泣かぬ赤鬼 其の四

 それからしばらく、私は彼の家に住むことにしました。復讐心と、行く当てがないという妥協と、それから初めて会ったあの夜から、私は彼に一種の同情ともいえる感情を抱いていたのです。なんとなく、彼は可哀想な人なのだと思いました。それも私と似た種類の孤独を抱えていると、そう思ったのです。……もしかしたら復讐心も妥協もただの言い訳でしかなく、初めから同情心と親近感しかなかったのかもしれません。事実、私は家に住まわせて頂いていた間、一度も彼に牙を向けたことがありませんでしたから。


 彼との生活はとても穏やかな物でした。朝起きて、気ままに野山を駆け回り、帰り眠る。それは山で家族と生活していた頃と殆ど変わらぬ生活でした。家が穴から茅葺屋根の粗末な家に変わったことと、その家には家族敵の男がいること以外は。

 男には女房がいました。子供はおりませんでしたが、近所の人が羨むほどの仲睦まじい夫婦のようでありました。幼さはあるが優しい夫に、口数は少ないが穏やかで器量の良い妻。妻は決まった時間に朝餉と夕餉を私に出してくれました。私が差し出された皿の中のものを食べている間中、ずっと背をさする手は、夫のするそれとよく似ていました。どこまでも二人は夫婦だったのです。優しい二人に拾われて、何不自由なく穏やかに生活していた私でございましたが、獣も人も同じか、満たされると次を欲してしまうようでございます。

 男はことあるごとに妻の頭を撫でる癖がありました。作ったご飯が美味かった、美しい花が咲いていた、綺麗な簪を買ったんだ。何かと理由をつけては妻の頭を撫でる男の顔は幸せそのもので、妻も照れはしますが乗せられた手を退けることもなく、自分に注がれる愛情を快く享受しているようでした。

 なんと甘い時間でありましょうか、初めのうちは微笑ましく見ていたものが、段々と疎ましく、妬ましく思えてきたのでございます。私を撫でる手よりも優しく、女の髪を撫でる。その手つきには私は決して向けられない特別な感情が篭っている。


 妬ましい


 愚かにも、私は家族の敵である男に恋慕の情を抱いていたのです。気が付いたからと言って何が出来るわけでもございません。私はただ黙って、心に蓋をして静かに過ごす他ないのです。獣と人、どうして結ばれることがありましょうか、まして相手には愛する人がいるのです。


 しかし転機というのは唐突に訪れるものです。─そのそれが良いものか悪いものかはまた別の話ではありますが──私はある晩、家をそっと抜け出し、あの泉に向かいました。あれから何日もたっていますが、にわかに自身が化生のモノに成ったとは信じられなかったのです。


 空に鏡のように丸い月が浮かぶ晩でした。そういえば、自分が化成のものに成ったと知ったあの夜も、こんな丸い月が出ていました。辺りは相変わらず静かで、虫の声ひとつとして聞こえません。風すら止み、狐の踏む草の茎が折れる音だけが木霊するだけ。泉に浮かぶ月に腕を伸ばすと、やはり ふい と月は向こう側に行ってしまうのでした。


 その時です、がさりと草の根を乱雑に踏む音が聞こえました。咄嗟に近くの茂みに身を潜め、闇夜に目を凝らします。すると自分のいるところから少し先の木々の間から、のそり のそり と重そうに足を引きずる老人が現れ、泉の近くの岩に腰を下ろしました。老人はこちらに気がついているらしく、私の潜む茂みを真っ直ぐ見つめてきます。

「そんなに警戒して隠れんでもよい、儂は別にお前さんを取って食ったりはせん」

居場所を知られしまってはもう隠れる意味がございません。私はそっと老人の足元まで近寄り、疑問を口にしました。

 ──お名前は?

