藤と龍

冷たい。だけど優しい。

いびつな形の泡が、私の鼻から、口から漏れると上の揺れる光目指して登って行く。

重たい服の上から何かが這うような感覚がする。それはまず足首を掴みそれから腰まで上がってきた。

立ち上る泡につられるように光に手を伸ばす。私のいるべきはあの光が降り注ぐ元なのだ。

しかしその前に腕を取られた。揺れる光を反射してそれは銀色に輝いている。

ついに私の手が光に届くことはなかった。


ふと目を覚ますと、目の前に知らない景色が広がっていた。庭のようだ。私は縁側に座って誰かの、男性の肩に頭を預けているらしかった。

『目を覚ましたか、少し待っていろ。お前の好きな鮭を貰った。今焼いてくる』

男は倒れないように私を起こすと、静かに立ち去った。

意識がはっきりしない。夢の中にいるようだ。今にも倒れて寝てしまいそうな気分で庭を眺める。どこからか私を呼ぶような声が聞こえた。それはとても小さい。始めは無視をしたが、その声が何度も私を呼んでいるようなで、ついに私は重たい体を引きずりその声の元を探し始めた。


庭は夜のようであった。だが、夜とも違う。空には月も星も無い。濃紺ののっぺりとした空が空間を包んでいた。

風はない。

不気味なくらいの無風である。庭の草花、木々の全てが微塵も揺れずにそこに立っている。これだけたくさんの植物が生い茂っているというのに、そこに生命の息吹のようなものは感じられない。

写真のような風景の中に一つだけ動いているものを見つけた。

池だ。庭の中心にある池の水面がゆらゆらと波紋を立てている。声もどうやらそこから聞こえているようだ。覗くと、見慣れた顔が写っていた。

「出雲!」

夢心地だった意識が急浮上して、思わず声を張ってしまった。慌てて口を押さえて後ろを振り向く。よかった、あの男の人には聞こえていないようだ。もう一度、誰も来ないことを確認して、池に映る出雲に尋ねる。今度は小さな声で。

「私どうなってるの?」

『神隠しに遭っている。詳しい説明は後だ、飛び込め』

「あの人は?」

『馬鹿者、そんなこと気にしとる場合か!』

「でも」

『おい、裕子っ、後ろ!』

『お藤、誰と話をしている』

振り向けば男が立っていた。月も星もない中で姿がはっきりと見える。長い白銀の髪は逆立ち、目は熟れた鬼灯のように紅かった。池の淵に座る私を、見下ろしている。その目は怒りというよりも焦燥や哀しみに近い色をしていた。

『やっと会えたというのに、また消えるつもりか、お藤』

ひび割れるような音を立てて男の目の下に鱗が現れ始める。爪は鋭く伸び、風もないのに青い着物がはためいた。どう見ても人では無い。

『逃すものか』

鱗に覆われた腕が伸ばされたのを見て私は慌てて池に飛び込んだ。


──真っ暗だ。一筋の光さえ差さない。右も左も上下すらもわからない。もっと言えば水の抵抗で思うように体が動かない。死にたくない一心で手足をめちゃくちゃに動かすと突然腕を強く掴まれ、そのまま引き上げられた。


『おい、大丈夫か』

「だ、大丈夫……」

「すまんな、さすがに神の領域までは行けなかった』

出雲が珍しく本気で心配そうな顔をして声をかける。多少水は飲んだが心配するほどではない。荒い息を整えてなんとか立ち上がる。出雲はじっと池を睨んでいた。いつも浮かべられているへらへらとした笑顔はなりを潜めている。池の中心には白銀の龍が佇んでいた。

『お藤よいったいどこへ逃げようというのだ』

暗い鬼灯の瞳が低い角度を持って私を見下ろす。

ここにも風は吹いていない。目の前の美しい龍の怒りに、ひれ伏すかのように全てが止まっている。ただ、細い月と小さな星だけが高い空から静かに成り行きを見守っていた。

『よもや龍神ともあろうお方が恋に溺れて人攫いとは情けない』

『数百年しか生きておらん若造に何がわかる、お藤を返せ!』

吠えるような叫びに止まっていた空気が揺れた。細められていた瞳が今度は見開かれる。揺れた空気が今度は張り詰め、下手に動けばその空気に引き裂かれそうだ。それでも出雲はいつもの高圧的な態度を崩すことなく、むしろ呆れた様子も含んでくるりと煙管を一回転させてからこう言った。

『龍神よ、こいつの名前を一端だけしか知らんようだから教えるが、こいつの真名は”藤沢裕子”だ』

私の名前を聞いた途端、龍神は驚いたような顔をした。目は見開かれたままだが、今は怒りではなく困惑の色を灯している。そうして二、三度頭を振り、水面に映る自分の姿を見て、それから仰ぐように空を見上げた。しばらくそうした後、確かめるようにじっと私を見つめて、諦めたように息をつく。溜息に揺れた水面が儚い。

『そうか、そうだな……。違うのか、悪いことをしたな娘』

薄めた白をすっと細筆で引いたような、そんな細い月が浮かぶ夜。街灯すらまばらな池のほとりでうっすらと輝く白銀の龍。その輝きが、その清廉さが、むしろ悲しみの色に見えた。

『もう何百年もたったのだからなあ……』

再び空を仰ぎ、おそらくお藤に向けてそう呟くと、ふっと溶けるように消えた。

「消えちゃった」

『泉の中に戻ったのだろう』

帰ろうと足を動かすと、目の前に小さな社があることに気がつく。そうだ、確かあそこに近づいた時に池に引きずり込まれたんだった。左を見ると藤の池にまつわる悲恋伝説の説明が書かれた立て札を見つけた。


──何百年も昔、池に住む龍神に恋をした「お藤」という娘がいました。しかし龍神と人間の恋は村人には理解されず、娘は迫害され、悲しみのあまり龍の住む池に身を投げて自害してしまいます。それを機に、この池を囲むように藤の花が咲くようになったのです。──


もしかしなくても、あの龍はこの悲恋伝説の龍なのだろう。これから先も、あの龍は一人であそこに住み続けるのだろうか。結ばれることなくもう死んでしまった女性を思いながら。何百年も。

「ねぇ、あの龍はずっとあのままなのかな」

『いいや、案外そうでもないかもしれんぞ』

「……どういうこと?」

ちょい、と出雲が煙管で指した方を見ると、池の中心、先ほどまで龍がいたあたりにいつのまにか一房、藤の花が浮かんでいるのが見えた。もちろん、藤の花が咲くような季節ではない。藤は吹いた風に少し揺れたかと思うと、波紋も立てずに池の中に吸い込まれるように消えた。

「あれってもしかして」

『お藤、の意思だろうな。……龍神はまだ気がついていないようだが』

「いつか、気付くかな」

『さあな』


家に帰ると母が、私を見て大変驚いた。それもそうだろう。遅くに帰った挙句全身びしょ濡れだったのだから。

なんとか誤解を解いき、シャワーを浴び終えてリビングに行けば夕飯が用意されていた。香ばしい匂いが鼻を掠める。途端にぐう、となるお腹。今日は色々あってすごくお腹が空いた。髪も乾かすのもそこそこに席に着く、今日は鮭の塩焼きだ。並べられた鮭を見て、ふとあの白銀の龍のことを思い出す。

(はやく、気付くといいな)

そんな祈りも込めながら、「いただきます」と手を合わせた。

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