泣かぬ赤鬼 其の二
一
貫太郎はしばしば仕事の合間を縫って家にやって来た。やって来る度に、これはどうだあれはどうだなどと人の生活を事細かく話し、時には周辺にある物を使って人はこうやるのだと自分に向けてやって見せたりもした。おかげで茅葺屋根の穴は閉じられ、雨の日に滴る水滴に壁の木が腐るのを憂鬱に思うこともなくなった。貫太郎は土産を持参してくることがあり、その中でも特に糠漬けは保存もきき味もよく、食べ物を複雑に加工する技術のない自分にとっては、まさに人を象徴するものに感じられ、そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、貫太郎も手土産に糠漬けを持ってくることが多かった。木に登る回数は減り、たまに登ったとしても里を見るよりも、貫太郎がやって来るのではないかと人影を探すことの方が多くなった。
「おおい、緋桐いるか」
『そんな大声を出さずとも俺は此処にいる』
季節外れの鶯の声と共に、今日も貫太郎はやって来た。左手に袋を持ち、右手で戸を開け、まるで自分の家のように無遠慮にと入って来る。つい数日前までの、一歩一歩遠慮がちに入ってきたのが遠い昔に思えた。
「はい、土産」
無造作に渡された袋を開けてみると、青銅でできた小さいお椀のようなものに、細い紐が付いた小さい鐘のようなものが入っていた。手に持って吊るしてみると、りいん、とよく響く音を出す。
「風鈴って言うんだ。あんた除夜の鐘が好きだって言ってたろ、だったらこれも好きかなって、家にあった古いやつだけど」
『嬉しいが、来るたびに何か持ってこなくていい』
「いいんだって、あんたこういうの好きなんだろう」
俺が好きでやってるんだからさ、そう言っていつぞやのように照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
『今日は何をしに来たんだ』
「いや、今日はこれ渡したかっただけだよ。そろそろ昼の休憩も終わるから行かなくちゃ」
『だから無理に来なくてもいい』
「あんたもしつこいなぁ、好きで来てるんだからいいんだよ」
口を尖らせて責められる。これ以上煩く言えば本気で怒らせそうだ。煩く言う代わりに今朝山で採れた山菜を幾つか持たせる。始めは貰えない渋っていたが、貰ってばかりではこちらの立つ瀬がないと無理に押し付けた。
「じゃ、また来る」
『気をつけてな』
「分かってるって、……なあ、まだあんたのこと誰にも話しちゃいけないのか」
『皆が皆、お前のように理解があるわけではない』
「俺。あんたなら大丈夫だと思ってるんだけど」
『いずれ話せる日が来るといいが、とにかくもう少し待ってくれ』
口の中で小さく了承の意を意を呟くと、速足で山を下りて行った。途中振り返ってこちらに向かって大きく腕を振るとまた駆け足で山を下っていく。完全に姿が見えなくなったところで少し強い風が吹く。手に持った風鈴が涼し気な音を山に響かせた。
貫太郎が帰った後、風鈴を風のよく通る場所に下げた。風が吹く度に控えめに空気を揺らすその音は、晴れた空によく似合った。風と、草木が揺れる音と風鈴の音。過去にこれだけ周囲の音に気を配ったことがあっただろうか、自分の心臓の拍動を、これだけ感じたことがあっただろうか。
『おい、立ちながら目を瞑って何してんだ。寝てんのか』
声を掛けられて目を開くと目の前に菖蒲が立っていた。土産らしい鮎を片手に、不思議そうに眼を丸くしている。普段は気怠そうに目尻を下げた瞳がこうも丸くなるのは珍しい。
『いいや、何でもない。久しぶりだな』
『今日も寂しく里を見てんじゃないかと思ってよ。ま、杞憂だったらしいけどな』
口を少し開き横に引く、菖蒲独特のへらりとした笑みを浮かべる。りいん、と鳴った風鈴を合図に菖蒲を少しだけ綺麗になった家に招き入れた。
それからは他愛もない話をした。どこぞの山の主が変わっただの東の方で霊の宿った御神木ならぬ御神竹が切られただの、そんなよくある会話だ。頻繁に足を運ぶ訳ではない友人との会話は尽きることなく、会話は上に会った日が山に半分沈む頃まで続いた。
