セレネと太陽
もうすぐ、この人たちともお別れ。
そう思うと、自然と歩みが遅くなった。
「セレネ」
先を歩いていたアーウィリドが振り返った。
「は、はい!」
「歩くの早いか? それとも、少し休むか?」
セレネの歩みが遅れているのを、気遣ってくれたらしい。口数が少なくて無愛想だが、見ていないようで見ていてくれている。アーウィリドのこういう優しさが、セレネは好きだった。
「い、いえ。大丈夫です」
急いで、みんなに駆け寄る。
最初は――。最初は、ものすごく不安だった。傭兵団なんて、言葉には聞くけれど、自分とは遠い存在だと思っていた世界に行くことになるなんて。
あの人に、迷惑していたことも事実だったけれど、未知の世界に迷い込むことも怖かった。
けれど。
「アーウィリド・フォスだ。よろしくな」
十七になったばかりだという若い団長さんは、セレネが思い描いていた『団長さん』とは、全然違っていた。他のメンバーも……、まあ、クレイグは除くけど、やっぱり他の『傭兵さん』たちとは、まったく違っていた。
「なあ。あんたに聞きたいことがあるんだが」
「な、何でしょう?」
「女の子って、どんな生活してるんだ?」
「……」
セレネは思わず、黙り込んだ。
(どんな生活って……)
そう言えば、どんな生活なんでしょう?
セレネも十七才。いわゆるお年頃だ。が、同じ年頃の異性の生活になんて、興味を持ったことはなかった。
さすがにそれでは意味が伝わらないと思ったのか、ロッディと名乗った王子様みたいな美青年が、アーウィリドの言葉をフォローしてくれる。
「ま、例えば、化粧台とかいるのかとか、お風呂はどうしようとか。そういうことだよね? リッド」
「ああ。何せ、うち、オレが記憶する限り、一度も女がいたことないからな。さすがに部屋は別々にしないといけないよな」
「……リッド。そこからなのかい?」
ロッディの苦笑に、彼の弟たち二人と、若い神官さまが声を立てて笑った。
セレネが特に仲良くなったのが、やはり、クレスと名乗る若い神官さまで、次いで、物怖じしないジェスと、フェルが仲良くなってくれた。ロッディには、買い物などの身近な相談がもちかけやすかったし、みんなには生意気と言われるエリーも、年の離れた弟のように可愛かった。唯一、クレイグとだけはあまりおしゃべりしなかったけれど、彼は彼でセレネの存在をちゃんと認めてくれているようだった。だが、セレネが一番思い入れがあるのは、やはり、同い年のリッドだった。
近寄りがたいけれど、傍にいるとほっとする。
口数は少ないけれど、彼が何を大切にしているか、はっきりと伝わってくる。
そう、まるで太陽みたい。
いつの間にか、太陽を見上げるたび、セレネはアーウィリドの背中を思い浮かべるようになっていた。
セレネが、レグルス傭兵団の預かりになって、まだわずか三ヶ月。なのに、どうしてこんなに別れが寂しいのだろう。
「着いたぞ」
リッドの声で現実に戻ったセレネはしかし、それまでの寂しさが一気に恐怖に転じるのを感じた。
(あの人……)
最初に会ったときは、そんな人には見えなかった。神官様と世間話を交わす笑顔からは、怒ったときの激しさは微塵も感じられなかった。――でも。
「セレネ」
リッドがもう一度、セレネを呼んだ。
「大丈夫。オレたちがついてる」
エリクシルと、そして、ジルの顔を見る。
「……そうですね」
そう、大丈夫。あの人のことは、きっとリッドが何とかしてくれる。あの人と知り合う前の穏やかな、彼らのいない日常に、戻るのだ。
全員、礼拝堂へと足を踏み入れた。
「ザンビア神官! いらっしゃいませんか?」
礼拝堂は閑散としている。
「……おかしいですね。いつもここにいらっしゃるのに」
「奥さんの姿も見えないな」
アーウィリド達はきょろきょろと辺りを見回す。ザンビアという神官を直接知らないジルは、とまどいを覚えながらも教会内をぶらぶらと見回す。左右にカーテンがぶら下がっているのが見える。いま、右手側にアーウィリドたちが入っていった。左手側をさして、尋ねる。
「あの奥は行けるのかな?」
「ええ。準備室になってます」
「では、行ってみよう」
二人が足を踏み出したそのとき。
「ザンビア神官! しっかりして下さい!」
エリクシルの切羽詰まった大声が聞こえてきた。
セレネが俊敏な小鳥のように、さっと駆け出す。
「セレネ君! 待ちたまえ!」
一瞬遅れて、ジルも走り出す。ジルが追いつく前に。
まくられたカーテンの前、足を止めたセレネが悲鳴を上げた。
まだ、息はあった。が、助からないことは明白だった。ぱっくりと開いた首の肉と、泡を吹いている口。そして、聖職者の黒。死につきものの色にまみれた神官殿の顔は、すでに鉛色になり始めている。
「神官様、神官様! ああ!!」
セレネの嘆きに、一瞬だけ、神官殿が活力を取り戻した。セレネに、手を差しのべる。血まみれのそこに、ペンダントが一つ、乗っていた。口が、ぱくぱくと動いている。
