泣く空に犬

雨が降った。

朝から土砂降りで、カッパを着た努力も虚しく学校までの道のりで靴下も制服も絞れば水が出るほどに濡れてしまう人が殆どで、そのままでは風邪をひくからと、その日は体操着にジャージで一日過ごしても良いという先生からのお達しがあり、今日の学校は体育祭でもないのにジャージを着る生徒で溢れていた。

かくいう私もそんなジャージ生徒の一人である。友達と一緒に土砂降りの空を見上げながらお昼を食べている。

因みに今ここに出雲はいない。基本的に私達の行動は別々だ。だから私は普段彼がどこで何をしているのか私は全くと言っていいほど知らない。

「凄い雨だね」

窓を見て感嘆と嘆息が入り混じったように呟く友達につられ、外を見ると鉛色を通り越してほぼ黒に近い色をした空から大粒の雨が後から後から降ってくる。耳を塞いでも聞こえてきそうなほど雨の音は大きく雫はばちばちと窓を叩いては窓を滑る。いつ止むのか、相変わらずばちばちと音を立てて滑る雫をじっと見つめた。友人はそこでふと何かを思い出したように私の方へ振り向いた。

「おばあちゃんが言ってたんだけどね、こういう雨の日は悪いものか出るらしいよ」

悪いものとは何か、そう聞けば困ったように肩をすくませる。肩にかかる程の長さの黒髪がはらりと滑る。雨のせいでいつもより若干乱れている髪は妙に色っぽいような気もして、私にもそんな色気があるのだろうか。と少し思考が逸れた。

「さあ……、お化けとかじゃない?」

お化け、その言葉に一瞬逸れかけた思考が戻ってくる。そして今ここにはいない付喪神の姿を思い出した。彼は今頃どこでなにをしているのだろうか。思えば私は彼のことを煙管の付喪神ということ以外何も知らない。

「あ、裕子ってそういうものが見えるんだったよね?やっぱ雨の日って多いの?」

そうなのだろうか、それほど気にしたことはなかった。言われてみれば確かに多い気もする。はっきりしない返答だが、それでも満足した様子で少しだけ目を輝かせながら彼女はその場で楽しそうにくるりと一回転した。彼女は女性にしては珍しく妖怪だとか幽霊だとかが好きだ。好きという気持ちと知識の量は比例するらしく、彼女の妖などの超常現象についての知識は実際に体験している私よりも遥かに多い。

「やっぱりそうなんだ」

多いのだろうか、そういえば前、出雲に雨の日は外に出るのはよしたほうがいいと言われたことあった。しかし、だとしてもだ。学校はほぼ毎日あるわけで、その忠告を無視せざるを得ないのだが。

今はいない袴姿の彼を思い出し、外をもう一度見ると、暗い窓の外にぼんやりと人型の白い影が見えたような気がした。呆気にとられているうちにみるみるそれは私のよく知る姿を形成した。そこには今しがた思い出していた姿が、険しい顔で佇んでいた。

何と声をかければいいのかわからず、口を開閉させるだけの私に出雲は呟いく。

『気をつけろ、今日は危険だ』

「何が」そう聞く前に激しい雨に溶けるように出雲は姿を消した。

「裕子どうしたの、五時間目始まるよ」

促されて時計を見れば昼休みがちょうど終わったところだった。慌てて五時間目の支度を始める。危険とは一体何のことだろう。

出雲が消えた窓の向こうを見て私は、今日の帰りを憂鬱に思った。


授業も終わり部活も終わった。後は帰るだけ。時間はもう七時をとうに過ぎていて、外は真っ暗だ。雨は相変わらずザアザアと激しく降っている。元から黒かった空は夜の闇も手伝って底がないように見える。街灯の心もとない光だけが道を不安げに照らしていた。

(気をつけろ、今日は危険だ)