『お前、最近変わったな』
『そうか、いつも通りのはずだが』
『いいや、なんだか楽しそうだ。前と比べて木の上にいる頻度も減ったろう。前はほぼ一日中木の上にいたくせに、最近は家にいる方が多い、何かあったか』
『いいや、何も』
『そうか、俺が気にしすぎているだけか』
『そうだろう』
『そうか、まあいい。また来る』
まだ、貫太郎のことを菖蒲に話す決心はつかない。菖蒲ならきっと理解してくれるはずだと思っている自分と、もしかしたら受けいれられず拒まれるかもしれないという思いが半々にある。もし仮に受け入れられなかったらとして、俺は一体どうすればいいのだろうか、菖蒲が帰った西の空が傾く日に紫に染まり始めている。夜はもう近かったが最善策は未だ見出だせない。
二
いつもは感じない喧噪で目が覚めた。あちこちにいるはずの蛙の声が聞こえない。代わりに草を踏む足音が徐々にこちらへと近づいている。それも一人二人ではない。何十もの足音が迷うことなくこちらに向かっている。ゆっくりと寝所から起き上がり戸の隙から外の様子を伺う。月明りとは別に赤く夜の山を照らす光がある。松明だ。松明が山の木々の間からゆらゆら揺れながらこちらに向かってくる。揺れる火は眉間に皺を寄せた屈強な男の顔を照らしていた。よく見れば、松明を持つ男の他にも鍬や斤、鎌を持っている奴もいる。どうやら邪悪な鬼を退治しに来たらしい。
(居場所がばれたのか)
このまま様子を伺い続けていても直ぐに見つかる。なら、先にこちらから姿を見せ事情を話した方が穏便に済むかもしれない。相手を驚かせないようにそっと戸を開く。こちらの動きに気付いたらしく歩みを一斉に止め、じっとこちらの様子を伺っている。その目はぎらぎらと輝き、今にも目の前にいる邪悪な鬼の首を取らんと虎視眈々と狙っているように見えた。
『こんな深夜に一体何の用がある。俺は人を食う鬼ではない、武器片手に訪ねられる謂れはないはずなんだが』
弁明も虚しく、一言も返されないまま若い男が鉈を片手に飛びかかってきた、左に身を返し何とか躱したがその先で別の男に組み付かれる。投げ飛ばすと男は家の壁を突き破り中に転がっていった。
(しまった)
力加減を忘れて人を放ってしまった。骨を折ってやしないだろうかと冷や汗をかいているうちに、体の大きな男二人に取り押さえられる。振りほどこうとしが、腕を上げた瞬間、伸びかけた自分の爪が目に留まり抵抗を躊躇った。
(下手に動けば殺してしまうやもしれん)
鬼の力であれば、人間の男の一人や二人など容易く放ってしまえるが、時間は夜。さらに山であるため足場も悪い、足を捻る程度の怪我で済めばいいが、今は人が多く、その殆どが武器を持っている。誤った方向に投げ飛ばして鉈や鎌に刺さってはいらぬ参事を引き起こすだろう。
『落ち着け、俺は本当にお前たちを傷つける気はないんだ!』
叫んでみても尚彼らの瞳は興奮の色を浮かべている。中には俺が抵抗しないことに違和感を感じているらしき人も見えたが、その冷静さも直ぐに周りの興奮に飲まれた。今、ここでは俺はどうしようとも悪らしい。
何を言っても届かないと悟り、されるがままになっていると、大勢の人込みをかき分ける影が見えた。影は無理に人をどかし最前列に来るなりに大声を張り上げる。
「緋桐っ!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、貫太郎が必死の形相でこちらに手を伸ばしていた。しかし周りの大人に取り押さえられ、手は届かずに空をかく。
「父ちゃん!こいつ悪い鬼じゃないんだ!本当だよっ、信じて!」
「貫太郎!やめろっ、危ないぞっ」
あぁ、こいつらは貫太郎の知り合いなのか、そうか、なら傷つけなくてよかった。
後ろから強く殴られ、そこからの記憶はなくなった。