「何ですか?」
エリクシルが口元に耳を寄せる。声にならない遺言を、彼は懸命に繰り返した。
「あ、あなたこそ……」
「セレネが? セレネが、何ですか?」
「わが、くにの……」
そこまでだった。目がぐるんと白目を剥き、体が仰向いた。それが、セレネ・ミラージの養父の最期となった。
「神官様、神官様、神官様!」
神官殿にとりすがろうとするセレネを、エリクシルが「いけません!」と止めた。そして、その手からそっとペンダントを取った。
「このペンダントに、見覚えは?」
「おい、せめて血を……」
そのとき、ジルの耳は確かにそれを捕えた。
かたん。
「! 聞こえたか?」
「ああ!」
アーウィリドと二人、さらに奥へと向かう。通路には、色んなものが乱雑に置かれていた。暗くて、不審者のマントの色もわからない。
「待て!」
不審者の向こうの明るさに目が眩んだ。次の瞬間、不審者は扉の向こうへ。そして、二人の進路は材木に塞がれた。左右に立てかけてあったものが倒されたのだ。
しかし。
「……」
「逃げられたな」
アーウィリドがきょろきょろと辺りを見回す。すでに、不審者の姿はない。
「リッド!」
後ろからエリクシルの声がした。セレネも一緒だ。
「何だ。お前らも来たのか」
「ええ。このまま何事もなかったかのように、通りに出て、そのまま砦に戻りましょう」
「殺人を、このまま放っておくのか?」
驚きを持って尋ねたジルに、エリクシルはきっぱりと言った。
「善良な一般市民としての義務を果たさないのは心苦しいですが、証言などで、このままこの町に留め置かれるわけにはいきませんから」
心苦しさを口にしておきながら、その実、エリクシルは何の痛みも感じてはいない。正しいとは分かっていても、そんな彼の冷静さが、ジルは少し腹立たしくもあった。
「セレネ、申し訳ありませんが、あなたにもこのまま一緒に来ていただきます。これでは、あのバカと話をつけるどころではありませんから」
セレネは答えない。というか、答えられる状態ではないのだろう。
「では、急いでここを……」
エリクシルが言いかけたそのとき、声が聞こえてきた。
「殺人だって?」
「犯人はまだ、この近くにいるらしいぞ!」
どうやら、さっきのやつに先手を打たれたらしい。
「急ぎましょう。……セレネ?」
セレネの足は、その場から動かない。ジゼルが彼女の顔を覗き込むと、焦点があってない。
「セレネ君、セレネ君」
肩を掴んで揺さぶってみるが、反応がない。あまりのショックに、惚けてしまっている。
「セレネ君、セレネ君、しっかりしなさい!」
何度呼びかけても。セレネは反応してくれない。
(くそっ。こんなときに……)
アーウィリドが、ふいに動いた。
「セレネ」
彼女の両肩に手を置き、力強く言う。
「大丈夫だ。オレを見ろ」
セレネの瞳に、光が戻った。
「……あ」
「あんたは、エリーを頼む」
「え?」
どういう意味かを問う暇もない。言うなり、アーウィリドはセレネを、決して屈強とも言えない己の肩へと担ぎ上げた。
「きゃあああ!」
セレネの口から、今までとは違った種類の悲鳴が上がる。
「ちょっと静かにしてくれ」
言いながら、アーウィリドは呆気にとられているジルの前で、近くの塀へと飛び上がった。塀にしゃがんだまま、ジルを振り返る。
「何してる? 早く来い」
無理だ。――とは、言えなかった。あたふたしながらジルは、エリクシルを抱え、塀を登る。
「走るぞ」
「いたぞ!」
後ろを振り返る余裕はなかった。エリクシルを抱えたジルは、とにかく走った。片方は少女を担いで、片方は子どもを抱えて、町中を走る行為の方がよほど目立つのでは、と思いついたのは。
「おつかれさまでした」
たっぷり十五分は全力疾走し、珍しくエリクシルが労いの言葉をかけてくれた後のことだった。呼吸はなかなか整わない。膝に置いた手は、なかなか体を起こしてくれない。
なのに、目の前の元気な少年と来たら。
「なんだ。これなら、オレが二人とも抱えた方が速かったかもな」
こんな素敵な台詞を吐いてくれる。
「……」
若さの違いとは、絶対に認めてやらない。
こんなのは、ついて行ける方がおかしいのだ。
「……君は」
負け惜しみを、言ってみる。
「ずいぶんと、足が速いんだな」
半分は嫌味だ。――しかし。
「まあな」
平然と彼は首を縦に振った。
「だって、大事だぞ。逃げ足。借金取りとかからも逃げなきゃならないしな」
「借金?」
「オレじゃなくて、クレイグとか、親父とか」
「……ああ」
納得した。
「それに、人生戦うだけが能じゃないしな」
悟ったようなことを言うアーウィリドに、ジルは真顔で言った。
「君にだけは言われたくない」
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