誤算

 十二年越しの恨みにようやく溜飲が下がった。父を槍で突き落とし、意気は揚々。クレイグの放った矢で負傷した歩兵たちの間を、悠々と駆け抜けたジルだったが、次第に不安になってきた。

 

 思ったより、壁が薄い。


 父には、自分たちがこのルートを通ることがわかっていたようだった。なら、もう少し何か違う手を考えていてもよさそうなものだが。

「これなら、行けそうだね!」

 フェルのはしゃいだ声に、より一層、ジルの不安が増す。


 何か、見落としている気がする。何か。


 前方に目をやる。

 兵の姿が見えた。動く気配はない。

「遠いな。フェル、まだ撃つな」

 少し悔しそうに、クレイグが呟く。

 その時、マドンナの耳がぴくりと動いた。

「マドンナ?」

 彼女は急速に進路を左、つまり、北に変えた。

 ロッディがはっとする。

「――みんな!」

 振り返って、ロッディは叫んだ。

「進路を左に! 罠だ!」

 急いで、手綱を引く。

「きゃっ!」

 ジルの馬はかろうじて、空いた穴を避けることができた。ケイトの腕の中にいるセレネが悲鳴をあげるのが聞こえた。確認する余裕はまだ生まれないが、多分、大丈夫だろう。

 クレイグ、フェルとクレス。ジェスもなんとか罠をかわした。

 しかし、アーウィリドを乗せた若い牡馬は、ダメだった。

 足をとられた馬の大きな悲鳴に、アーウィリドの落ちるどさりという音が被さった。

 そして、立った砂埃の向こうに父の姿が見えた。

「リッド!」

 手綱を引きかけたジルに、エリクシルが叫ぶ。

「ジル殿! このまま進んで下さい!」

「しかし!」

「リッドなら大丈夫! クレイグ、お願いします!」

「たくっ、仕方ねえな!」

 クレイグの馬が、首を返す。

「ジル殿とロッディは、前へ!」

 ロッディが、さらにマドンナの速度をあげた。半歩遅れて、ジルもそれに続く。

 前方にいた兵が動き出した。今まで停止していたとは思えない速さで迫ってくる。

「フェル!」

「うん!」

 フェルマークが懸命に矢を放つ。命中率が低い。敵数が減らない。

『直ちに乞う!』

 ジルの腕の中で、エリクシルが手の平を重ねた。

旋風ストーム!』


 ジルは思った。

(つくづく恐ろしい軍師殿だ。簡略詠唱で、この威力)

 旋風の柱は、半数の兵をなぎ倒して消えた。

(これで、少しは余裕ができたか?!)

 振り返って、はっとした。

 そうだ。そもそも。


(そもそも、今回の作戦の目的は、リッドの捕獲)


 つまり、今までの、そしてこれからの兵による包囲網、そのものが囮。

(本命は……)

「いかん! リッド! 早くそこから離れろ!」


 遅いわ。バカ息子よ。


 ジゼルの紫色の瞳が、一際明るく輝く。


『鳥籠発動!』


 地面から突き出た夥しい数の紫色の魔力が、ドームのようにアーウィリドを包んでいく。

 クロヴェール家は、親友兼相棒のカルバドス家と同様、細々と続いてきた家である。しかし、やはり続くものには、それなりの根拠と理由がある。それは、伝えるべき何かを持っていることだ。だからこそ、父は教官なのだ。

 放たれた魔力というものは、普通、曲がらない。それは、魔力も物理法則に従っているからだ。ボールを投げたとき、回転を加えて曲げることはできる。しかし、投げたボールの方向そのものは変わらない。飛んでいるボールが軌道を変えるには、後から加わる力、つまり『見えざる長い手』が必要なのだ。クロヴェール家はつまり、この見えざる手を代々受け継いできた家系なのだ。そして、魔力による捕縛の強度は、本人の魔力量と性質に比例する。捕まったら最後、アーウィリドには逃れる術がない。


「ん?」

 

 アーウィリドは上を見上げた。

 魔術や魔法は使えなくても、アーウィリドの体にはちゃんと魔力が満ちている。だから、見える。感じる。


「綺麗だな」


 状況も忘れて、アーウィリドは呟いた。

 空が完全に隠れた。紫の糸は、まだ紡ぎを続けている。繊細な、繊細な、美しい糸。

 魔道士にもいろいろいる。

 不細工な魔力を使うやつ。見てくれだけ美しいけれど、薄っぺらい魔法しか使えないやつ。でも、この魔法と魔力は綺麗だ。持ち主は、きっとよく考える人。そして、揺るぎない信念を持っている。


「……そう言えば」


 この魔力の感じ。どこかで感じたことがあると思っていた。


「ジルだっけ? あのおっさんに似てるな」


 アーウィリドの呟きと同時に、天井が砕けた。


「リッド!」


 悲鳴に近い声を、ジルはあげた。

 アーウィリドを包んでいる紫色のドームが、潰れていく。

 殺されることはあるまい。しかし、殺す気つもりかと怒号をあげたくなった。

 重くなりすぎた天井部分から壁が、見るも無残に砕け、その中に覆い被さっていく。捕縛のために使う魔力に、さらに魔力を足して重さを作るとは。我が父ながら、つくづく味な真似をしてくれる。

 ジルは今度こそ、馬首を返そうとした。

 あの魔力量に対し、どこまで有効かはわからないが、魔力を相殺して少しでも質量を削るしかない。さすがに軍師殿も、今度は引き返すを止めはしまい。

 父が、悠然と馬を寄せるのが見える。

 間に合わない。

 そして、焦燥するジルの前で、それは起きた。


 ドームの中から、新たな太陽が生まれた。


 そう思えるほどの、黄金色の奔流だった。

 ――太陽の神アーウィリドは、誕生したその瞬間、世界中の隅々にまで、光と温もりを与えたという。月の女神フェリノサはそれを見て、『弟こそ、暁の神にふさわしい』と、自らその座を降りたという。


 まさしく、太陽。

 

 消えていくドームの真ん中に立つ、彼の体には、黄金色の魔力が満ち満ちている。

 ただ見つめることさえ不敬に思えて、ジルは思わず目を逸らした。


 一方、ジゼルの方も別の意味で慄いていた。

 強いだろうとは思っていた。

 この程度の包囲網を破れなければ、彼らに先はないとも。

 しかし、まさか剣で魔法をぶった斬るとは。

 さすが、『遅れてきた少年英雄』レグルスの子、アーウィリド。


 紫色の、最期の一糸が風に紛れて、たったいま消えた。

 ――そして、時が動き出す。


「……ん?」


 自分を茫然とさせていた少年と目が合う。

「……あんた」

 自分を驚かせた少年の方が、なぜか驚いたように自分を見ている。

 動かなくては。いやせめて、何か言わなくては。

 が、ジゼルの体は、自身の意に反してどこも動いてはくれなかった。


「リッド!」


 前方を片づけたらしい、優秀な教え子がこちらに駆け寄ってくるのが見える。ジゼルは後ろに目をやった。マシューズが率いてくる予定の援軍はまだ遠い。それに、もはや無駄だろう。


「リッド、乗って!」


 赤毛のスナイパーを伴ってやってきた教え子は、アーウィリドに素早く手を貸した。赤毛の彼は、構えた弓をこちらに向けながら、しかし、結局彼はそれを引かずに、先に馬首を返した教え子の後を追った。息子の友だちが、こちらに軽く礼をしたのが見えた。息子は、ちらりとこちらを見ただけだった。――それでいい。

 そう考えたジゼルの耳を、雷鳴がつんざいた。

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