだ。ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、風に鳴る葉の音に、再び身を縮こませた。足の先すら見えない。一寸先は闇とはまさにこのことか。鼻先を掠めるかのように闇が広がっている。しかし、幾ら夜とはいえ闇とはこんなに近いものだったろうか。
いや、違う。本当に一寸の先も見えない。既に足の先を飲み込んでいた闇を、一歩後ろに飛びのいて避けると、ぬかるみに足を取られたかのようにもつれる。尻もちをついて前を見れば、コンクリートを這うように伸びた黒い影が、私に向かったまま静止していた。恐怖の所為か驚きの所為か、それとも単に事態を処理しきれていないだけなのか、私は座ったまま地面に這う闇をしばし見つめていた。漸く事態を飲み込み、立ち上がろうと重心を前に傾けると、静止したままの闇の奥から何かが薄く灯っているのが目に入った。それは所謂鬼火だとか人魂だとか言われるもので、それらは闇の奥に三つ浮かび、不規則に揺れながらゆっくりと、しかし確かに此方に向かってきていた。
「やばい」
怖いだとか、知らない土地だとかそんなことを言っている場合ではなくなった。とにかく此処から逃げなければ。あの影に捕まったら間違いなくまずいことになるだろうということは、本能で理解できた。
躓きながらも地面を蹴って走り出す。すぐそこの曲がり角では右手からきた別の鬼火が眼前に迫り、身を屈めて避け慌てて左に曲がる。家々が立ち並ぶ住宅街。私の背よりも高い塀が道沿いにずらりと伸び、見通しは悪い。鬼火は速さこそなかったが、私の動きを予測しているのか、曲がり角に来る度に鉢合わせてしまい方向転換を繰り返す。
四つか五つの角を曲がり、最後に入ったのは家と家の間にある隙間のような細い路地。そこでとうとう行き止まりになってしまい、引き返すわけにもいかなかった私は外に出してある室外機の横に膝を抱えて隠れるしかなかった。
周りの温度が数度下がったようだ。まだ荒い息を必死で整え、
地面を擦る音がする。ということは鬼火ではない。一体誰なんだと、出ていって確かめたい気もしたが、こんな時間に家の裏を歩くような奴はたとい人間であっても碌な奴じゃないと、更に身を縮こませる。足音は徐々に近づき、私のいる室外機の横で止まる。室外機に手をかける気配がし、上から覗きこまれたようで人の影が私にかかり視界が僅かに暗くなった。「おい」とかけられた声に顔を上げれば、そこには、こめかみから二本の角を生やした鬼が無表情でこちらを見下ろしていた。
私は紅に見下ろされていた。
紅い、目がこちらを見ている。吸い込まれそうな深紅。普通の人であるならば白いはずのところが黒く、また黒いはずであろう瞳は深い紅に染まっている。紅色の中心でうっすらと光る黄金色の色彩はまるで月のようで、紅い美しい鬼だった。草木も眠る丑三つ時に、丸い紅色の炎が
あぁ、喰われてしまうかもしれないと、口の端から覗く鋭い歯を見て思ったが、その思考は次に鬼から発せられた言葉で杞憂であったということが分かった。
『大丈夫か』
はて、どこかで聞いたことのある声だと思ったが、すぐにいつかの半人半妖の奇妙な鬼だということに気が付いた。瞳は勿論、どちらかと言うと茶色だった髪色も、今は紅葉のような色になり、人の時とは随分と変わった雰囲気に気が付くのが遅れてしまった。
「
『妙に元気な鬼火がいると思ったら君だったか、それで何故こんなところに』
「それが私もよく分からなくて、気が付いたら外にいたんです。それよりも」
緋桐さんの後ろに続く路地の奥が青く揺らめいた。鬼火がやってきたのだ。
『邪魔だな』
緋桐さんは近づいてきた鬼火の一体を掴むと、そのまま勢いよく空の彼方に投げ飛ばしてしまった。三体いた鬼火の内一体が消え、二体になった鬼火は突然現れた赤鬼の様子を伺うかのように宙で静止し、緋桐さんは鬼火を睨み付け鬼火と赤鬼は暫く対峙した。
『この娘は違う。帰れ』
低い声で諭され、自分達よりも圧倒的に力のある鬼を前に諦めたのか、それとも単に興味を失っただけなのか鬼火は方向転換して、路地の奥の闇に姿を消していった。鬼火が完全に姿を消し、周囲の安全を確認できたところで。漸く緊張を解いた緋桐さんは私に向き直り何かを探るかのように私を見つめた。
「えっと、何でしょう」
『その様子だと全くわかっていないようだな』
「分かっていないって何がですか」
『今のお前は
「幽体離脱!?」
『あぁ、言い方が難しかったな。肉体から魂だけ離れてしまった状態というか』
「いや、幽体離脱がわからないというわけではなくて。これは夢じゃないんですか」
