春眠に枝垂れる

縁側に座り外を眺める。弥生の頭、菜の花はとうに開花を迎え風に身を揺らし、萎んでゆく梅の後を追うように桜の蕾が膨らみ始めている。時は流れ、季節も流れる。自分の活動拠点であった物置小屋も風化し崩れかけ、この家もとうの昔に打ち捨てられ、家具は一つも残っていない。割れた窓硝子の破片が床に散らばり春の光を乱反射している。


私は今、かつて主だった少女と暮らしていた家の縁側に座っている。


どの位の時を経たのか。物置小屋も家もこんな有様なのだから、相当な月日を経たのだろう。誰の声も聞こえない縁側で外を眺めるばかりなのは味気ない。

『少し歩くか』

せっかくの春なのだ。冬に身を潜めた彩も、そろそろ顔を出し始めているだろう。


足を伸ばして藤の池まで来た。藤棚には硬い蔓が巻きつくばかりで、薄紫の花を拝むのにはまだ当分時間がかかりそうだ。さて、あの龍は無事に思い人に逢えたのだろうか、池を見ればいつのまにか藤の花が一房浮かんでおり、とぷり、と奥深くに沈んでいった。

藤の池を過ぎ更に歩く、遥を待ち続けた花は今は草を茂らせている。線路では相変わらず女が頭を下げ、塀の上では紅葉模様の猫の置物が細い目で往来を見下ろしている。この先の四つ目の曲がり角の先では泣犬に遭ったか。気がつけば過去を辿るように足を進めていた。履いた下駄の音がやけに遅く聞こえる。空を見上げても虹はかかっていなかった。


記憶を辿り足を進めると土手に来ていた。道なりに植えられている桜はまだ咲いていない。ここで裕子と妖に襲われたこともあった。桜から目を向こうに向ければ山がある。冬の耐え忍ぶような荘厳さは和らぎ、まだ咲いている梅の花の色があちらこちらに浮いている。眠っていた山が春の兆しに起き始めていた。山から視線を戻せば、土手の奥に一本だけ満開を迎えた桜の木を見つける。枝垂れ桜だった。他の木々が日の輝く天に向かい枝を広げているというのに、この桜は苔むした幹から幾筋にも細い枝をしなだらせ、一人歩く私を見下ろしている。枝先の小さな花と目を合わせていると、後ろの首筋にちりちりと視線を感じた。

『誰だ』

視線を感じた方向に声を荒げれば、そこには黒白のまだら模様に長鼻をもつ妖が佇んでいた。小さな頭に二つ店のような瞳をこちらに向けている。暫く無言で見つめあっていると妖が静かに口を開く。

『いつまで寝ているの』

それはよく知った声だった。

『いつまで寝ているの』

ひどく懐かしい声だ。

『私が食べてあげるから、早く目を覚まして』

『……それも、そうだな』

彼女が再び口を開くと同時に私も目を閉じる。ほんの一瞬、目の前を白い何かが舞い落ちた。雪のようだ、何処か遠い意識でそう思った。


目を開けると、見慣れた木製の天井が見えた。鼻腔を埃と檜が混ざった匂いが抜ける。どうやら夢から覚めたらしい。

「いつまで寝てるの」

物置の掃除に来ていたらしい裕子が呆れた声をあげる。棚を整理しているせいで顔は見えないが、おそらく今にも溜息を吐き出しそうな顔をしているに違いない。棚を整理している姿を横目で眺めながら、目を覚ます直前、目の前を舞っていった桜の花弁を思い出す。

『なあ、裕子。雪見だいふくが食べたくないか』

裕子が整理していた手を止めこちらを振り向く、ややあって我慢していたらしい溜息を全て吐き出すと

「少し待ってて、すぐ支度してくるから」

と言い物置小屋から出ていった。ガタガタと立て付けの悪そうな音を立てて閉まった戸を見上げる。

『獏にあげます、獏にあげます』

もうあんな夢は見なくていいだろう。それがいつか正夢になるとしても、今を憂う意味など無いのだから。

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