「名乗るもんでもありゃせんよ、言うなれば術師、というところかね」

 ──術師

「あんた、欲しい物があるのかい」

唐突に告げられた言葉に、どう返答すればよいものか迷いました。まさか人間の男を好きになった、などとは口が裂けても言えません。言ったところで笑われるだけでしょう。しどろもどろなんと誤魔化せばよいのか模索していると、年老いた術師はお見通しとばかりに地面を蹴り、

「人も妖も、強い欲があるときは同じような目をするもんさ、今のあんたみたいなね」

と言うのです。この方に今の不安定な感情で何を言おうとも、恐らくは暴かれてしまうのだろう。ならば、暴かれる前に此方から曝け出してしまった方がまだましだ。そう思い、私は吐き出すように自分の望みを呟きました。

──人間の男を好いたのです

術師は笑うでも、此方の話を真剣に聞いている様子でもなく、鼻を軽く鳴らすと薄汚れた着物の懐を弄り始めました。

「あんたに一つ、これをやろう」

 術師が懐から小さな包みを出すと、その包みを地面に置き、同じように懐から取り出した火打ち石で火をつけました。暗い闇夜でほうほうと燃える紙は、嗅いだことのない焦げた嫌な匂いがしました。完全に紙が燃え尽き、地面に僅かな灰の小山ができると、術師はその灰を一つまみして、腰に下げていた竹筒の中へとその灰を落とし、私に向かって差し出しました。

「今燃やした紙には、とある呪いを受けたものの髪がいれておった」

 ──呪い?

「半日だけ人になる呪いじゃよ」

分かりやすく動く私の耳を認めると、静かに術師は続けます。

「呪い、と言っても中途半端なものでな、妖の弱体化のために編み出されたものの失敗作じゃ」

 ──何故それを私に

「あんたが望むものは人に成れば手に入れられるんじゃないのかい」

 ──人に、成れば

「ただし、これを飲めば、半日は人として暮らせるが、日が沈めば元に戻る。寿命も、妖の時のままじゃ、それでもいいのか」

──いいでしょう、私は既に世界から避けられている身です。これ以上孤独を感じることもありません

「そうかい、一応伝えておこう。呪いを解く方法は二つ。一つは妖としての寿命を全うすること、もうひとつは自身の体の一部譲渡。この髪のようにな」

もうその時は話半分で聞いていました。私は既に差し出された竹筒を倒し、中の水を飲んでいたのですから。目の前の、僅かな望みに縋りつくその一心だったのです。

「さあ、もういいだろう。あとは好きにしなさい」

 術師の言葉もろくに聞かず私は駆けだしました。やがて日は昇り、私の姿は一匹の狐から一人の女性へと変わりました。慣れない二足歩行にあちこちぶつけましたがそんなことはどうでもよかったのです。一日の半分だけとはいえ人になることができたのですから、少なくとも日中はなんのしがらみも無く、人としてあの人を愛することができる。女房は噛み殺してやろう。そうして、私が代わりの妻になろう。息も切れ切れにあの人の家に辿り着き、家から少し離れた茂みの中から中の様子を伺うと女房が家の中を掃除しているところでした。しばらく眺めますと仕事の休憩らしいあの人がやってきて女に労わりの言葉を投げかけ、また頭を撫でます。遠くて良く聞こえませんでしたが、山間から降る日差しが二人を包みこんでいるのを見ると、兎に角二人は幸せであるということは伝わりました。唯一人叢の影から見つめるだかけの私に何ができるというのでしょうか、愛しいあの人から今の幸せを奪えるでしょうか、奪ったとして、私が女房の代わりになれるでしょうか。今よりも幸せな時間を築けるでしょうか。いいえ、そんなわけがございません。あの二人は、私が知らない時を経てきたのでございます。それは私が取って代わってすぐに埋めてしまえるようななものではございません。私は妖に成り、有り余る時間を手に入れましたが、心の時間というのは物理的に流れゆく時間よりも遥かに複雑なものでございます。


 気が付けば私は家とは反対方向に駆けだしていました。人の姿で彼の家に帰るわけにもいかず、獣の姿で傍にいるには、感情は膨らみすぎた。胸は針が刺さったように痛むのに、膨らんだ感情は一向に萎むことはありませんでした。遮二無二に走り続け、ふと我に返った時、私は何処ともわからない橋の上におり、日は沈み月がゆっくりと山の向こうから顔を出してくるところでした。

 橋の上から川面に姿を映しますと、そこには一匹の薄汚い雌の子狐が寂しそうにこちらを覗いています。私は一体何をしているのでしょうか、家族を失い、人に恋慕し、呪いを受け、結果手に入ったのは人とも妖ともつかないこの身。あまりも不甲斐ない自分に嫌気がさし、胸の内に何かがあふれ出しそうになりましたが、それは胸の内に完全に広がる前に無理に押し返されるように収縮し、代わりに言いようのない虚無感が胸を覆いました。そうして私は、やっと自分が怒りの感情を失ったことを理解したのでございます。どうにもできないもどかしさに一つ鳴きましたが、月は高い位置から悠然と私を見下ろすだけで私の声に答えることはありませんでした。


