境界線路
一
私が彼女と出会ったのは、巷で「踏切に立つ女」の怪談が流れている頃だった。その日はとても寒く、風も強かった。今にも飛ばされてしまいそうなマフラーを押さえ、駅の向こうにある友の家へと急いでいた。
殆どシャッターの降りている商店街を西へ抜け、短い坂を下った先の公園を右に折れると線路に着く。遮断機は下りていた。
線路の向こう側には背の高いビルやデパート、おしゃれなカフェなどが立ち並んでおり、私はつい先ほど通った、軽快な音楽が付け焼き刃に流れている商店街を思った。まるでこの線路を境に世界が分かれているようだった。
カンカンカン、と少し調子の外れた警音機が鳴り始める。遠くに電車の頭が見えてくると線路の真ん中の空気がぐわり、と歪んだ。歪んだ空気はやがて一人の女性の形をとった。女性は半透明で、体から向こう側の景色が見える。首から上は靄がかかったようで見えないが、ワンピースを着ているので、恐らく女性だろう。季節外れのワンピースは、風が吹いているのにも関わらず一ミリも揺れない。線路の真ん中に、よくできたハリボテのようにじっと立ち電車を見つめている。
電車が線路を走る音が大きくなる。それでも彼女は微動だにせず線路の上に立ち続け、そのまま電車は彼女を通過した。電車が完全に通過すると、そこにはもう彼女の姿はなかった。遮断機が上がった線路を渡る。渡きったところで振り返り、彼女が立っていたところを見る。そこにはもう女性の姿はなく、線路の脇に植えられているまだ花の咲いていない梅の枝が風に揺れていた。
二
踏切を渡るとき、彼女は必ず現れる。晴れていても、曇っていても、雨でも風でも。警音機の音と共に現れては、電車が過ぎると共に消えてゆく。顔はどんな天気であっても靄がかかり見えることはなかった。それからもう一つ分かったことがある。彼女はいつだって公園側から踏切を渡るときしか現れない。
電車に乗って少し遠くへ遊びに行った日の帰り道だ。私は踏切を渡ろうと降りた遮断機の前にいた。警音機の音が鳴り始め、また彼女が現れる。じっと前を向き立っている。
曇っていた空からほんの少しだけ太陽がのぞいた。細い陽の光が僅かに彼女の顔を照らす。そこで初めて彼女の変化に気がついた。首から上の靄が晴れたのだ。突然だった。
泣いていた。光のない目で、迫り来る電車を見つめている。後から後から零れ落ちる涙は地面に染みを残す前に宙に消えていった。
無意識だった。私は自転車を引き倒し、遮断機を飛び越える。
なんで、何度も、どうして、そんなに、悲しいのに。
まだ間に合う、あの手を引かなければ、助けなければ。だってあんなに泣いている。きっと本当は死にたくなんかないのだ。だってあんなに泣いている。
彼女の顔がこちらを向いた。相変わらず目に光はなかっだが、僅かに驚いたように目を開いている。「あ」とでも言っているように口を小さく開きながら。
手を伸ばす。あと数センチで届く。あと数センチで、彼女を掴んでこちらに引き寄せられる。
「えっ」
伸ばした手は肩にかかることなく、虚しく空を切った。彼女にかかるはずだった体重は行き場を失い、そのまま前につんのめる。線路のど真ん中、ちょうど彼女と重なる形で倒れる。はっとして前を向けば電車がすぐ目の前まで迫っていた。警音機が頭の中でガンガンと鳴る。「死ぬ」思わず目を瞑ると、襟首を誰かに強い力で引っ張られた。
『馬鹿者っ!!何やっとるんだ!!』
目を開けると眉間に皺を五本くらい寄せた出雲がいる。私は元いた場所に引き戻されていた。
三
慌てて振り返る、すでに電車は通過しており彼女の姿は消えていた。結局彼女は今日も死んだのだ。本当は望んでいない死を今日も繰り返したのだ。私は何もできなかった。すぐ横にいたのに、泣いていたのに。私は何度も彼女を見殺しにした。
人の死と自分の死の両方を目の当たりにして全身の力が抜けている。立てない。地面にべったりと座ったまま、遮断機の上がった踏切を見つめる。
「どう、すれば、助けられ、たの?」
涙が溢れ出す。喉が引きつって空気を押し出したような声、いや音しか出ない。私の問いに出雲は少し苦しそうに目を細め、何かを言うのを躊躇うかのように口を二、三度開閉させ、一度口を引き結び、それからふっと小さく息をついた。
『優しいだけでは救えない。強いだけでは傷つける。何かを救いたいのなら、優しく強くあれ。私が言えるのはそれだけだ』
諭すわけでも、まして叱るわけでもなく独り言のようにそう呟き、踏切に目を向ける。その目は私に見えない何かを見つめているようだった。
線路の脇、開きかけている梅の花の中、一つだけ固く閉じたままの蕾がやけに目に付いた。
四
それから暫くはあの踏切に近づくことができなかった。また彼女はあの踏切で自分の死を繰り返しているのだろうか。もし、そうだったら私はどんな顔をして会えばいいのだろうか。何度も確かめに行こうと思ったが、行こうとするたびに私の足は重くなり、結局行けずじまいな日々が続いている。私が自責の念に駆られてながら過ごしていると、ある一つの怪談が耳に入ってきた。「踏切で女がお辞儀をする」そんな怪談だ。まさかとは思ったが、あの「踏切に立つ女」と同じ踏切であった。
私は居ても立っても居られず、学校帰りにあの踏切まで自転車を走らせた。今日に限って強風で自転車がなかなか進まない。やっとの事で踏切に着くと、ちょうど警音器が鳴り始めた頃だった。
警音器が鳴り始めて少しして彼女は現れた。ただし、踏切の上ではなくこちら側の遮断機の前にだ。遮断機の前で彼女は光のない目で前を見つめている。電車が過ぎ去り遮断機が上がっても、彼女は立ち続けている。ゆっくり踏切を渡る。完全に渡りきったところで後ろを振り向けば、彼女はこちらを向いていて、深々と一礼するとすっ、と姿を消した。
強い風に乗って、一つ残らず咲いた梅の花の香りが鼻をかすめていった。彼女はもう自殺を繰り返さない。
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