私が疑問を口にすると、緋桐さんは顎に手をあて、私を見下ろしながら頬を摘まむ。徐々に力が加わり、やがてじんじんとした痛みを感じるようになる。だいぶ手加減はされていると思うのだがそれでも痛い。ということは少なくとも夢ではないのか。しかし、緋桐さんは私を子供扱いしすぎではないだろうか。確かに何百年という月日を生きてきた鬼ならば、数十年しか生きていない小娘など赤子同然だとは思うのだが、これはどうにも、幼児扱いを受けているように感じなくもない。抵抗の意を示そうと頬を摘まむ手を剥がそうとしたとき緋桐さんが再び口を開いた。
『夢なら、鬼火になってうろつくことはないだろうな』
「え、私鬼火に見えるんですか」
『少なくともさっきまではそう見えたな。君だと分かっでからはきちんと人の姿に見えるが』
人の形すら保っていなかったのか、それなら体も軽いはずだ。なんせ肉体を持っていなかったのだから。
『始めは鬼ごっこでもしているのかと思ったが、鬼が三人、追いかけられるのは一人とは可笑しいと思ってな、追って正解だったようだ』
放っておこうかとも思っていたんだがな、と笑えない冗談を言う。もし緋桐さんが来なかったら私はどうなっていたのだろうか。
『その時は晴れて君もこちら側、だったな』
「本当にありがとうございました」
頭を下げて心からのお礼を言う。こんなことになるのなら怪しく思った時点で家に帰るべきだった。それなら出雲もいるし、少なくとも鬼火と命がけの追いかけっこをすることもなかっただろう。自分の浅慮に辟易する。
『もしも君が本当にこちら側に来た時には歓迎しよう』
本当に笑えない冗談を言う鬼だ。いや、表情は一切変わっていない。もしかしたら本気で言っているのだろうか、それはそれで怖いと思う。
「でも何故幽体離脱なんてしてしまったんでしょう」
「さあな、前兆なく突然ということも珍しくない。まして君のような体質の娘ならなおさらだろう。しかし、そうだな。例えば酷く疲れていたとか」
緋桐さんの問いかけに、昨日一日を思い返してみるが、至って普通の平日で体育も無く座学だけであった。寧ろ体力的な面で言えば楽な一日だったとすらいえるだろう。
「いえ、いつも通りの一日でした」
『そうか、なら何処か遠くへ行ってしまいたいと考えたことはなかったか』
そこで私は寝る直前に、冒険をしてみたい。と考えていたことを思い出した。しかし、思ったとしても寝る直前の僅かな時間だし、そう考えたのは今日が初めてというわけではない。今まで何回と考えてきたものが今更になって幽体離脱を引き起こすものなのか。
『それが原因だと断定するつもりはない。単に可能性の一つとして言っているだけだ。それを証明する手も無い。君が違うといえばそうなのかもしれないな』
そういわれてしまえばもう何も言い返すことは出来ず、黙り込むしかあるまい。緋桐さんが帰ろうと提案してくれたが、残念なことにここはまったく知らない土地で家がどの方向にあるのかもわからず、来た道を辿ろうにも、無我夢中だったせいでどこを曲がったのかすらも覚えていない。その旨を伝えると、そんなはずはないというように首を傾げられる。
『君は死んでないんだ。死んでいないのなら、魂は必ず体と繋がっている』
「でもわからないものはわからないんです」
『感で歩けばいい。行くぞ』
立てるか、と心配そうに手を差し出されたのを無視して自分で立ち上がる。立ち上がりだけ少しふらついたが問題ない。一人でも十分歩ける。
「あの、鬼から見れば赤子同然なのかもしれませんが、中学生ですしそんなに心配しなくても大丈夫ですよ。」
それまで眉一つ動かさなかった緋桐さんの表情に初めて動揺の色が浮かぶ。やはり、実年齢より低く見られていたらしい。
『それはすまなかった。俺はてっきり』
「いえ、大丈夫です」
明日から牛乳飲む量増やそうかな。そんなことを思いながら、路地を後にしたのだった。
四
「本当にこっちであっているんでしょうか」
『心配ない、多少遠回りになるか近道になるかの違いなだけで、最後には必ず家に着くはずだ』
深夜の街をゆっくり歩く。一人でないというだけでこんなにも心強いものなのか。余裕がなくて気が付かなかったが、いつの間にか空にかかっていた雲は晴れ、ちらちらと星が瞬いている。しっかりと空を見上げて星を見たのはいつぶりだったか。星座はよくわからないが、少なくともこれが綺麗であるということは私にも理解できる。どこにいてもこの星空は変わらず輝いているのだろう。見る人それぞれに解釈の違いがあるとしても。
「私、冒険したいと思ったんです。小説の主人公みたいに」
瞬く星の美しさに誘発されたのか、長く続く沈黙に耐えかねただけなのか、気が付けば口を開いていた。緋桐さんは私の話を馬鹿にするでも、同調するでもなく黙って聞いている。口を開く気はないらしく、私の話の続きを暗に促しているようであった。
「かけがえのない仲間と出会って、様々な世界や価値観を見てって、楽しそうじゃないですか、確かに私は視える分、少し特殊な日常ですが、それは私にとっては当たり前の日常で、そもそも視えるだけで特殊な力もないし」
そこまで一気に話し、いったん言葉を切る。もう中学生だと主張した口で、こんな願望を話すのは恥ずかしく、からかいの言葉一つでもくれば多少は気が楽なのだが、緋桐さんは尚も黙ったままでやはり口を開らく気はないらしく、私を一瞥した後再び前を向いた。呆れて物も言えないとうようではないらしい。ということだけはわかる。
「今日ちょっとだけ冒険をして思ったんですけど、やっぱり冒険したいな、って憧れは消えません。でも、きっと毎日そんな日だったらいつかそれが日常になってしまって、他の非日常を探し始めてしまうと思うんです。私にとって視えるのは日常だけど、他の多くの人にとってそれは日常ではないでしょう?」
だから、今のままでも悪くないかな。と思うことにしました。私がそう言うと、緋桐さんは初めて相槌を打ち、
『俺にとって、君のその考えはとても好ましいものだ。俺も、君の言う視えるだけの日常が、酷く羨ましいと思うこともあるからな』
「私の日常が?」
『あぁ、君にとっての日常は、俺にとっての非日常だからな』
「半人半妖も十分非日常だとは思いますけど」
『それはもう、俺にとっての日常だからな』
立場が変われば送る日常もまた変わるものだろう、という緋桐さんの意見に私は黙って頷くと、お互いそれ以上話すこともなく、また葉の擦れる音が響く闇が訪れた。
「もっと笑われるかと思いました」
『何故』
「だって幼稚な願望じゃありませんか」
『そんなことはないだろう。誰しも思うことだ。それに例えそれが本当に幼稚臭い願望だとしてもだ、俺にとって中学生なんて赤子と大して変わらない』
成程、それもそうだ。と納得したとところで見覚えのある屋根が見えてきた。少し古い一軒家に薄暗いが、藤沢の表札が見える。
「あ、家だ」
漸く家に帰れたと思ったら、表札の向こうの塀から大きな影が現われた。また危ない妖かと思い身構えれば、影の正体は腕を組んで煙管を加えた出雲であった。駆け寄ろうとしたところっで、緋桐さんの表情が硬くなったような気がして足を止める。少し見ただけではわからないが、よく見ると眼光が鋭くなったような。
『ふむ、一人でないと思ったらお前さんがいたか』
『あんたのところの娘を届けにきた』
緋桐さんの声色は先程までの穏やかさは鳴りを潜め、明らかに怒気を孕み不機嫌が滲んでいた。どうやら私の予想は正解であったらしい。一体何が気に入らないというのか、まだ出雲とは挨拶しか交していないはずだが。
『付喪神の、ひとつ質問してもいいか』
『なんだ?』
『何故助けに来なかった。あんたならわかっていただろう』
どうやら、緋桐さんは出雲が私の危険を察知していながら助けに来なかったらしいと考えているようである。しかし出雲がぎりぎりまで助けないのは今に始まったことではないし、私が浅慮だったことにも原因がある。出雲だけを叱るというのは少し変だし、どちらかと言うと出雲自身を気に入っていない節があるように見える。当の本人はというと緋桐さんの怒りなどどこ吹く風というように、家を囲む塀に体を預けながら、両手を左右に広げ「まさか」とやけに大仰に肩を竦めた。
『頃合いを見て迎えに行こうと思ったが、てんで分からぬ方向に行ってしまったんで困っていたところだ。お送りご苦労様。感謝する』
『食えない奴め』
そう吐き捨てた緋桐さんの瞳は
『人の子は弱い。いい加減に扱うな。君も、むやみやたらと怪異に近づかない方がいいだろう』
そう言うと、役目は果たしたとでも言いたげにさっさと踵を返し、私と歩いていた時よりも随分と速い速度で歩いていく。
「あの」
ぴたり、と足を止めこちらを振り向いた顔はもう怒りを感じない。無表情ではあるものの、元の穏やかな雰囲気である。少し安心して今日ずっと気になっていたことを伝えた。
『何だ』
「藤沢裕子です。私の名前」
『……覚えた』
僅かに口角が上がったように見えたが、すぐに前を向いてしまい気のせいだったかと思う。
ゆっくりと歩く緋色の鬼の背中が、少し白む空の街に溶けていった。
翌朝目が覚めて、足を床につけて立ち上がった時、しっかりとした重さを感じ、あぁ、私の日常に帰って来たのだな、と感じた。今日も私の日常が、しかし誰かにとっての非日常が始まるのだ。窓の外を見るとすっかりと晴れてる。今夜はきっと綺麗な月がこの窓から望めるだろうと考えながら、私は顔を洗おうと部屋を後にしたのだった。
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