 そうして私は幾年を経てきたのでございます。


──これが私の生い立ちでございます

 そう締めくくると狐はこちらに向き直り、懐から小さな竹筒を取り出した。

『この中には、私の髪を燃した灰を混ぜた水が入っております。これを飲めば緋桐様は私と同じ呪いをその身に受けることができるでしょう』 

『何故そうまでして俺を人にさせたがる』

『単に疲れたのです。妖の身には人の生は儚すぎた。私はもう十分でございます。……これは願いを叶える奇跡の術ではございません。元は妖の弱体化を図るための呪い、その失敗作でございます。呪いを受けると、日の出ているうちは人になり、日が沈むとともに妖の姿に戻ります。それだけではございません。この呪いを受けると最も大切にしている感情の一つが喪失いたします』

『感情の喪失』

『副作用のようなものでございます。どの感情がなくなるのかは私にもわかりません。私は怒りの感情を失いました』

 嘗ての自分の願いを呪いという形で叶える。呪いならば自分に課する罰にも丁度いいだろう。差し出された竹筒の栓を抜き一息に煽る。灰の混ざった、少々苦い味のする水が喉を降りる。これが呪いの味か。喉を降り、胃に落ち、四肢に広がるのを感じ、最後の一滴まで飲み干して前を見ると狐の体が灰になり舞っていくところだった。

『妖の身では、人の生は儚すぎました。しかし、それと同時に愛おしくもあったのです』 


 ──舞い散る桜のように、儚く美しい人生でした


 狐が月を仰ぎ見ると、弾けるように体が散ってゆく。生まれた銀の灰は月明かりを受け、風に吹かれ濃紺に溶けていく。闇夜に己が最期の花弁、その一片を見送る桜のようだ。最後は金色の瞳だけが二つ残り、名残り惜しそうにゆっくりと瞼を下ろし辺りは再び濃紺に包まれた。

 散々な生い立ちだったはずの狐が、何故最期に己が人生を美しいと言ったのか、それはわからない。しかし彼女が生きた幾年月、最初から最期まで何もかもが散々だったわけではないだろう。いつ終わるかもわからない時の中で桜の最後の一片が落ちる瞬間でも見たのかもしれない。最初の者の他に慕った者が出来たのかもしれない。


 灰が完全に宙に消えた。風に吹かれた銀狐の灰はやがて自然に帰り、彼女が愛した人間の中に新しい生を繋ぐのだろう。


 ある真夏の暑い日のことだ。私は夏休みの課題に必要な本を図書館から借りて帰る途中だった。暑い中帰るのを億劫に思って、だらだらと漫画を読んだり課題を進めていたりしたら、帰る頃にはもう日は山の向こうに沈む頃だった。昼間は三十度を超えた暑さも、日が暮れ始めると幾分涼しくなる。ツクツクボウシとヒグラシの鳴き声を背負いながら赤く染まる道を歩いていると、向こうの方から黒いカットソーに袴を履いた奇妙な恰好の男が歩いてきた。

『なんだ、今帰りか』

「出雲こそ」

 鞄からスマホを取り出して電話をしている貞を装って話す。これなら誰かに見られても、少しマナーが悪い学生程度の認識で済むだろう。少し話すと出雲は一つ大きな欠伸をする。会話に興味を失ったらしくそれっきり口を開く気配はない。私もそれ以上話すことはないのでスマホを鞄にしまおうと手提げ鞄を開いたとき、不意に腕を後ろに引っ張られた。

「わっ」

 くんっ、と加えられた力に逆らえずに後ろに倒れこみそうになる。寸でのところで体制を持ち直し、何をするんだと怒声を浴びせようと顔を上げれば、そこには見ず知らずの男性が私の腕を掴み、何故か出雲を睨んでいる。私の前にいた出雲は訝し気な表情で突然現れた謎の男を見ていた。隠そうともしない怒りの感情に、出かけた声が引っ込む。

『おいおい、突然現れたと思ったら何の挨拶も無しに人を睨み付けるとは何事だ』

「この娘に危害を加えるつもりか」

『はあ?』

 頓狂な声を上げた出雲は暫く固まっていたが、どうやら自分が私を襲うつもりでいるのだとこの男が勘違いしているらしいことに気が付くと、訝し気だった態度が一変、腕を組み僅かに胸を反らせ、今まで斜め下からね訝しむようにしていた視線を、今度は上から見下ろすようにして、呆れと少しの怒気を滲ませた声で男に言い放った。

『馬鹿め、私は自分の主に危害を加えようとするほど付喪神として落ちぶれちゃないぞ。そういうお前さんこそ、何かよからぬことを企んでいるのではないか?鬼よ』

「鬼?」

 今、出雲は鬼と言った。ここには出雲と私とこの男性しかいない。私は勿論鬼ではないし出雲は付喪神だ。となると鬼は私を引いたこの男性と言うことになる。しかし、男性は虎のパンツも履いていないし頭に角だって生えていない。茶色い髪をして眼鏡をかけたインテリ風のどこにでもいそうな至って普通の男性である。

「嘘でしょ、この人が鬼?」

 信じられないという風に出雲に聞けば呆れられたような視線を向けられる。

『この手の鬼に会うのは初めてじゃないだろう。最も、こいつは後から人としての属性を付け加えられたようだがな』

 その言葉を聞いて、遠い町のコンビニで出会った気のいい鬼のことを思い出す。あの人も初めて会ったときは人の姿をしていた。

「俺のことはどうでもいい。娘に危害を加える心算もない。つまりお前は無害という認識でいいんだな」

『無害、とは言い切れんがこの場においてはその認識で構わない』

 男は漸く勘違いをしていたと理解したらしく、力を緩めて解放される。私より頭二つ分ほど高い背を屈めて視線を合わせてきた。

「すまなかった。痛まないか」

 完全な子供扱いは納得できないが、こう素直に謝られると噛み付く気も失せてしまう。取り敢えず、悪い鬼ではないことは十分に伝わる。問題がないことを伝えると、もう一度謝り、今度は出雲に視線を向けた。

「お前、名は」

『出雲、お前さんは』

「緋桐だ。付喪神、一つ聞きたいことがある」

『何だ』

「菖蒲という鬼を知らんか」

『情報が名だけではわかるものもわからん』

 そう言って出雲は緩慢な動きで懐から煙管を取り出す。火種もないのに自然発火したそれを緩く吸い、煙を溜息混じりに吐き出すとそこだけふわりと白くなる。白が霧散する前に温い風が前を横切り、薄く広がっていた線香の匂いを散らした。

『まあ、とりあえず』


 ──座れるところへ行かんか


 そういうわけで私はまだもう少し、この暑い日の下を歩くことになったのだ。


 日も暮れやらぬ公園、日が高い時は子供の声で賑わっていただろうここも、今は誰かが忘れていったサッカーボールが寂しそうに転がっている。出雲と緋桐さんはベンチに腰掛け、私はというと、少し離れたブランコに座り二人の様子を眺めていた。

「さっきも言ったが名は菖蒲。種族は青鬼、青い長髪に琥珀色の瞳、額に折れた一本角。容姿の特徴はこんな感じだ」

 何処と無くすがるような声色でそう告げる。出雲は煙管を咥えたままぼんやりと遠くを見ながら拙い記憶を辿り、ややあって小さく「あぁ」と唸ると沈む太陽から緋桐さんに視線を移した。

『その特徴に当てはまる鬼なら、過去に一度会ったことがある』

「本当か」

『ただし、名は菖蒲ではなく紫蘭だったが」

「紫蘭……?」

『よく似た違う鬼かもしらんな』

「……いや、いい。恐らくそいつが俺の探していた鬼だ」

 両手でズボンの膝の部分を握りしめ俯く姿は、切なさと安堵が入り混じっているように思える。何でそう思うのだろう。それは多分、私も寂しいと感じたとき同じように膝の上で拳を作るからだ。

『なんせ随分と前の話だからな、今も元気でいるかはわからんぞ』

「いや、あいつのことだ。今日もどこかでへらへら笑っているだろうさ」

 山の向こうに日が沈んでいく、今まさに山に飲み込まれそうな日の光が、緋桐さんの白い額を撫でて銀の眼鏡の縁がそれを反射した。

『あいつはきっと元気さ』

 完全に日が沈むと、そこには二本の角を生やした一体の鬼が、ベンチに座り夏の空に浮かぶ一番星を眺めていた。

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