泣かぬ赤鬼 其の三─狐の独白─
一
煌々と月が照っている。風はなく、夜を告げる烏が一つ鳴いた。崩れた家の近くに生える大木の根に腰かけ、何を考えるでもなく見る影もなくなった里を眺める。
『緋桐様でいらっしゃいますね』
唐突に、そして音もなく俺の前に現れたのは、一人の若い娘だった。黒く女にしては短い髪の、黒曜石の瞳を持つ美しい女だ。夜も深い月夜の晩、こんなところに若い娘が何の用だ。いいや、そんなことはどうでもいい、気が立っている。この娘をここで喰らってしまおうか。それがいい、何故なら俺は鬼なのだ、妖なのだ、人を襲うのは道理ではないか、昔も今も鬼は人を襲うものだ。もう、俺には何も残ってはいないのだから。
細い首に手をかけようと腕を上げるとそれを遮るかのように。暗く、冷えた空気が揺れた。
『あなた様の願いを叶える方法があります』
あと一寸で首にかかりそうな手が止まる。今、この女は何と言った、俺の願いを叶える方法?唯一無二の親友を取り戻す方法か、跡形もなく崩れた里を取り戻す方法か、それとも人になる方法か、いや最後はいい、人に憧れた鬼の末路はもう知っている。
『なんだ』
『人になる方法がございます』
最後まで聞かずに首に手をかけた。目の奥が熱い。炎が揺らいでいるようだ、いつだったか、菖蒲が言った怒りの炎が俺の目の奥で燃えている様がありありと見えるようだ。
『お前は俺を馬鹿にしているのか、人に憧れ、人を助けた結果、裏切られ、友も失い、里は消えた。それでもなお、俺に人になれと言うのか』
月明りに照らされ、青白い首が闇夜に浮かぶ、指は細い首に沈み、白い肌に鬱血した赤を滲ませていた。
『うっ……』
女が首にかけられた手を外そうと、俺の手首を掴んだ。すると突然、熱せられた石を押し付けられたような熱さを手首に感じる。驚いて手を離し女を見れば、その姿は銀の毛並みに金の瞳を持つ人の背丈ほどもある化け狐に変わっていた。
『お前、妖だったのか』
『はい。しかし正確には昼は人、夜は妖の中途半端な存在でございます。あなた様が怒るのはごもっともでございますが、まずは何卒、私の話を聞いてくださいまし』
二
私が生まれたのは、ここよりもずっと東にある山の色が美しい田舎でございました。兄弟は私を含めて五匹、中でも雌は私だけで、それも一番下の子だったので随分と可愛がられて育ったものでございます。私が生まれて数か月がたった頃でございましょうか、何分うんと昔のことなので記憶が朧気で申し訳ございません。それから、あぁ、殺されたのでございます。住処を村の猟師に見つけられあっさりと、母も父も懸命に戦ったようですが、一度銃をぱあん、と放たれてはどうしようもございませぬ。五匹の兄弟たちはたちまち捕まり、恐怖に震え泣き叫ぶ声が、山の何処までも何処までも響いていました。丁度私は一匹家族と離れて山の奥へ散策に出かけていたので直ちに捕まることはございませんでしたが、銃声と兄弟の悲鳴を聞いてすっとんでいきました。後にも先にも、あんな悲痛な声は聞いたことはございませんし、聞きたいとも思いません。願うなら、あれが最後であって欲しいものです。住処へと変える際、慌てすぎて、何度も木の根に足を取られましたが、そんなことを気にする暇もございませんでした。家族が危ない、その一心だったのでございます。
ようやっと住処へ辿りついた時、そこはもうもぬけの空でございました。綺麗好きの母が毎日整えていた穴はすっかり崩れ、辺りには父と母と兄弟たちのものであろう血痕が点々と散らばり、家族仲良く暮らしていた日々が私の中で音を立てて崩れ去ったのを覚えています。まだ間に合うかもしれない。私はまた駆けだしました。何としてでも取り返さなければ、私の暖かな時間を、木の根に躓いた足の痛みなど忘れておりました。ただ只管に山を駆け下り、家族を探しました。
丁度里に出るまであと少しという所で数人の人の影を見つけました。血に混じって兄弟と父と母の匂いもします。あいつらだ、あいつらが家族を捕まえたのだ、取り返せ、取り返せ、私は一人の男の足にがぶり、と噛みつきました。男はうめき声をあげたかと思うと足を振り、私は宙へ放り出され背を強かに木に打ち付けました。痛む背中を庇いながらなんとか立ち上がり、兄弟たちに呼びかけました。しかし何度呼びかけても答えてくれません。既に私の家族は絶命していたのでございます。その事実に気が付いた時、いっそ私も一緒に捕まえてもらおうか、と思いましたが、いざ目の前で銃口を向けられると体が竦み後ずさりしてしまうのです。私は私の中ある生への執着に気が付くと一目散に山を駆け上がりました。逃げ出す前、一瞬見えた兄弟の暗い生気が消えた目が、逃げる私を責め立てるようでございました。逃げる際、猟師の打った銃の弾が一つ私の背中に当たりましたが、それでも私は走り続けました。今思えば、生きたいという生への執着よりも、兄弟の暗い目から逃れたい気持ちの方が強かったように思います。
