春の旅立ち

出雲が珍しく家にあがったと思ったら扉を蹴り開いたのが数時間前、勢いよく開かれた扉はちょっと心配になるくらい大きな音を家中に響かせた。私がやったと勘違いした母のお説教が終わったのが数分前。とんだとばっちりを喰らったものだと部屋に帰れば、とばっちりの原因が部屋の真ん中で胡坐をかいて踏ん反り返っていた。

『遅い』

「誰のせいだと思ってんの」

『まあ、いい。それよりも早くしろ、あれが行ってしまう』

“あれ”とは何だ、それよりも何で扉を蹴ったんだ。遅くなったのはお前の所為じゃないか、そんな文句を言う暇も与えられずに家をから押し出される。途中、玄関の扉も蹴り開こうとしたので慌てて押しのけ、母の顔色を確認してそっと玄関の扉を閉めた。

「どこ行くのさ」

『行けば分かる』

それ以上は語る気が無い様で私を置いてすたすたと歩きだす。そのまま無視して部屋に戻ろうか、そっと玄関のドアノブに手をかけたが

『行かんでもいいが後悔するぞ』

そうはっきりと言いきられては行くしかないではないか、私は大人しく彼に着いて行くことにした。


土曜日の昼間、外には散歩をしているお婆ちゃんや子供を連れたお母さん。部活へ行くのか、それとも帰るのか、自転車に大きなスポーツバックを積んだ男子高校生とすれ違う。それでも田舎の昼間であることは変わらず、すぐに誰ともすれ違わなくなった。左手にそびえる山に視線を移せば、いつの間にか桜の色は消えていて、眩しいくらいの青色が目に飛び込んでくる。春は意識せずとも聞こえていた鶯の声が、今はひっそりと耳をそばだてまいと聞こえない。ひょっとしたら、この世で一番季節を感じるのが下手なのは人間なんじゃないだろうか、私はどちらかといえば、テレビで天気予報のお姉さんが「今日は夏日です!」と言う声を聞いて「あぁ、夏が来たんだな」と思う。自然の変化を見て季節の訪れを感じる人も確かにいるけれど、それだって自然より早く季節を感じることはできない。新芽の少し青臭い匂いを含んだ風が耳を掠める。夏の足音を聞いたような気がした。

『そら、そろそろつくぞ』

いつの間にか目的の場所に着いたらしい。山ばかり見ていて気が付かなかった。辺りを見渡せば、そこはいつぞや来た公園だった。そうだここで雨の日、桜の下で舞っている乙女を見たのだった。


「ここに何があるの?」

『静かにせんか、逃げられるぞ』

──これはこの辺に、住むものなるが

ふと耳に鈴を転がしたような声が滑り込んでくる。これはあの日聞いた歌だ。ひっそりと鳴く鶯のように、ぽつりぽつりと響いている。舞は踊っていない。桜の木にもたれ掛かり、すっかり青い葉を茂らせた木をぼんやりと見上げている。

すぅ、と手が伸びた。視線は尚も空を見上げている。

『最後の舞だ、とくと見ておけ』

着物から伸びる白く細い指は空を滑る。それは何かを撫でているようにも弾いているようにも見える。舞は続く。手を四方に伸ばし、くるりと回り滴のような瞳は閉じて、口元には小さな笑みすら浮かべている。舞に合わせて乙女が桜の木の幹を撫でると、途端、青々とした葉が薄桃色に色付き、春の彩を取り戻した。桜の香りがする、遠くで鶯が控えめに鳴いている。風は新芽の匂いを運んだ。たった今、この木だけが春の彩を取り戻した。乙女は尚も舞っている。だが様子がおかしい。桜の色をそのまま写し取ったような着物が、葉桜色に色付いていく。

着物の色が完全に変わったと思ったら、乙女の姿が消えた。乙女がいた場所には代わりに、桜色の瞳を持ち、翼には初夏の風の色を宿し、桜の枝の足を持つ美しい鳥が佇んでいる。鳥は空を見上げると、羽を広げゆっくりと羽ばたき始めた。羽ばたく度に新芽の匂いが周囲に舞う。

『飛ぶぞ』

出雲が言い終わると同時に、鳥は空へと羽ばたいていく。その美しい姿からはそう沿いも出来ないような力強さで長い尾は風に揺れ立ち上っていく。それは清流の流れに似ていると感じた。夏の、日の光を反射する川の流れは、確かあの鳥の尾のように力強い生命力に満ち溢れていた。

そうして、春の権化だった乙女は初夏の鳥へと姿を変え、また来る春を探して大空へと飛び立っていったのだった。


「いっちゃったね」

『春の旅立ち、だな』

鳥の姿が完全に消えるまで私は空を見つめ続けていた。出雲も多くは語らないが、きっと私と同じように感動していると思う。

春の色を戻した木はいつの間にか戻っていて、再び枝は青々とした葉に覆われていた。もう春の儚げな彩はないけれど、夏の生命力に満ち溢れたこの姿も私は好きだ。

『毛虫は落ちるけどな』

「もう、人がせっかく感動しているところに水を差さないでよ」

ふと足元に一つ、初夏の色をした実が転がっているのを見つける。蒼くつやつやとしたそれは、あの鳥の翼を思いださせる。そっと実を拾い、鳥が羽ばたいて行った空を見上げる。風が頬を撫でた。夏はもうすぐそこまでやってきている。

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