次に意識が浮上したのは埃臭い納屋の中だった。手足を縛られ無造作に放り投げられている。上にある小さな窓から差し込む月明りが照らす納屋の中は殺風景だった。辺りには家畜の餌らしい干し草と、恐らく空の水瓶しかない。重い体を引きずり小窓の下の壁に寄りかかる。気温はいくらか上がってきたとはいえ、まだ初夏であるこの季節の深夜は冷える。殴られてまだ鈍痛のする頭には、背中越しに伝わる壁の冷たさが心地よかった。ぼんやりと天井の染みを眺める。戸の外に見張りはいないらしく、風の音すら聞こえない。耳をすませばどこかの家で寝ている人の呼吸まで聞こえてきそうだ。縄を引きちぎって逃げ出そうか。いやそれは出来ない。貫太郎と話さなければならない。会って伝えなければ、俺は別に怒っていないと、きっと今頃不安そうに眉尻を下げているに違いない。それにここで慌てて逃げ出しても誤解は解けない。朝まで待ち、まともに話せる奴が出てくるのを待った方が得策だろう。なんなら貫太郎を呼んでもらえばいい。それでも駄目ならば、少々手荒になるが力づくで逃げ出そう。
一通りの考えが纏まったところで日が昇るのを待とうと目を瞑る。しかし僅か数刻もしないうちに再び目を開くことになった。
何やら外が騒がしい。先程まで風の音すら煩わしく感じられたほどの静寂が、人々の困惑する声と納屋の前を忙しなく行き来する足音に変わっていく。小窓から外の様子を伺えば、闇の中にあちらこちらに散らばる人影が見えた。
「鬼が他にもいるなんて聞いてないぞ!」
吐き捨てるように叫んだ男が、鈍い音とともに地面に倒れる。男の後ろに角の生えた背の高い影が映った。
『菖蒲っ!?』
額に角を生やした鬼が男の後ろに立っている。暗闇の所為で顔はよく見えないが不気味に揺れる影は菖蒲の姿によく似ていた。
影が此方を向く。暗闇にも関わらずやけにはっきりと見える瞳はまっすぐにこちらを見据えている。納屋に閉じ込められている俺の姿をとらえると一つ笑い、それから背を向けて闇の中に消えていった。鬼の姿が完全に闇に溶け、また里の何処かで叫び声があがる。一瞬戻った静けさがまた喧噪に変わっていく、先程の鬼が里で暴れていえるようだ。もう朝まで待つなどと悠長なことは言っていられない。縄を引きちぎり、閂が掛けられている戸を蹴り破って外に出た。
三
静寂はとうに破られていた。里のあちこちの家は無残に破壊され、飼われていた家畜の臓腑は引き裂かている。引き裂かれた家畜から流れ出た血が、地面を真っ赤に染め上げて、襲われたらしい人が血塗れの地面の其処彼処に倒れている。 その中にやけに背を丸め、何かに覆い被さるように倒れている男が一人いた。近づいて様子を見れば、男の下に勘太郎がいるのを見つける。
『貫太郎っ』
死んでしまったのかと思い、男の隙間から首筋に手を当てると、とくとくと脈拍を感じる。よく見れば男も気絶しているだけで死んではいないようだ。男と貫太郎を安全な場所まで運び、再び里を見渡すと足元に点々と続く赤い染みを見つける。染みは薄くなっては人の付近で再び濃さを取り戻し、道標のように延々と続き、山の中に続いている。一層暗くなる視界の中で目を凝らして先に進むと開けた場所に出る。雲に隠れていた月が顔を出したようだ。眩しさに目を細た視界の向こうで笑う影を見つける。
『やっと来たか』
そこには一番会いたくなかった姿があった。
『菖蒲』
『なあ、見ろよ綺麗な月だなあ』
『菖蒲』
『里のことか、俺がやったよ。……何故って顔だな。簡単な話さ、お前に馬鹿な考えを改めて欲しかったんだ。あとお前のお家の場所を教えたのは貫太郎とかいう子供じゃない。俺だ。ちょいと角を隠してね』
『菖蒲、貴様っ』
『そうだよ、怒れ。それがお前の本質なんだ』
『そんなことをしても俺の考えは変わらないぞ』
『そうか、変わらないか。なら』
“俺の手で終わらせてやる“
言い終わらないうちに菖蒲の顔が眼前に迫る。顔めがけて振られた腕が鼻を掠め、菖蒲の着物の袖から滴った血が鼻先に着く。錆びたような嫌な匂いだ。矢継ぎ早に攻撃が繰り返される。菖蒲はこちらの話など聞く気がない様で、目を爛々とさせたまま迫り続ける。
『いい、加減に、しないかっ』
一瞬の隙を突いて菖蒲の着物の衿を掴み投げ飛ばす。抵抗できなかったのかしなかったのか、菖蒲はされるがままにそのまま綺麗な弧を描き宙に投げ飛ばされる。
ゴリッ
嫌な音がした。正面から強かに頭を地面に打ち付けた菖蒲は、額に手を当て呻きながら起き上がる。その掌の中には白く、細長い物が握られていた。それは地面に額を打ち付けた衝撃で折れた菖蒲の角だった。
互いに一言も発さぬまま立ち尽くす。月明りに照らされた顔は、いつか見た青く全てを見透かしたような、心の深いところを覗くような色をしていた。海とはこんな色をしているのだろうか、遠い意識で見たこともない海を思った。
『そうだ、それでいい』
先程の勢いが嘘のように、落ち着いた。ともすれば安心したようにも聞こええる声で菖蒲はそう呟くと、菖蒲は踵を返し夜の山の中に消えていった。
四
再び里に帰るわけにもいかず、酷く疲弊した気持ちで家に帰る。家は里の者がやったのだろうか、壁も屋根も崩されている。瓦礫の山に腰を掛けると冷たい風が一陣吹き、遠くで鳴く鈴虫の声を運んだ。その声に貫太郎に貰った風鈴の存在を思い出す。何処へいったのだろうかと足元を見やると、此方の様子を伺うように半分身を隠して瓦礫の影にいる風鈴を見つる。拾い上げてつまんで吊るすとあの時と変わらず涼し気な音を響かせた。しばし風鈴の音に耳を傾けていたが、崩れて吹きっさらしになった家の中に白い何かが風に吹かれていることに気がついた。そんなものが果たして自分の家にあっただろうかと近づき拾い上げると、どうやら俺宛の文らしいことが分かる。送り主は、菖蒲。
そこからの内容はもしかしたら君たちも知っているかもしれない。文には俺が人と会っていることは知っていたこと、多くの人間と関わりたいと思っていたことも知っていたこと、だから一芝居うつことにしたこと、全て終わった後は旅に出ることにするという内容が文三枚分に書かれていた。
──そうだ。選別にこれをくれてやる、紫蘭と言うらしい、赤と青が混ざると紫になるそうだ。俺たちにぴったりの花だろう。
文が置かれていたそばに、一本の花が置かれていた。凛と背を伸ばした茎に、小ぶりの花が控えめに頭を垂れている。
文と花を握りしめて駆けだした。勝手なことをしてくれた。確かに俺は人間と関わることを望んだが、だからと言って菖蒲が消えてもいいなどとは思っていない。俺にとっては菖蒲も大事な友人であるというのに。
山を一つ越えて二つ越え、遂に海までやってきたが、菖蒲を見つけることは出来なかった。生まれて初めて海を目にしたが、海の青は菖蒲の瞳とは似てもつかなかった。確かに海の色は美しいが、あれは美しすぎる。菖蒲はもっと俗っぽい色をしていた。
結局どこを探しても手掛かりすら見つからず、もと来た道を引き返す。本格的に梅雨になり始めた空は常に曇天で、今も頭上では泣き出しそうな空が見下ろしていた。
ぼんやりと歩いていると道の少し先から二人の男が会話をしながら此方に向かってくるのが見える。姿を見られてはまずい。丁度道の脇に建てられていた地蔵の祠の裏に身を隠した。
「なあ、お前さん知っているか」
「知っているって何をだよ」
「ほら、さっき過ぎた分かれ道を左に行くと里があるだろう、そこの里がな先日の豪雨で山が崩れて潰れちまったそうだ。まあ、あそこはその前にも盗賊か何かにおそわれてたからなあ、あんときは死人こそ出なかったが、今回は酷かったらしいな。そんでもう里には人が居ないらしい」
「へえ、そりゃ知らなかった。気の毒だな」
「全くだ」
男二人が過ぎた後も、俺は暫く動くことが出来なかった。何故なら男達が言っていた里というのは俺が住んでいた山の麓の里のことだったからだ。嫌な汗が首筋を伝う。暑いはずなのに体が震える。烏が近くの木で一つ鳴いたのを合図に、俺は速足里に向かった。
やっとの事でついた里は見る影もなくなっていた。本来なら伸びかけた稲穂が風に揺られているはずの水田は土に埋もれ、常に誰かしらが居て客人をもてなしていた家は土砂に押し流され崩れている。勿論、人の声など何処からも聞こえない。
辺りには何も残っていなかった。
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