私は命からがら逃げ、沢に辿り着きました。傷と走った所為で熱くなる体を冷やそうと沢の中に足を踏み入れました。沢の水の冷たさに、私はようやく生きていることを実感しました。そしてとうとう独りぼっちになってしまったことも理解しました。体は冷えたのに頭だけ熱に浮かされたように熱い。もっともっと、沢の奥に足を踏み入れます。しかし私は自分が足を捻り、背に銃を撃たれたことをすっかり忘れていたのです。それは一瞬の出来事でした。沢の流れに足を取られ、あっという間に水の中に倒れこみました。それほど早いわけでもまして深いわけでもないのに起き上がれないのです。そのままどうとも出来ぬまま私はどんどん川を下っていきました。川を下っていた時のことはよく覚えていません。ただ、陸の景色と水の中の景色が交互に映り酷く酔ったのは覚えています。
三
次に目を覚ました時に見たのは、澄んだ青空ではなく所々に染みが浮かんだ古くさい天井でした。視界の端で何かがもぞもぞと動いていたので、そちらに顔を向けると一人の若い男が居ました。始めはこの人に助けられたのかとぼんやりと考えるだけでしたが、部屋の中に一つ細長い筒状の何かが放ってあるのが見えました。忘れもしない、我が家族を無残にも撃ち殺した銃です。と同時にこの男が家族を撃ち殺した猟師のうちの一人であったことも思い出しました。私は飛び起き、男を睨み付けました。全身の毛を逆立てて、自分にできる精一杯の威嚇を男に向けました。男はそんな私の様子を見て苦笑いを零すと、「すまないことをした」と一言だけいい、それからおずおずと私の前に一つの握り飯を差し出したのです。獣とて獣なりの誇りがあります。親兄弟を殺した男から施しを受けるなどということは、少なくともその時その男の前ではできませんでした。
私が尚も毛を逆立てて威嚇し続けるのをため息をついて眺めると、男はそれ以上何も言わずにそろそろと家を出ていきました。仕事道具であろう拳銃は床に転がしたままでございました。
はて、生きている以上腹は減るものでございますが、不思議なことにその日は全くと言っていいほど空腹を感じることがございませんでした。それどころか銃やあちこちぶつけて負った傷は、男が消えてから数刻もたたないうちにみるみるよくなり、二刻を過ぎるころにはもうすっかり難なく歩けるだけ回復しておりました。不思議なことだと思いましたが、そんなこともあるのだろうと無理に納得して、もう体は丈夫なのだからこんなところに長居などしてやるものかと、家を飛び出しましたが、いざ一歩外に足を踏み出すと何かが違うのです。空気と言いましょうか、目に見える色彩が前よりも一段階暗く感じるのです。夜の所為かとも思いましたが、天に上る月もやはりどこか暗く見えるのでした。
そろり そろり
私は何も知らぬ子狐のように夜闇を歩き出しました。虫の羽音も、葉の擦れる音もせぬ、無音。それがどれだけ恐ろしいか想像出来るでしょうか。
身も凍えるような闇を歩き私は泉に辿り着きました。泉は煌々と月が浮いています。ひた、と張った水面に浮か満月に母の面影を見た私は、少しでも近くで見ようと泉に身をのりだしました。
ふい
僅かに月が動きました。まさかと思いさらに身を乗り出すと、月は私が身を乗り出した分だけ向こうへ行きます。そんな馬鹿な、と月を目指し泉を泳ぎましたが、一向に月に辿り着くことなく対岸に辿り着いてしまいました。振り返ると届かなかった月が素知らぬ顔をして水面に浮かんでいます。私は月に避けられたことが悲しくって悲しくって、思わず下を向きました。凪いだ水面に自分の顔が映ります。
驚愕しました。そこにはおよそまともに生きている動物なら纏うはずのない瘴気に身を包んだ恐ろしい化け狐が佇んでたのであります。目は爛々と妖しい光を湛え、毛は逆立ち、爪は今まで見たどんな獣よりも鋭い。慌てて飛びのき再び水面を覗いた時にはそこにはもう薄汚一匹の子狐が居るだけでしたが、その時にはもう私は自分の置かれた状況を理解していました。私は、怪異になっていたのです。
沢を流れたあの時、私は確かに心の臓が止まる音を聞いた。足掻いた足が水面に届かぬのを見た。
──私はもうとっくに死んでいたのだ
紛れもなく、世界の全てが、私を避けていたのでした。
四
腹も減らぬし体も丈夫でしたがそれでも心は疲弊していました。何処にも行く当てのなくふらふらと彷徨った末辿り着いたのは、あの男の家でございました。男はまだ戻らぬようで、中には綺麗に握られた握り飯が一つぽつねんと置いてあるだけでした。私は時間が経ってすっかり乾いてぱさぱさになった握り飯を一口だけ頬張りました。米以外は何も入っていなかったはずでしたが、握り飯は塩辛い味がしました。一口頬張っただけでもうそれ以上は食べる気になれず、そのまま横になりました。
暫くそうしていますと、男が帰ってきて無言で私を見下ろしました。私はいたたまれない気持ちになりました。そして目の前の男もまた、いたたまれない瞳で私を見下ろしていました。男はしゃがみ込み私をそっと抱き上げて、ひたすら無言で背を撫で続けます。皮肉なことに、私を癒したのは家族敵の体温でした。
唯、細く吹く初夏の風が、古い家の隙間から音を立てて過ぎていく、そんな夜でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます