相、想う花

 季節外れだと思った。

 師走の夕暮れ、家路を急ぐ景色の中にほんの少しだけ違和感を感じた。例えるなら、知らぬ間に物の配置が少し変わったような。そのぐらい些細な違和感である。違和感の正体を探ろうと足を止めれば、足元に真っ赤な彼岸花が一輪咲いているのを見つける。彼岸花の盛りは長月のはずである。師走の、それも一年の暮れまで咲いているものがあるだろうか。辺りには枯れた葉の茶色ばかりが広がっている。その中に一滴だけ真っ赤なインク落としたように彼岸花は咲いていた。一体どういうことだろうか、不思議に思い、もっとよく見ようと花に指が触れた途端、意識が暗転した。


 満月である。私はもう何度も月を見送った。吹き荒ぶ冷たい風にされるまま、他の者が次々と諦めていく中、それでもなおここに立ち続けているのである。私は誰かを待っている。誰かはわからない。生まれてから一度も会ったことがないのだ。同時に生まれたはずなのに。顔も声も知らない誰かを私は待っている。いや、始めは待っているのではなかった。思っていたのだ。思う行為、それが私を私たらしめる唯一つの行為だったのだ。思い、想い、憶い続ける。頭上を過ぎ去るからすの声を聞き、冷ややかな月の光を浴びながら、私は未だやってこない待ち人をただひたすらに待ち続ける。ひょっとしたら永遠に会えやしないのではないか、という不安には気がつかないふりをしながら。

 遠くから からから と下駄の鳴る音が聞こえた。でも、あなたじゃないの。私が会いたいのは。そんな足音立てやしない。足音は私のすぐ傍で止んだ。どうやら私の真後ろに立ったらしい。


『そいつに憑いてもなにもできやしないぞ』


 かけられる言葉自体は冷たかった。だが声には憐れみが滲んでいる。顔を見なくてもわかる。きっとこの声の主は憐憫れんびんにその眉根を寄せている。その憐れみは私に向けられているのだろうか。

 とん、と背中を押されて私は膝から崩れ落ちた。立てない。私は体の使い方を知らない。地面に突っ伏した私の上から男の声が降ってくる。


『そらみたことか。まともに立つこともできやしないのに、成り替わりなんてできるはずもない』


 頭上から降る声がまるで私をむしばむむあの冷たい雨のようで、思わず耳を塞ぐ。


『無駄だ。やめろ』


 耳を塞いでも変わらず声は降ってきた。ならば口を塞いでやろうと地面に手をつき立ち上がろうとするが膝が震える。力が入らない。無理に立とうとして無様に地面に転がる私を男は静かに見下ろしている。この男は私の邪魔をしようとしている。なんとしてでも退けなければ。私はどうしても会いたいのだ。もはや執念にも近い感情で、なおも立とうと身をよじる私の肩を抑えて、男は私の瞳を覗き込んだ。黒目がやけに小さい三白眼。その小さな黒目に映り込んだ姿は怒りと焦りに震えていた。


『……だがお前さんはそいつに会うことができる。いや、もう会っている』


 男は地面を指差した。指の先を追えばそこには私が狂ってしまうほどに会いたかったあなたの姿。私はあなたの顔も声も知らない。けれど、私の心が、体が、細胞の一つ一つが、これが私の待ち続けていたものなのだ、と訴えかけてくる。

 やっとこの時が来た。今は歓喜に震える体を抑えながら、たまらず地面に口づけを落とす。冬の夜の冷たさが唇を通って伝わる。何年も何年もこの地に立ち続けた思いが今やっと実ったのだ。地面にそっと頬を寄せながら呟く。

『やっと、お会いすることができました』

 また私の意識は暗転した。


 頬を誰かに叩かれている。しかしまぶたは重い。浮上しかけた意識が再び沈みそうになったとき、鼻を摘まれた。


「ふぐぅッ!? 」

『やっと起きたか』


 息苦しさに目を覚ますと、なぜか地面に倒れていた。それから呆れたような顔で私を見下ろしている出雲と目が合う。確か私は学校から帰る途中で彼岸花を見つけて手を伸ばしたはずだ。それからどうなった。暗転してから何かあったはずだがぼんやりとかすみがかかったように記憶がはっきりしない。私の手には干からびた彼岸花が握られていた。だいぶ姿は変わったが、おそらく私が見たのと同じ彼岸花だろう。まだはっきりしない頭で、目の前で煙管を咥えている出雲に尋ねる。


「私、どうなってたの」

『彼岸花に憑かれとったんだ』


 出雲は煙管を懐にしまうと私の手から黙って彼岸花を取りあげた。

 彼岸花はすっかり水気をなくしていて、だらりと出雲の手に寄りかかるようにしな垂れる。すっかり干からびた花を草が茂る場所にそっと置くと 、体のどこにそんな水を含んでいたのだろう。ばしゃりと水になって消えた。


「……いったいどういうことなの?」

『”花は葉を思い、葉は花を思う”』

「え? 」

『彼岸花は花と葉を同時につけることはない。そこから”花は葉を思い、葉は花を思う”として相思花とも呼ばれるのだ』

「じゃあ、あの彼岸花は」

『思う思いが強すぎて怪異になったのだろうな』


 地面には細く鈍い光沢をもつ彼岸花の葉が水を滴らせている。雫が月の光を反射し、その姿が泣いているように見えて私は無性に悲しくなった。


「きっと会えたよね」

『会わせてやっただろう』


 空には満月が綺麗な円を描いて空に浮かんでいた。……おや?確か私が彼岸花に憑かれたのはまだ日の沈む前のはずだ。


「出雲、今何時?」

『亥の上刻』

「わかんないよ」

『今の言い方なら二十一時ぐらいだな』

「うそ……」


 不良少女になりかけている私は、自転車に飛び乗りまだ少し遠い家路を急いだ。家に帰ると無断で遅くまで遊んだと思っている親に酷く叱られた。怪異に巻き込まれてました。などとはもちろん言えるはずもなく、私を叱る母の後ろでにやにやと笑う出雲に腹をたてることしかできなかった。


 次の日、もう一度そこを通ると彼岸花は一輪も咲いておらず、代わりに枯葉の茶色一色だった道に、青々とした彼岸花の葉が日に向かい葉を茂らせているのを見つけた。きっともうあそこでいつまでも葉を待ち続ける彼岸花は二度と現れないだろう。

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