空き地椅子

 学校から家までの数キロメートルの間、大通りを一つか二つ外れた道の先に閑静な住宅地が広がっている。新旧様々な家々に混じり、何時まで経っても空き地のままの土地が一つあった。

 家だか小さな事務所だか、過去には建っていたこともあるらしいが、どの建物もすぐに壊されており、大人たちはその経緯についてあまり子供たちに話したがらない。

 さて、奇妙な空き地のあるこの住宅街、少し前から野良猫が住みだしたようで、近頃の私はこの猫に会うため学校の帰りにわざわざ遠回りをしてこの住宅街を横切って帰るということをしていた。


『君、ちょっとこっちに来てくれないか』


 ちょうどくだんの空き地の前を通りがかったところで急に声をかけられる。それまで人のいる気配などしなかったものだから、驚いて声のする方を見れば空き地に下げられた立ち入り禁止の看板とロープの向こうに、木でできた椅子に足を組んで座っている女性がいる。彼女は私と目が合うと穏やかに笑った。


『あぁ、よかった。聞こえるんだね。ところで君、ちょっとこっちに来て私の手を引いてくれないか? 』


 組んだ足はそのままで手だけをこちらに差し出される。手を引けと言われても、そこは立ち入り禁止になっているし、第一私が手を引かなくても勝手に立ち上がればいいのだ。


「あなたがこちらに来ればいいじゃないですか」

『そうしたいんだけど、私は縛られているからここから動けないの』


 妙なことを言う、見たところ彼女は穏やかな笑みを浮かべながら椅子に腰掛けているだけである。縛られている、と言うのは何かの比喩表現だろうか。

 首を傾げたところで彼女は何か言う様子もなく、しばらく無言の対峙が続いたが、彼女の意図が不明な以上、手を取る道理もない。第一彼女が佇むそこは


「立ち入り禁止の場所ですから、無理です」


 断りそこを立ち去ろうとすると、女性は心底面白いと言うように笑った。


『よく考えてごらんよ、君の目の前にあるのは高い壁でも冷たい鉄格子でもない。十数メートルの紐にただ立ち入り禁止の看板が立てられているだけだ。君が少し足を上げるだけでそこは簡単に超えることができる。契約書はただの紙だ、法律はただの言葉の羅列だ。紐はただ糸がより集まったもので、看板もまた木の板にペンキで文字が……いや線が書かれているだけでそれ以上のものじゃない。それに縛られているだけで、実際のところ物理的な拘束は全くない。私の言うことがよく分からないかな? それもそこを越えさえすれば全てわかるさ』


 必要最低限の息継ぎで一気に、しかし泰然と、わざとらしく肩を竦めて語られる。私はまるで見えない手に引かれるように立ち入り禁止の看板に近づいた。随分と前から張られているようで、元々は虎柄だったのだろう紐はもはや遠目からでは色の境界がわからない。

 色の境界がわかるぐらいに近づいて、張られた紐に指先で軽く触れる。たいした力も込めずとも紐はあっさりと沈んだ。


『そら、そんな紐がなんだというのさ。さあ、こっちへおいで』


 馬鹿馬鹿しい好奇心だとさえ思う。本当に友好的かどうかさえも分からない怪異の口車に乗せられて、私は今立ち入り禁止の看板を跨ごうとしている。思い返せば立ち居入り禁止の注意を無視してその先へ行くのは初めてではない。どちらも招かれた上でだが、今回は違う。あの時は感じなかった何か得体の知れない、良くない不安を彼女から感じる。断らなければいけないのはわかっているが、たかだか紐一つで境界を引かれたように感じているのが、たった一歩踏み出すだけで、こちらとあちらを区切っていた何か特別な力を持った紐が、なんの力もないただの古い紐になってしまうのだとしたら、


 なんとも滑稽だ


『はい、そこまで』


 おさげが引かれる感覚。聴き慣れた声と共に一瞬の線香の香り。目の前がもやに覆われ、彼女の姿はその向こうに消える。


『あれがどう見える?』

 

 靄が晴れ、再び現れた彼女の姿に愕然とした。

 彼女は椅子に縛りつけられていた。顔は上を向き薄く開いた口の端からは液が垂れ、椅子の足から彼女の足首まで繋がれた太い縄は足首を赤紫色に変色させている。そして何より恐ろしかったのは、後ろから彼女を抱いている人型の、しかし人ではない異形のだ。黒いナニカは胴体よりも更に暗い瞳をこちらに向けている。確かにこれでは動けない。


『ちぇ、惜しかったなあ』


 様子はさっきとまるで変わっているが、声色は変わらず明るいままである。鎖に繋がれた両足が悔しそうに地面を蹴った。


『私が言うのもなんだけどさ。あやしい奴に声をかけられたら人であろうがなかろうが、無視して逃げた方がいいよ』


 じゃあ、また


 嘘のような静寂。先ほどまであったやりとりがまるで夢の出来事のように方々ほうぼうに雑草の生えた裏寂しい空き地が広がっている。震える膝と、難しい顔をした出雲があの出来事が事実であったのだと突きつける。空き地へ完全に踏み込んで彼女の手を取っていたらどうなっていたのだろうか。少なくとも、こうして出雲の横にはいられなかったと思う。


 なあん


 どこかで鳴いた猫の声はそれっきりで、後には閑散とした空き地だけが残っている。

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現世妖奇譚 昼行灯 @hiruandon0301

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