出雲の警告が幾度となく繰り返される。結局何が危険なのかははっきりしないままだが、とにかくできる限り早く帰ろうと無い体力を振り絞り自転車を必死に漕ぐ。

くぅん

家に着くまでの最後の曲がり角を曲がったところで聞こえた鳴き声が聞こえた、おそらく犬であろう。それもまだ幼いであろう高い声だ。一刻も早く帰りたい気持ちもあったが、それは小さな命を見捨てていい理由にはならない。自転車を道の脇に止めそっと声が聞こえた茂みに寄る。そういえば雨が遠い、カッパに打ち付けられる雨の音もいつの間にか静かになっている。

『#名前#っ!やめろっ!』

かけられた声にはっとした時にはもう茂みを掻き分けて見つけたところだった。

雨に濡れた子犬の死体を。


気がつけば黒い犬の形をした何かに押し倒されていた。ただ、犬と呼ぶには余りにも禍々しくおぞましいものだった。

『サミシイ』

ぽつりと、呟かれた言葉は私に向けられたものだったのだろうか。

途端に頭に流れる映像。一つじゃない、たくさんの犬の記憶、体が不自由で捨てられた子、虐待を受けた子、訳も分からず置いてかれた子。

『サミシイ、クライ、ドウシテ、カゾク』

途切れ途切れに呟かれるのは切望と絶望が入り混じったものだった。あぁ、この子たちは可哀想な子なのだ、 一人ぼっちなのだ。この暗く冷たい雨の中、自分のご主人を探し回っているのだ。

『カゾク、ホシイ、アナタハ、ボクノ、カゾク?」

わたしは……

『応えるなよ。裕子』

家族だよ、そう言おうとした途端に出雲に遮られる、それでもなお声を出そうとするが何かがつっかえた様に声が詰まる。

『答えれば最後、こいつらと同じになる。しかし応えさえしなければやがてこいつらは消える』

ぐっと口を噤む、凄く可哀想で、助けたい。だが私はその術を知らない。だから私は私の身を守るしかない。その間にも紡がれる家族を求める声。

『サミシイ、クライ、カゾク、コワイ、ヒトリツライ、アメ、ツメタイ、カエリタイノニドウシテ、ドウシテ、ドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテヒトリニシナイデッッ!!!!』

最後に一際大きな声で泣くと黒い犬は消えた。

ぼうっとその場に立ちすくみ出雲に聞く

「あの犬は何?」

『泣犬だ、酷い雨の日に現れる』

「助けられないの?」

『無理だ、あれはそういう妖なのだから』

「どうして私を助けてくれなかったの?」

『それも無理だな、先ほども言ったがあれはああいう妖なのだ。小豆洗いが小豆を研がなければならんように、豆腐小僧がカビの生える豆腐を食わせなければいけんようにあれはああしなければ存在出来んのだ。ああするのが義務だともいえるな、ともかく妖が妖であるために必要な行為に無闇に手を出すのは理に反する。妖にも妖なりに守らなければならない規則があるのさ、それに直接助けられずとも泣犬は質問に応えさえしなければ消える。私はそれを教えてやったではないか』

それでもなお納得できないと顔をしかめれば、怒りと呆れが混じった声が聞こえてきた。

『……なあ裕子、お前がどれだけ私に怒りをぶつけようが構わんが、泣犬を生み出したのは間違いなく人間なんだ。お前たち人間が他の生命を無下に扱うからああいうものが生まれる。人間の勝手な行為で泣犬達は生まれるのだ。そしてあのような生い立ちの妖は何も泣犬だけではない』

出雲が珍しく怒ったように話すので私は何も言い返せなくなってしまった。

『さあ、つかれたろう。もう帰ろう、家はすぐそこだ』

いつもの声色に戻った出雲に少しだけ安心しながら私は帰路に着いた。雨はいつの間にか止み、雲の隙間から少しだけ星が見える。泣犬はまた雨の日に新しい家族を探して現れるのだろうか。あの禍々しくも悲しい妖を思い少しだけ涙が出た。

くぅん、と遠くで悲しげな犬の鳴き声が聞こえた。

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